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身延相承書と池上相承書について
1
:
管理者
:2003/08/12(火) 07:39
スレッドテーマのご提案がありましたので、スレッドを立ち上げます。提案文は以下の通り。
最近、古書店にて買った本「謎の日蓮正宗・謎の創価学会」によると、身延相承書と池上相承書は後世に作られた偽書であると書いてありました。これは事実でしょうか。
2
:
苦悩乱者
:2003/08/12(火) 12:09
二箇相承について
本来ならば,実名の御僧侶の参加を望みたいのですが,叶わぬ望みでしょうか。私は正信会の御僧侶,正宗の御僧侶,他宗の御僧侶,数人と直接、間接にコンタクトしておりますが,御僧侶ともなると,戦国時代に譬えますと法門を携えた侍のような存在ですので,法門を語る時は,生きるか死ぬかの真剣勝負という気構えでなければなりません。信者さんに説法する時のような気軽さは無いと思えます。近年,(何百年前からか知りませんが)折伏を敢行する御僧侶を
風聞にも聞いたことがありません。ここは,直接顔を合わせないですむだけに,感情的になる事を抑えることが出来ます。どうか長年の勉学の成果を披瀝していただきたいと思います。
表題のこと,書名から判断して,反富士系の人の著作ですね。真筆が存在しないのですから,何を言われても仕方が無いと,私は考えます。大聖人様が,六老僧を定められました事は真実でありましょう。なによりも,大聖人様の御真意は「異体同心」にあることは何人たりとも疑う余地の無いことでありますから,それを破るような文書は遠ざけたほうが懸命かと私は思います。ただ,法門の上で正邪を決すべきものと思います。・・まあ,それが出来ないで居ることが厳然として有るということなのですが!!
「富士門流の信仰と化儀」(池田令道著・興風談所)p.462に次のような記述が載せられています。「少し細かい指摘になりますが,化儀抄や諸聞書に當宗の相伝書といわれる「本因妙抄」「百六箇抄」の両巻血脈がまったく引用されていないこと,「二箇相承」への言及がないこと,・・中略・・,いずれも日有上人が少しも触れていないことは,今後の有師研究の中でどう考えていくべきか,このことも問題として小さくは有りません」以上,
此処に,「二箇相承」と書かれているのが此の事ですね。
私としましては,真筆云々は気にしないようになりました。無いものはもう無いのです。復活させればそれは偽書になります。ですから「無いもの」にすがりついても,すがりついているのは自分だけ,きっちりと保存できなかった側に全責任があると考えます。話は少し変わりますが,諸経典は釈尊の真筆でしょうか?真筆主義者に証明していただきたい。聖書は「神」の真筆でしょうか?なぜ,大聖人様に対してのみに「真筆」を要求するのかお聞きしたいと思います。「末世法滅」と言う時代を少しは考えたことがおありでしょうか?真筆でも意味が解らなければ,その人にとって価値は有りません。偽書あるいは真筆でなくても,そこに御仏の真意を見出せば,それは仏説です。〔天台は,「若し深く所以あり復修多羅と合せるをば録して之を用ゆ,無文無義は信受すべからず」と判じたまえり〕持妙法華問答抄
3
:
ガンコ
:2003/08/12(火) 13:40
二箇相承については、すでにネット上においても諸先輩方によって議論されてきたことです。
日蓮一期弘法付嘱書については、聖滅27年に「興上一期弘法の附属を受け日蓮日興と次第」との日頂の文書があって、それが一期弘法抄の存在を示す最古の記録とのことだそうです。
してみると、開目抄などを身延曾存と呼んでおりますが、二箇相承は北山曾存ということになるのではないでしょうか?
このあたりのことを二箇相承偽書説を唱える方はどのように捉えているものか、ご意見をうかがいたいところです。
4
:
αβγδεζη
:2003/08/12(火) 16:21
ガンコさん
出戻り頂師の文書に記載されている程ならば、他の師達にも当然記載されている程、広く公開されていたものなのでしょうね?
そこで、他の方の文献を提示して頂けますか?
まさかわずか一つのみを以て、他の師が大勢いて尚何も触れていないが証明されるという発想が理解できません。
かえって不思議、訝しいとすら考えるのが当然と思えますが。
当然多くの者が触れるべき重大文献なのですから。
5
:
ガンコ
:2003/08/12(火) 19:04
αβγδεζηさん(←読めない)
いやいや、わたくしもよくわかっていないんですよ。
あなたの言う出戻りのニュアンスもよく存じませんが、ともかく聖滅27年には日頂師はすでに日興上人のもとにおられた・・・とすると、富士一跡門徒存知事には日頂を批判する文言があるから、もっと前に書かれたものということにもなるけど、はたしてそうだろうか?という疑問もありますし、よくわかっていないのです。
「だったら、偉そうに書くんじゃねえよ!」
「あ、どうも失礼しました」
6
:
Jルーカス
:2003/08/12(火) 22:43
>いやいや、わたくしもよくわかっていないんですよ。
>あなたの言う出戻りのニュアンスもよく存じませんが、ともかく聖滅27年
>には日頂師はすでに日興上人のもとにおられた・・・とすると、富士一跡
>門徒存知事には日頂を批判する文言があるから、もっと前に書かれたもの
>ということにもなるけど、はたしてそうだろうか?という疑問もありますし
>、よくわかっていないのです。
そんなこと無いでしょう。
「日興上人の日頂師批判文書がある」=「日頂師が相承を否定している」とは余りにも即断しすぎでは無いでしょうか。
「日頂師は興尊への相伝は認めて知っておるが、他の面でおかしな部分があった。だから、興尊は日頂師を批判した」とも考えられますよ。
7
:
ガンコ
:2003/08/12(火) 23:57
あっ、そうか。確かに日興上人はこと御法門に関しては厳格であられたから、なるほど、Jルーカスさんのご指摘もごもっともです。あらゆる角度から考えないといけませんですね。
8
:
αβγδεζη
:2003/08/14(木) 11:27
jルーカスさん
「日頂師は興尊への相伝は認めて知っておるが、他の面でおかしな部分があった。だから、興尊は日頂師を批判した」
と考えるに値する論拠はどういった所に見出せるのでしょうか?
9
:
Jルーカス
:2003/08/14(木) 13:19
>「日頂師は興尊への相伝は認めて知っておるが、他の面でおかしな部分
>があった。だから、興尊は日頂師を批判した」
>と考えるに値する論拠はどういった所に見出せるのでしょうか?
上記理由は大した意味はありません。
富士一跡門徒存知事において「興尊が頂師を批判していた事」は、確認出来ます。
また、頂師文書から「興上一期弘法の附属を受け日蓮日興と次第」と確認できますから、頂師は明らかに相承を認める文書を残している訳でしょう(日宗全より)。
①『頂師が「興上一期弘法の附属を受け日蓮日興」を認めている。』
②『興師は頂師を批判している』
上記、2つの事実を矛盾無く併存させるには、このように解釈させるしか無いと考えただけです。
10
:
ガンコ
:2003/08/14(木) 13:40
αβγδεζηさん(←読めない)
そうしますと、あなたは日頂師の文書じたいがあやしいとお考えなのでしょうか?
わたくしは難しいことは何もわからないので、聞きかじり読みかじりで書いているのですが、確かにαβγδεζηさん(←読めない)の考え方は一理あると思います。法華経における釈尊から上行への付属ということは、まさに法華経におけるひとつのクライマックスであって、それ抜きでは考えられないほど重要な儀式であります。そうした意味からすれば、日興上人への御付属はもっと大々的にやればよかったのではないか? という気もします。
もし、そうしていれば日頂師のみならず多くの弟子方が記録を残していたことでしょう。
しかし、それはひとつの考え方であって、事実はどうであったかは別であります。
他に記録がないからといって、直ちに日頂師の文書があやしいとはならないのではないでしょうか?
専門的にはどう判断されているのか、ご存知でしたら教えてください。
11
:
ジャンノレン
:2003/08/14(木) 14:26
諸氏の論議に横レスです。
Jルーカスさんが仰せの
>頂師文書から「興上一期弘法の附属を受け日蓮日興と次第」と確認できますから、
>頂師は明らかに相承を認める文書を残している訳でしょう(日宗全より)。
これは日宗全1-43頁に記載の「本尊抄得意抄副書」にある文書ではないでしょうか。公にというか
お金を出せば買える物ですから大丈夫だと思うのですが。ちなみに重須談所の初代学頭の寂仙房日
澄師は弟さんですが、頂師は興尊の教化筋の松野殿の長兄であったことも関係して正安4年(乾元)
3月8日に下総の真間弘法寺を日揚に譲って興尊に(重須在)帰伏しています。もともと重須地方出
身でしたから縁故者も多く、文保元年(聖滅36年)に重須の地にて66才で亡くなられています。
(正林寺過去帳伝)延慶3年3月14日に寂仙房日澄師(聖滅29年)が寂されていますので、その頃に
書された物らしいですね。余談ですが同年に日朗師が富士に来て居られます(3月8日)翌年には尊
師の御勘気が許されたりしていますので、興尊の胸中に何等かの思いがあったのかも知れません。
批判は批判、誤りを謝すれば通用も有りということで、謹厳実直の面ばかりが宣揚される興尊ですが
頂師を迎え入れられたり、寛容なところが垣間見えるではありませんか。
12
:
αβγδεζη
:2003/08/14(木) 17:41
がんこさん
私が怪しい、と思うところは、批判された頂師ですら知り得、また書き留められる相承書であるならば、他の方の文献に全く出てこない方があまりにも不自然である、ということです。
また当時の重須の研鑽態度を見ていても、あれほど盛んに色々な文献に対しての書物があるにも関わらず、ただの頂師の一文のみしか見ることができないわけですから、納得するだけの強さが見えないのも仕方ないと思うわけです。
そして日辰写本までの長い年月、一切どこにも出現した形跡がないことを考えると、どうにも・・・
13
:
Jルーカス
:2003/08/14(木) 18:54
αβγδεζηさん
>そして日辰写本までの長い年月、一切どこにも出現した形跡がないことを
>考えると、どうにも・・・
それは認識不足ですよ。辰師以前にも・・・
①頂師「本尊抄得意抄副書」
②順師「日順阿闍梨血脈」
③順師「摧邪立正抄」
④〜⑩まで後略。
以上のように辰師以前にも10個の文献が残ってますがから、
貴殿の云われる「一切どこにも出現した形跡がない」と言うのは違いますね。
14
:
αβγδεζη
:2003/08/14(木) 19:34
すみません。
詳細情報を教えて頂けますか?
15
:
Jルーカス
:2003/08/14(木) 20:29
αβγδεζηさん
日頂師、徳治3,9,28 「興上一期の弘法の付属を受け云々」(本尊抄得意抄副書)
日順師、延元1,9,15 「日興上人は是れ日蓮聖人の付処云々」(日順阿闍梨血脈)
同 正平6,3 「日興上人に授ける遺札には白蓮阿闍梨と云々」(摧邪立正抄)
妙蓮寺日眼、康歴2,6,4「日蓮聖人の御付属、弘安五年九月十二日、同十月十三日御入滅の時の御判形分明也」(五人所破抄見聞)
要山16世日広、応仁2,10,13「日廣重須本門寺に詣で二ケ相承を拝書す」(大遠坊日是記)
左京日教、長享2,6,10「二ケ相承全文引用」(類聚翰集私)
同 延徳1,11,4「二ケ相承全文引用」(六人立義破立抄私記)
越後本成寺日現 永正頃「二ケ相承を引用、批判」(五人所破抄斥)
今川氏親 永正12,6,23「的々相承云々と記す」(重須本門寺安堵状)
要山18世日在 天文16,8,10「二ケ相承全文引用」(百五十ケ条)
以上が辰抄以前の二ケ相承についての記録です。
まだあるかも知れませんが・・・。
16
:
Jルーカス
:2003/08/14(木) 20:31
15<
辰抄以前は辰師以前と訂正します。
17
:
犀角独歩
:2003/08/15(金) 08:52
ここの掲示板は、わたしは気分として、投稿を控えることを決めたのですが、既に議論し尽くされたことが少しも活かされていないので、一つコメントを。
(1) 日頂師『本尊抄得意抄副書』を金科玉条の如くに扱っていますが、これをちゃんと『日蓮宗宗学全書』で見ましたか。ほぼ偽書の扱いです。興門の編纂者は誰人か、亨師その人でしょう。
そもそも、ある書の真偽を決定するのに、出す資料の真偽を基準にせず、議論すれば、正しい結論は出ないでしょう。資料とすべき資料の証憑性をまず論じるべきです。
また仮に『本尊抄得意抄副書』が真書であったとしても二箇相承を示したものであるとは言えないでしょう。歴史に登場する順番が重要です。『本尊抄得意抄副書』が二箇相承以前に認められていて、その段階で二箇相承の文面がなければ、『本尊抄得意抄副書』をモチーフにして、二箇相承が創作されたと考えるほうが、よほど自然と言うことになります。
(2)日順『日順阿闍梨血脈』、この書の真偽はどうなのでしょうか。石山がこの書を真書と認めた場合、この書で言おうとする“血脈”は蓮興に違いありませんが、続きがあ、そちらに主眼があるでしょう。「日蓮−日興−日澄−日順」です。ここに目師は入りません。この書を以て二箇相承の意義、すなわち蓮興目血脈を論じることはできません。よろしいのでしょうか。
つまり、二箇相承と『日順阿闍梨血脈』を共に認めれば、それはつまり、重須檀所の蓮興澄順の血脈を認めることになるので、石山の唯受一人血脈論は崩壊することになります。これは二箇相承肯定論以前の問題でしょう。
なお、『五人所破抄見聞』は祖滅99年の書とされますが、この成立年代には既に異論が出されています。また、この書が真書であったとしても「弘安五年九月十二日、同十月十三日御入滅の時の御判形分明也」という文面を持ってきて、二箇相承創作のモチーフとしたという仮定は成り立ちます。
まあ、ご参考までに
18
:
ガンコ
:2003/08/15(金) 12:43
あっ、犀角独歩さんではありませんか!(仰天)
19
:
ガンコ
:2003/08/15(金) 17:37
犀角独歩さん、お元気そうでなによりです。
しかし、なんですね、みんなおっかなくて引いてしまったようです。生態系を破壊してはいけません。結局じぶんも生存できなくなるのですから。
二箇相承については、「もともと偽書だったものが紛失した」という可能性が濃厚だとおっしゃっているように聞こえます。もしそうなら、富士門流ってなんとも間抜けな教団です。もうこの一点のみで信仰する気力が失せてしまいそうです。逆に今日まで相承書が残っていたとしたら、それはそれで真っ赤な偽物であることがわかってこまっちゃうんでしょうかね。しかし、日興跡条々事のように正本が残っていても色々と言われちゃうんだから、どっち転んでもそういう風に言われちゃう運命なんでしょうか?
わたくしには真贋を判断する能力はありませんが、そこそこ常識的な思考はできると思っています。まず、日頂の「興上一期弘法の附属を受け日蓮日興と次第」が先行するとの独歩さんの判断は、もちろん可能性として考慮すべきとは思いますが、どちらかというと否定に躍起になっている印象を受けるのです。ええ、もちろん、わたくしどもは逆に正当化のために躍起になっているわけですから、こうした主観を述べても仕方がありませんけど、では、いったいに日頂師はどこから上記の言葉を引っ張ってきたのか? という疑問があります。わたくしはなるべくオリジナルの文章を心掛けているのですが、意識無意識を問わず、その人の語彙というのは必ず何らかの外部からの影響を受けているものと考えられます。ですから、一期弘法抄よりも日頂文書が先にあったとして、さらにそれよりも先行する何がしかの文書がなければ日頂師はどうしてその言葉を知ってらしたのか? という考え方も成り立つと思うのです。
また、日眼の五人所破抄見聞の「日蓮聖人の御付属、弘安五年九月十二日、同十月十三日御入滅の時の御判形分明也」だって同じです。すでにこの時点で、弘安五年九月十二日付と十月十三日付の御遺文が存在していたから、それを書いたまでのことではないのでしょうか? まさか、日眼の妄想ということはないでしょう。必ずこれに先行する文書が存在していたと考えるほうが自然かと思います。
つまり、独歩さんの言葉を借りれば五人所破抄見聞のモチーフは何か? 本尊抄得意抄副書のモチーフは何か? 結局さかのぼっていけば一期弘法抄に行き当たると考えるのが順当ではないかということです。
もっとも御相承書以外にモチーフと思われるような文献が出てきてしまったら、もう、かなりやばい状況・・・大石寺崩壊かもしれませんけど。
なお、日順阿闍梨血脈については宿題ということで・・・(たまりっぱなし)
20
:
犀角独歩
:2003/08/15(金) 19:53
> みんなおっかなくて引いてしまったようです
そんなことはないでしょう。
真跡ではありませんが「強敵を伏して始めて力士をしる」と言います。
> 生態系を破壊してはいけません。結局じぶんも生存できなくなるのですから
何を言っているのだか、わかりません。
> 二箇相承については、「もともと偽書だったものが紛失した」という可能性が濃厚だとおっしゃっているように聞こえます
まったく、そんなことは言っておりません。
資料手放しの印象だけで言えば、頂師・順師・眼師の筆とされる文書をモチーフにして、重須血脈の正当性を論じるために創られたものであると想像していると言っているのです。
> 富士門流…間抜けな教団…
別段、そうは思いません。
> そこそこ常識的な思考はできると思っています
まあ、そんなに自分を買いかぶらないことです。
> 日頂の「興上一期弘法の附属を受け日蓮日興と次第」が先行する…
もちろん、この文書を、後手とする可能性もあるでしょう。しかし、だからといって、二箇相承が真書であるというのは短絡です。
わたしが言ったのはそういうことではありません。もう1回繰り返しますよ。
真偽を証明しようとするときの証拠の真偽をまず問題にしなければ、証明しようとするものの真偽を証明できるはずはないということです。極端な場合、偽書を本物であると証明するために偽書を出すという愚を犯すことになるという指摘です。
そのうえで頂師文書は日宗全で偽書濃厚として掲載されているのに、その点を伏せて、恰も真書として証明文献としてあげるのは如何なものかという指摘です。
> 否定に躍起になっている印象を受ける
これはわたしに対する偏見でしょう。
二箇相承が本物であれば、本物でよいと考えます。けっこうなことでしょう。
ただ、富士門で言われる説明は、特に松本佐一郎さんの孫引き・受け売りで引用文献まで一緒というのはよろしくない。せめて、引かれている文献を日宗全で見るぐらいのことをすべきだと言っているのです。
ガンコさん、あなたの性格から類推して書きます。あなた、15に引用されている文献、すべて全文、読んだうえでわたしにレスしていますかか。でしたら、まあ、その姿勢は認めましょう。しかしもし、紹介されている切り文だけ読んで、ここに投稿しているのであれば、わたしは不真面目であると批判しますよ。
21
:
犀角独歩
:2003/08/15(金) 19:54
―20からつづく―
> 日頂師はどこから上記の言葉を引っ張ってきたのか?
ですから、この書が頂師の文書である証拠はなんですか。
> 五人所破抄見聞のモチーフは何か? 本尊抄得意抄副書のモチーフは何か? 結局さかのぼっていけば一期弘法抄に行き当たると考えるのが順当ではないか
別段、そうは思いません。
なぜならば、一期弘法抄と言われるものの全文が訥々と世に出始めるのは後代のことだからです。ただし、本尊抄得意抄副書、五人所破抄見聞の記述に何某かのモチーフはあったでしょう。それがなんであるかは興味深いですね。
> もっとも御相承書以外にモチーフと思われるような文献が出てきてしまったら、もう、かなりやばい状況・・・大石寺崩壊かもしれませんけど。
このような文書はすでに興師真筆として存在します。
『日蓮聖人御遷化記録』がこれです。
「定弟子六人事(不次第)」
とあります。
弘安二年10月8日の日付です。これは日蓮門下公式の記録です。
もし、このときに、その前月の『一期弘法抄』があれば、当然書き込まれると考えるのが、ガンコさんの言う「常識」というやつです。しかし、実際は、戒壇之漫荼羅のことも、富士戒壇のことも、興師唯受一人相承にも触れていません。ですから、それはなかった、後世の作り事というのが、一般で言われる常識的判断というものです。
また、常識的というのであれば、興師が代筆した『波木井殿御報』には
「所らうのあひだ、はんぎゃうをくはへず」
とあり、このときが9月19日。蓮師の体力は限界を迎えており、筆を持つ力は既になく、代筆はさせても、花押を書く力すら残っていなかったことが窺われます。それなのに、前後して二箇相承など書けるはずはないと考えるのが常識でしょう。まして、筆跡まで移したという書写(と言われる)字面を見ても、とても判形すら書けない状態の筆跡を移したものとは思えないわけです。こう考えるのが常識ではないでしょうか。
> なお、日順阿闍梨血脈については宿題ということで・・・(たまりっぱなし)
宿題を溜めるのはけっこうですが、ここで挙げられている文書は「蓮興澄順」血脈を肯定するものはあっても、「蓮興目道」を肯定するものはない、それは15で挙げられている文献を全文丁寧に読めばわかることです。ですから、二箇相承を真書であると証明できても、石山唯受一人血脈の肯定は別作業である、ひいては、いま石山門で言っていることは肯定したことにはならないという指摘です。まあ、切り文ではなく、引用文献は全文をしっかり読んでから“孫引き”すること、孫引きどころから祖先引き?ほど、繰り返し、人の言葉の受け売りを繰り返すことがないようにするべきですね。
ガンコさんは「わたくしはなるべくオリジナルの文章を心掛けている」とこう書きましたが、では質問。3に頂師文とされるところを引いていますが、これはあなたのオリジナルるですか。日宗全をひっくり返して、この全文を頂師の項を読んで見出したのですか。受け売りじゃないのかな。まあ、疑ったら可哀相ですが(笑)
しかし、ずっとロムしていますが、少しは進歩が見られ、うれしく思っていますよ。
長居はする気はありません。この辺で失礼します。それでは。
22
:
愚鈍凡夫
:2003/08/15(金) 20:16
犀角独歩さんへ。
「仏教再考」掲載の論文、貴重な資料にさせて頂いています。有り難うございます。
> まあ、切り文ではなく、引用文献は全文をしっかり読んでから"孫引き"すること、孫引きどころから祖先引き?ほど、繰り返し、人の言葉の受け売りを繰り返すことがないようにするべきですね。
その通りだと思います。有り難うございます。
暇な時で結構ですから、レスして下さい(犀角独歩のレスを望む人は沢山いると思います)。
23
:
愚鈍凡夫
:2003/08/15(金) 20:25
訂正
>暇な時で結構ですから、レスして下さい(犀角独歩のレスを望む人は沢山いると思います)。
ではなく、
暇な時で結構ですから、レスして下さい(犀角独歩さんのレスを望む人は沢山いると思います)。
です。悪しからず。
24
:
犀角独歩
:2003/08/15(金) 21:00
愚鈍凡夫さん:
お声をかけていただき、有り難うございます。
25
:
問答迷人
:2003/08/15(金) 21:16
五人所破抄見聞については、以前に、無徳さまへのレスの中で、妙蓮寺日眼の術作とは考えられないことを述べました。念のため、再掲させていただきます。
1380 聖滅99年 庚歴二年六月四日、妙蓮寺日眼の五人所破抄見聞については、妙蓮寺日眼師ではなく、西山八代の日眼師であり、年代的には1480年頃と思われ、(4)の、左教日教師と同時代と考えられます。根拠は、五人所破抄見聞の末文に有ります。
1 五人所破抄重須本奥に云く嘉暦三戊辰年七月草案 日順。(1328年)
2 応永廿二●正月廿九日。日代聖人御筆大事の書也可有る重宝也。太夫阿闍梨日円に授与す之を 日任華押 (1405年)
3 日眼見聞蓮山本の奥に云く。伝写本云 康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼在御判 (1380年)
4 日諦私に云く右写本は古抄本に●文字不分明なら或は朽破或は蟲食等不可ら称計す(乃至)吾門弟尋正本を云云。万治元戊九月十八日○。(1658年)
ここで注目するのは、年代が2と3とで、逆転している事です。これは有りえないことであり、又、2は西山第四代の日任師であることから、3は西山第八代の日眼師と取り違えたと考えるのが妥当であろうと思われます。そうすると年代は文明年間であり、左京阿日教師と同時代で辻褄が合う訳です。
26
:
問答迷人
:2003/08/15(金) 22:00
25をもう少し補足します。
著者とされている妙蓮寺日眼師の寂年は1384年です。ところが、この日眼師が見聞を著すのに使った五人所破抄は、末文によれば、1405年に西山第四代日任師が太夫阿闍梨日円に与えたものです。そうすると、日眼師は、太夫阿闍梨日円に与えられた1405年以降にタイムスリップして、五人所破抄を書き写したか、あるいは、その日任師の署名の入った五人所破抄を持って、1380年に戻って、五人所破抄見聞を認めた事になります。これはあり得ない。
ジャージルーカスさん、ご意見をお聞かせ下さい。
27
:
ガンコ
:2003/08/15(金) 23:36
独歩さん、どうもありがとうございます。
わたくしの念頭にあったのは、いわゆる「日蓮本仏論は恵心流中古天台法門をモチーフにして創られた」という意見でした。
つまり、日蓮本仏論での語彙と恵心流中古天台法門の語彙がきわめて類似しているとの指摘です。
であるならば、「一期の弘法」とか「本門弘通の大導師」とか、あるいは一期弘法抄の全体的な言い回しみたいなものが何かのまねである可能性もあるのかなあ、って思ったわけです。そうだとすると、まあ、よりいっそう偽書である可能性が高くなるなあ、と。がっかりですけどね。いずれにしても、いちばん最初に苦悩乱者さんがおっしゃってらしたとおり、御真蹟が行方不明である以上は何を言われても仕方がない、ということになるかと思います。
あと、ご指摘のとおり、わたくしは鵜呑み・受け売り・孫引き・祖先引き・切り文・その他もろもろ・・・でやっております。
現時点では御書しか読んでいないのです。しかも真偽についてはまったく判断できないので、いちおう大石寺版の御書に載っているのは真書と思っています。ちなみに学会版ではぜんぶひっくるめて御書としていたのに、平成新編では御書と相伝書と御講義を分けちゃって、二箇相承は相伝書のほうに入れちゃってる。ああ〜、これじゃあ、なかば偽書だと認めてるようなもんじゃない? と内心では思っています。
それから、独歩さんはファンが多いですから、ちょくちょくお出でになったほうがよろしいかと思います。
28
:
犀角独歩
:2003/08/16(土) 13:02
一点、修正のために、もう一度、投稿させていただきます。
20に「富士門で言われる説明は、特に松本佐一郎さんの孫引き・受け売り」と記しましたが、上述、二箇相承存在の証拠として挙げているのは山口範道師さんの『日蓮正宗史の基礎的研究』でした。この点を訂正します。著者の人格を貶す気は毛頭ありませんが、該当部分の記述は「研究」などといえる代物ではありません。こんな本をネタ本にし、それをそのまま、孫引きして二箇相承、上古の証拠とするのはまことに杜撰であると言うほかありません。
なお、二箇相承の、この上古資料の扱いとその証憑性については、1年前に既に論じ合っています。過去ログ『素朴な疑問』を参考にしてください。
あと、問答名人さんが、『五人所破抄見聞』の成立年代を挙げてくださいましたので、「日蓮聖人之御付嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也」の文は、教師の同時代、既に創られていた二箇相承をモチーフにした記述であると考えることができることになりました。
最後に、もう一度、ガンコさん
あなたが、わたしが紹介した“中古天台本覚思想恵心流口伝法門”を記すまでになったのは歓迎すべきところでした。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/hayasaka_001.html
しかし、
> いちおう大石寺版の御書に載っているのは真書と思っています
こう思っているうちは真相は見えてきませんよ(笑)
29
:
犀角独歩
:2003/08/16(土) 13:09
−付−
これは、むしろ日蓮本仏論のスレッドで紹介すべきかも知れませんが、
上述、紹介した早坂鳳城師の全文は、以下にあります。
日蓮本佛論の構造と問題点(一)
―恵心流口伝法門との関係を視点として―
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_133.htm
30
:
ガンコ
:2003/08/16(土) 16:26
問答名人さん、独歩さん
>あと、問答名人さんが、『五人所破抄見聞』の成立年代を挙げてくださいましたので、「日蓮聖人之御付嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也」の文は、教師の同時代、既に創られていた二箇相承をモチーフにした記述であると考えることができることになりました。
これならば、まさに御相承書を眼の前にして「御判形分明也」と書いたわけになりますから、つじつまが合うとは思います。
しかし、一点だけ疑問があるのです。
むかしの議論でも無徳さんがおっしゃっていますが、康暦二庚申年六月四日というのは1380年ですから、これをどう考えるかです。
名前が同じであることによる錯誤は、しばしば起こりうることです。しかし、年号と干支は間違えにくいのではないか? という疑問です。
もし五人所破抄見聞が妙蓮寺日眼ではなく、西山八代日眼の書き物だとすると、「康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼在御判」とは何のことかわからなくなります。
ようするに、名前が同じで勘違いしたとしても、 康暦二庚申年は間違いようがないのではないでしょうか? 似たような年号・干支であれば間違いもあるかもしれませんが・・・今日、各種証明書には生年月日が記されていて、なるほどわたくしと同じ日に生まれてまったく同じ名前の人はいないだろうな、と。つまり、名前と年号が一致していなければ、おかしいわけです。
最悪のケースは、名前が同じことを利用して、伝写の過程で誰かが西山日眼を妙蓮寺日眼に錯覚せしむるように年号を改竄した、ということなのでしょうか?
それとも、もっと他に考えようがありますでしょうか?
わたくしは、素直に「康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼在御判」でよいかと思うのですけど。
31
:
犀角独歩
:2003/08/16(土) 16:57
終わりにしようとするのですが、ガンコさんがなかなか好い質問をするので、疑問について記します。
> もし五人所破抄見聞が妙蓮寺日眼ではなく、西山八代日眼の書き物だとすると、「康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼在御判」とは何のことかわからなくなります。
これは本文に当たらないで、問答さんの書き込みだけ読むから、こういう疑問になるのです。該当部分をもう少し前文から載せましょう。
「五人所破抄重須本奥に云く
嘉暦三戊辰年七月草案 日順。
応永廿二●正月廿九日。
日代聖人御筆大事の書也可有る重宝也。
太夫阿闍梨日円に授与す之を 日任華押
日眼見聞蓮山本の奥に云く。
伝写本云
康暦二庚申年六月四日書畢
本化末弟日眼在御判」
わかりますか、「康暦二庚申年六月四日書畢」という節は、その2行前の「日眼見聞蓮山本の奥に云く」に掛かっているのです。つまり、「日眼が見聞した(大日)蓮(華)山(大石寺所蔵の)本の奥(書)に云く、(また)伝写本に云く康暦二庚申年六月四日書畢」です。
つまり、日限が見聞した蓮山本・伝写本には「康暦二庚申年六月四日書き畢(おわん)ぬ」と云っているというのです。つまり、この日付はいちばん冒頭の『五人所破抄』を写した日付を言うものでしょう。
それが重須日順の本では「嘉暦三戊辰年(1329)七月草案」だけれど、日限が見聞した蓮山本・伝写本では康暦二庚申年(1326)に書き終わっているとなっていると付記したものです。つまり、この日付は、日眼が『五人所破抄見聞』を記した日付ではなく、『五人所破抄』が書かれた日付を言っているものであると考えられます。
これならば、通用が採れるでしょう。
32
:
犀角独歩
:2003/08/16(土) 17:06
【31の訂正】
誤)「嘉暦三戊辰年(1329)七月草案」だけれど、日限が見聞した蓮山本・伝写本では康暦二庚申年(1326)に書き終わっているとなっている
正)「嘉暦三戊辰年(1328)七月草案」だけれど、日限が見聞した蓮山本・伝写本では康暦二庚申年(1380)に書き終わっているとなっている
33
:
苦悩乱者
:2003/08/16(土) 17:13
犀角独歩さん
私と一緒に,諸経典は,釈尊の真筆(直筆)か?という論争をして見ませんか。私は教学が無いのですが,なんとか頑張って見ます。
34
:
犀角独歩
:2003/08/16(土) 17:24
・先の引用文がやや不正確なので、以下に改めます。
「五人所破抄 重須本奥(書)に云く
嘉暦三戊辰年七月草案 日順
応永廿二●正月廿九日。
日代聖人御筆大事の書也重宝有る可き也。
太夫阿闍梨日円に之を授与す 日任 華押
日眼見聞 蓮山本の奥(書)に云く、『伝写本云 康暦二庚申年六月四日書畢』。
本化末弟日眼在御判」
―『五人所破抄』重須所蔵本の奥書に云うには
「嘉暦三戊辰年七月草案 日順
応永廿二●正月廿九日」(となっています)
日代聖人御筆大事の書です。重宝とすべきものです。
太夫阿闍梨日円に之を授与します 日任(華押)
(ところが)日眼わたしが見聞した大日蓮華山大石寺所蔵の本の奥書で云うには
「伝写本に記されているには「『五人所破抄』は康暦二庚申年六月四日書き畢
(おわっ)ている」(となっています)
本化末弟日眼(御判在)―
35
:
犀角独歩
:2003/08/16(土) 17:34
苦悩乱者さん:
> 私と一緒に,諸経典は,釈尊の真筆(直筆)か?という論争をして見ませんか…
では、管理人さんのご許可を得て、pundarikaへお越しください、ここでは会員制になっており、横槍のない議論が出来ますので。
pundarika
http://jbbs.shitaraba.com/study/3050/pundarika.html
しかして、シャキャムニがいっさい文字で教えを残さなかったことは周知の事実であって、この点は既に経典成立研究によって明らかになっております。この研究成果を否定するとすれば、文献学、考古学、科学的な知識と実務能力が必要となりますが、わたしにはその素養はありません。いくつかの研究結果を照会するに留まらざるを得ません。
苦悩乱者さんを何を論じ合われたいのでしょうか。この点を、まず、メールなりでご通知願えませんでしょうか。
それと、これははっきりと申し上げておきますが、わたしは議論はしても「論争」はけっしていたしません。争いからは何も生まれないからです。ですから、議論であれば、お受けもいたしましょう。
では、メール乃至 pundarika でお待ちいたします。
36
:
苦悩乱者
:2003/08/16(土) 17:34
犀角独歩さん
すみません,ご挨拶を忘れてしまいました。
苦悩乱者です。よろしくお願いいたします。
ご意見を荒々,拝読させていただきました。新しく造語をさせていただきますと「種脱相対門流」では無い旨,お見受けいたしますが,如何でしょうか?私は富士門流と言うより,先ほど造語をさせていただきました様に,「種脱相対門流」を名乗った方が,その立場をより明確にすることが出来るのではないかと思い始めて居ります。
37
:
苦悩乱者
:2003/08/16(土) 17:40
犀角独歩さん
>「論争」は決して致しません。
申し訳ありません。議論(むしろ語り合う)と言う意味です。失礼致しました。
それから,ネットでのこうしたやり取りは初めてですので,いろいろ手間取ることもあるかと思いますが,ご容赦ください。
38
:
苦悩乱者
:2003/08/16(土) 20:10
犀角独歩さん
メールを送らせていただきました。メールのやり取りも不慣れなので届いているか心配です。
39
:
犀角独歩
:2003/08/17(日) 06:27
【31の訂正】
誤)日限
正)日眼
苦悩乱者さん:
メールはたしかに拝受し、また、返信させていただきました。
管理人さん:
突然、お邪魔し、失礼いたしました。
40
:
犀角独歩
:2003/08/17(日) 14:23
篤志の方々から数通のメールを寄せられました。
それに基づいて、恐縮ながら、再度訂正します。まず、
「五人所破抄 重須本奥(書)に云く『嘉暦三戊辰年七月草案 日順』
応永廿二●正月廿九日。
日代聖人御筆大事の書也重宝有る可き也。
太夫阿闍梨日円に之を授与す 日任 華押
日眼見聞 蓮山本の奥(書)に云く、『伝写本云 康暦二庚申年六月四日書畢』。
本化末弟日眼在御判」
と括るべきであり、「応永廿二●正月廿九日」の日付は、26に問答さんが仰るとおりであろうかと存じます。ですから、
―『五人所破抄』重須所蔵本の奥書に云うには
「嘉暦三戊辰年七月草案 日順」(となっています)
応永廿二●正月廿九日
日代聖人御筆大事の書です。重宝とすべきものです。
太夫阿闍梨日円に之を授与します 日任(華押) ―
となります。
さて、以上34までの書き込みに対して、この次下の「日眼見聞蓮山本の奥に云く」のわたしの読み下しは間違いであると指摘を寄せてくださった方がありました。その方によれば、この箇所は「日眼著『五人所破抄見聞』(蓮山本)の奥書に云く」であるとのことでした。つまり、ここは
― 日眼・見聞−蓮山本−の奥(書)に云く、「伝写本に云く『康暦二庚申年六月四日書畢』。本化末弟日眼(在御判)」 ―
であると仰ります。現代語に改めれば
― 日眼著『五人所破抄見聞』(蓮山本)で云うのには「伝写本に云うのには『康暦二庚申年六月四日書き畢(おえ)ました』(とあります)本化末弟日眼(在御判) ―
ほどとなります。これは、その通りであろうと、ここに謹んで訂します。
しかし、ここで云う「伝写本」とは、やはり『五人所破抄』を指すわけであり、「康暦二庚申年六月四日書畢」が見聞述作の期日であるとは読めない点は動きません。ただし、他にも考えることはできるかも知れません。しかし、これは前文の「云」を受けるので、著者・眼師が見聞を結ぶ日付ではないことだけは明らかです。
なお、作者が西山・眼師であると思える最大の理由は、この奥書に出る名前からの類推でもあります。代師は興師を継いだ重須2代(蓮師から数えれば3代)ながら、仙代問答を経、西山へ。蓮興を加上して西山3代。任師はそれを継ぐ4代です。それら、西山の系譜を継ぐ原本に「末弟日眼」と記すとき、何れの末弟かと言えば、蓮興代と継ぐ西山上代の末弟と読むのはごく自然のことです。
しかし、この本を写し、さらに万治元年に文を書き加えた「日諦」とは妙蓮寺諦師であると思えます。この点に関連しますが「蓮山」をわたしは大日蓮華山と読みましたが、これには「妙蓮寺を蓮山と呼んでいるのではないのか」という難が寄せられました。この点については、さらに叱正を待つことにしますが、この難を肯定的にとらえ考え合わせると、この書の妙蓮寺における由緒と見えてきます。しかしながら、諦師は「称計すべからず 乃至 吾門弟は正本を尋ぬべし」と実に否定的であり、その前の眼師までの写本の際の書き込みとは趣を異にしております。もし諦師が妙蓮寺であり、この書が妙蓮寺眼師によるものであれば、このような文面にはならないのではないかと怪しめるわけです。
『五人所破抄見聞』を、山口さんの受け売りで、二箇相承、上古存在の金科玉条の如くに扱いますが、富要集を編した亨師は「眼記はもとより本末整正せず」というのであって、二箇相承存在を証左する資料としては、余りにも覚束ないものであると映じます。
以下、『付録』として、奥書の日付から簡単な年表を記しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1328 嘉暦 3. 7 『五人所破抄』日順草案
1380 康暦 2. 6. 4 『五人所破抄』伝写本を書き畢える
1415 応永22. 1.29 日任、日円に『五人所破抄』を授与
1658 万治 1. 9.18 日諦、『五人所破抄見聞』を写し「不称計」と注意を記す
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
たぶん、これで最後に出来ようかと存じます。重ねがさねお邪魔いたしました。
41
:
ガンコ
:2003/08/17(日) 15:38
あっ、だめですよ、独歩さん。
いちど乗りかかった船でしょう、スレッドが終了するまでいなきゃ。
おそらく1000回まで書き込めると思うので、MILD SEVENさんのようにコンスタントに書き込まないと終わりませんよ。
それが信仰者の信仰責任というものです。
前置きはこのくらいにして、独歩さんのご説明を拝見しまして、ますます謎が深まりました。
なぜ、すんなりと独歩さんの説明を理解できないのだろうと、いろいろじぶんの内面心理を探ってみたのですが、まあ、先入観というか固定観念というか思い込みというか、ともかく妙蓮寺の日眼師でなければならぬ、という考えに固執しているからなのかなあと、いちおうは思ってみました。
う〜〜ん、なかなか考え方を変えることは難しいものだなあ、と実感しております。
なんとか、おっしゃる意味は理解できましたが、かえって前よりも疑問を強く感じます。それはごく単純な疑問なんですけど、それだけに他に選択の余地がないと思うところです。
独歩さんのおっしゃるには、「日眼見聞」とは「五人所破抄見聞」ではなく「五人所破抄」を見聞したという意味で、「五人所破抄」の蓮山本は日付が康暦二庚申年六月四日になっていると“西山の日眼師”が確認して判形を加えた・・・という理解でよいかと思うのですが、そうすると不思議なことが起きるのではないでしょうか?
まず、日付がごちゃごちゃといっぱい書いてあるけど、日眼師はいつ蓮山本を見たのか書いていない。
というより、西山の日眼師は「五人所破抄見聞」を書いて、最末尾にいろいろと日付を書き込んでいるが、肝心の自著すなわち「五人所破所見聞」の日付をどこにも記していない。
これはかなり不思議かと思うのですが。
まさか、うっかり失念した、なんてことは考えがたいでしょう。もちろん、その可能性もなくはないでしょうけど。
通常、日付と名前と判形はワンセットであろうかと思います。
してみると、「康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼在御判」はワンセットに見えてしまうんですが、やっぱりわたくしの頭は固いんでしょうか?
42
:
犀角独歩
:2003/08/17(日) 18:39
ガンコさん:
わたしは、既に引退したんですから、そういつまでも留まるわけにはいきませんよ(笑)
> 信仰者の信仰責任
何を言っていますか。その信仰責任ぐらいのことは書き終えているはずです。
> …最末尾にいろいろと日付を書き込んでいるが、肝心の自著すなわち「五人所破所見聞」の日付をどこにも記していない
好いところに目をつけていますね。そのとおりです。
わたしが抜き書きしたところは、ですから、『五人所破抄』に関する覚え書きでしょう。
この書は本来、署名がないのだと思います。
第一、この書に署名があるとしたら、いちばん、最後にはきませんよ。本文の終わりに書かれます。末尾は
「誤りの甚しき者を乎 師敵対也法敵対也信受すべからず 南無妙法蓮花経」
で終わっています。もし、署名花押が記されるとしたら、この次行でしょう。
ここに「日眼 花押」と来るはずです。
それから、わたしが抜き書きした文となっていくことでしょう。
例えば、『申状見聞』では「南無妙法蓮華経日蓮大聖人代々等」という末尾文の次行に「日我 判」となっています。
しかし、この書では、その位置に、名も花押(判)もないわけです。これはつまり、冒頭に「五人所破抄見聞 釈 日眼 述」と書いてあることから略されているとも考えられますが、もしこの題と名の記述が後人の書き込みである場合、もっと大胆な憶測も記せます。そもそも眼師の本ではないかも知れません。眼師自身、書写した一人の可能性もあるのではないでしょうか。もちろん、これは憶測です。また、特に相伝や他見を意図しなければ、署名花押に及ぶ必要もないものと思われます。
ですから、最後に縷々記された経緯は、見聞の対象である『五人所破抄』に関する覚書以外の何ものでもないでしょう。
このような類例は他にも見られます。例えば『四信五品抄見聞』では末尾に
「(本初云)具に四信五品書の如し
長享元丁未十一十六之れを始む左京阿闍梨日教」
とあり、見聞の該当書のみに触れ、ここでも花押(判)は記された形跡はありません。
見聞というのは見て・聞くですから、『五人所破抄』であればその書を所蔵している人に見せてもらって、書写しながら、聞いたことも書き込んでいったものでしょうね。その見聞記録はそれなりに面白いものですが、ともかく、何より大切なのは、元の本、ここでは『五人所破抄』ということになります。ですから、その書について、最後にその所伝を記し置いたのでしょう。
ここまで記しても「康暦二庚申年六月四日」が見聞の日付と見えますか。
43
:
ガンコ
:2003/08/17(日) 20:35
独歩さん、どうもありがとうございました。
>ここまで記しても「康暦二庚申年六月四日」が見聞の日付と見えますか。
ええ、まだ考察の余地はあると思うんですが、ただこれ以上は「知ったかぶり」になりますので、なにしろ宗史など学んだことがないものですから、とりあえずもうちょっと勉強してから臨ませていただきたいと思います。まあ、いつになるかわかりませんが・・・
生意気申しますが、引退してもちょくちょく顔を出すのがよき先輩というものです。
44
:
孤独な迷子
:2003/08/18(月) 01:09
独歩さん、お帰りなさい。
お元気そうなレスを読んで、一人喜んでます。
(→変な日本語になってしまいました、すみません。でも、よかった。)
45
:
犀角独歩
:2003/08/18(月) 05:50
孤独な迷子さん:
いやいや、お帰りではなくて、ちょっと、記しただけです。
pundarikaでお会いしましょう。
ガンコさん:
研鑽を期待します。それでは。
46
:
ミトラ
:2003/08/24(日) 05:46
スレットありがとうございます。
はじめまして、ミトラです。
私が提案しておきながら、 その後、スレットが出来たのを
知りませんでご挨拶が遅くなりました。
みなさまのお話は専門的?なので私などついていけないです。
って、提案しておいて、私の知識不足を知ることとなりました。
身延相承書と池上相承書について、その本によりますと
池上相承書などは、日蓮聖人没日の日付になっていて、とうてい
書けるはずがないとありました。そんな重要な書ならば、もっと
前もって書いていて当然であるとも。
まあ、そんなようなことが書いてありました。
ちょっと余談ですが。
ミトラとは、ミトラ教からとりました。
発音から察しがつくでしょうか、ミトラ→マイトレーヤ→弥勒
という流れです。参考まで以下ページなどおもしろいです。
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakf907/extra006.htm
47
:
愚鈍凡夫
:2003/09/19(金) 19:44
「二箇相承」肯定論の方々へ。これを読んで元気を出してください。。
『二箇相承』紛失の由来答
http://gappo.cool.ne.jp/yowa/5904/5904.htm
西山蔵の写本の写真付きです(小さいですが)。
http://gappo.cool.ne.jp/nyumon/gosyougai/nyumetu/nyumetu.htm
セイノッ ⊂(^・^)⊃フレー \(~0~)/フレー
48
:
空き缶
:2003/09/20(土) 02:41
空き缶です
二箇相承が偽物ということは、日頂上人の「本尊抄得意抄副書」(佐渡世尊寺に写本のみ有り)も偽物でしょうか。
また「素朴な疑問」でもあげましたが、日順阿闍梨血脈(真筆?:重須本門寺)も同類ですか。
49
:
愚鈍凡夫
:2003/09/20(土) 13:53
飯も食ったし、そろそろ・・・・・。 (^▽^;)
空き缶さんへ。
要するに、五一相対の立場から日興師に正統な流れが存在すると言いたいのですか。
ならば逆に問います。
空き缶さんの説ならば、重須には『二箇相承』と呼ばれる天下御免の相承書が2通も存在するわけでしょう(当時という意味)。日順師は興門正統説を唱えるのに、何故これらの文証を引用しないのでしょうか。
『二箇相承』の言葉すら『日順阿闍梨血脈』ないのは何故でしょう。更に、言葉はなくとも、身延、池上の相承の次第の説明があって当然だと思うのですが、それすらないのは何故でしょうか。
それと、『二箇相承書』を真蹟とするのには、下記のハードルを超えなければなりません。
どうか空き缶さん、超えてみてください。
①身日蓮大聖人は湯治のために9月8日に身延山を発っているに、身延不在中の筈の9月13日の日付が何故、身延在中執筆を示す(大石寺版御書底本の日辰本で言う)身延相承書中に有るのか。
②現行の大石寺平成新編と左京阿闍梨日教書写本とで何故、身延相承書と池上相承書の双方の題と内容が入れ替わっているのか。
③日辰本の「身遠山」の「遠」字の写しが間違っているは何故か。蓮祖は多くの遺文に、正しく「身延山」と書かれている。
④
「 定
一、弟子六人の事不次第
一、蓮華阿闍梨 日持
一、伊与公 日頂
一、佐士公 日向
一、白蓮阿闍梨 日興
一、大国阿闍梨 日朗
一、弁阿闍梨 日昭
右六人は本弟子なり仍て向後の為に定むる所件の如し、
弘安五年十月八日」
とあるのに、10月13日に、蓮祖が日興師に『池上相承書』を与えたことは、矛盾しないか。
⑤蓮祖→日興→日目が正統であるならば、『二箇相承』が重須にあったのは何故か。
今まで言い尽くされてきた疑問点ですが、このハードルを超えてみてください。
50
:
愚鈍凡夫
:2003/09/20(土) 14:12
>>49
:
訂正
誤→『二箇相承』の言葉すら『日順阿闍梨血脈』ないのは何故でしょう。
正→『二箇相承』の言葉すら『日順阿闍梨血脈』にないのは何故でしょう。
誤→①身日蓮大聖人は湯治のために9月8日に身延山を発っているに、身延不在中の筈の9月13日の日付が何故、身延在中執筆を示す(大石寺版御書底本の日辰本で言う)身延相承書中に有るのか。
正→①日蓮大聖人は湯治のために9月8日に身延山を発っているに、身延不在中の筈の9月13日の日付が何故、身延在中執筆を示す(大石寺版御書底本の日辰本で言う)身延相承書中に有るのか。
です、悪しからず。 m(_ _)m
51
:
犀角独歩
:2003/09/20(土) 15:28
> 空き缶さん:
二箇相承・本尊抄得意抄副書・日順阿闍梨血脈の真偽を何でまとめて問うわけですか?
それぞれ別々に考えるべきではないのでしょうか。
それとも、これは相承・血脈の脈絡で束ねて記されているわけですか。
以下は持論です。
二箇相承の真偽論はもはや問題外、わたしは偽書説を支持します。
二箇相承は少なくとも目師とは無関係です。その証拠は石山が自分で作っています。『日興跡条々事』に二箇相承付属の事実が書かれていません。本尊付属も大切かも知れませんが、同等に相承書も大切です。この点が何も書かれていません。もちろん、この書が真書であるなどというのではありません。条々が(誰が書いたかは別として)二箇相承に触れていない事実は目師に(その当時二箇相承なるものがあったかどうかも別として)付属されていない事実を自ずから語っていると言うことです。
また、なかでいう「国主」は今川氏、国主は天皇を言うものではなかった、「本門寺」を重須に指すことを前提にした創作であると思います。
そんなことから、北山が本門寺の安堵を受ける背景で作られた北山創作文書で、愚鈍凡夫さんも再掲されるように、石山とは無関係と当板で語り合ってきたことでした。
本尊抄得意抄副書・日順阿闍梨血脈を考えるとき、両書とも頂師に係るものであること、この点では共通していますね。前書は日宗全でも、どちらかというと偽書濃厚を前提に記載される書でしたね。
後者でいう血脈は、正確には「上行=蓮−興−頂−澄−順」で、ここに頂師が血脈に名を連ねています。この一点を採って、偽書とは言えず、むしろ、当時重須の人脈を表しているように思えます。その背景で“作られた”という段階で真偽論です。ここで副書を二箇相承の上古存在の証拠として挙げるというのであれば、この血脈譜も認めなければならないことになりますね。ここでも目師は外れます。
山口範道さん、『日蓮正宗史の基礎的研究』で都合の好いところで切り出して使うなんて“研究”の名に値しないとは先に記したことでした。
52
:
犀角独歩
:2003/09/20(土) 15:38
> 47
愚鈍凡夫さんは人が悪い(笑)
『二箇相承』紛失の由来答』「二箇相承を偽作としたい他山の人もいるが、それは問題にならない。当門流に大聖人以来の血脈相承がなされていること自体、二箇相承書は目前に存在していることを示すものである」
久方に大笑いさせていただきました。
よくまあ、こんな下らないことが書けるものですね。
『大日蓮』に載っているとなれば、石山の公式見解。こんなところの仕事をしていたなんて語れぬ過去の恥だと赤面してしまいました。
53
:
空き缶
:2003/09/20(土) 15:57
愚鈍凡夫さん
私は二箇相承偽撰論者ですよ。
加えて「本尊抄得意抄副書」「日順阿闍梨血脈」にも疑問をもっています。
日順阿闍梨血脈には「次に日興上人は・是れ日蓮聖人の付処・本門所伝の導師なり」と有りますね、ここがいまいちひっかかるんです。
真撰偽撰というか、順師の著作そのもへの疑問があります。
日頂師の書簡といわれる「本尊抄得意抄副書」には、日頂上人が二箇相承をみて日興上人に帰依したことが書かれています。しかしこれも写本しか伝わらず、真偽は不明です。
五一の相対も私は支持できません。御遷化記録の精神と反しています。
摘弟意識の違いは五一ではなく、それぞれに違いが有ったと思います。
54
:
犀角独歩
:2003/09/20(土) 16:05
> 53
横レス失礼します。
この見解にはわたしは賛同します。
なかなか各個人のお考えの全体を掌握するのはむずかしいと思いました。
この前提での下文信者さんですか。
55
:
空き缶
:2003/09/20(土) 16:12
独歩さん
「この前提での下文信者さんですか。」
そうなんです。大穴なんです。
56
:
愚鈍凡夫
:2003/09/20(土) 17:28
>>53
: 空き缶さん、了解しました。
ただ、空き缶さんのレスは、事情説明をされようとしているのか、自説を展開しようとされているのか、掴みかねるレスが多いのです。(ホンナ、バナナ! ワケワカメの世界) (^_^;)
ここの掲示板の何処でも構わないと思いますので、空き缶さんの主張を小論のような形でなくても構いませんから、纏まった文章にして投稿してくださいませんか。
そうすると、空き缶さんが何を言わんとしているのか掴みやすいと思うのですが。
57
:
れん
:2003/09/20(土) 17:46
私も二箇相承については、御書としては信用しておりません。理由はこちらの方々が言われておられる通りです。石山でも目師は勿論のこと、道・行・時・影・有師の文献に全く二箇相承について触れられていないのは不審です。さて、話は変わりますが、京都要法寺の故富谷日震師著「日興上人正傳」によりますと、身延に「弘安五年太才壬午八月三十日、付法第一智徳沙門日興授与之」とある蓮祖本尊が曽存したとのことです。この本尊は明治八年の身延の大火で他の蓮祖の真筆とともに焼失してしまったので、真偽を確かめられないのは返す返す残念です。
58
:
愚鈍凡夫
:2003/09/20(土) 17:49
>>52
: 犀角独歩さんへ。
あっ、どうもどうも。楽しんで頂けました。
有り難うございます。
「石山嘗めたらあからぜよ!! (▼▼メ))」
との天の声が聞こえるのは気のせいでしょうか。
59
:
空き缶
:2003/09/20(土) 21:53
自説について
まとまりがつくように、努力します。ご覧の皆様に分かりやすい、書き込みが出来るよう注意します。今日はちょっと仕事の都合で書き込みが出来そうにありませんので、明日以降でご勘弁願います。
60
:
愚鈍凡夫
:2003/09/20(土) 23:13
>>57
:
いったい、日興師は何幅の曼荼羅を授与されたのでしょうか。理由は何なんでしょうか。
身延曾存に信憑性を感じますが、「付法第一智徳沙門日興授与之」とは、何を意味するのでしょうか(ひょっとして、唯授一人血脈付法ってことでしょうかね?)。
京都要法寺の故富谷日震師は、いつ頃何処でこのことを知ったのか。
この曼荼羅授与にまつわる経緯が面白そうですね。
61
:
空き缶
:2003/09/21(日) 11:01
愚鈍凡夫さん
空き缶説?のまとめについては、もう少し時間を下さい。
北山本門寺に所蔵されている、「聖人等御返事」日興写本には「六人御弟子中下字給たるハ日興外無之」との気になる興師の添書があります。
「字、下し給たる」の「字」が二箇相承に書かれている一字一句を指すと、とらえたみかたも有ったみたいですよ。
これらの解釈は二箇相承に対する真撰か偽撰かの立場によってみえかたが様々のようです。
「付法第一智徳沙門日興授与之」の御本尊がかつて現存したとしても、日昭師にも通称「伝法本尊」の授与があったくらいですから、「高弟」の一人としての証明ぐらいに思っていればいいと思うんですが。
62
:
愚鈍凡夫
:2003/09/21(日) 15:09
空き缶さんへ。
お気遣いなく、時間のあいた時に書いて、気が向いた時に投稿下されば良いのではと思います。
ちょっと調べてみたんですが、
「一、甲斐の国蓮花寺の住僧寂日坊は日興第一の弟子たるに依て与へ申す所件の如し。
一、新田の卿公日目は日興第一の弟子なり依て与へ申す所件の如し。
一、富士の下方市庭寺の下野公日秀は日興が弟子なり依て与へ申す所件の如し。
一、駿河の国富士上方の河合少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し。
一、甲斐の国西郡小室の摂津公日仙は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し。
一、鎌倉の住人了性房日乗は日興第一の弟子なり聖人御遷化の後なる間日興書写し与ふる所件の如し。此六人は日興第一の弟子なり」
とあって、端から見てると、
「順不同なら最初に言えよなっ。誰が一等賞かワクワクしてたじゃねえか」 (▼▼メ)
なんて思ったりして(お前だけやって)。 (^_^;)
63
:
犀角独歩
:2003/09/21(日) 16:21
愚鈍凡夫さんと、たしか以前、話題にした
文永九年太歳壬申正月元旦 問答第一 行戒智徳筆跡符法の沙門日興に之を授与す (称徳符法の本尊と称す) 京都要法寺。
という漫荼羅がありましたね。
れんさんが挙げる漫荼羅の脇書も興味が惹かれますが、こちらもなかなかの賞賛と感じます。
ところで「付法第一」、「すると第二は誰?」と聞きたくなります。
唯授一人なら第一も第二もありませんからね。
付法第一というのは、「法をいちばん最初に付したのは日興、その次は…」という脈絡を窺わせます。「唯一」と言えば、たった一人でしょうか。
また、これら漫荼羅は付法の意味を篭められているとすれば、なんで、石山以外に伝わるのでしょうか。常識的に考えれば、「付法」と記された漫荼羅を所有する人こそ、その前師の「付法」を譲られた人となります。身延にあったとは、なんか笑いたい衝動に駆られるのはわたしだけでしょうか。「付法」を証する漫荼羅まで、まさか売買、あるいは譲渡されてしまったわけでもないでしょうね。
でなければ、その「付法」の書き込みは相承・相伝・血脈に係ることではなく、なんらかの法義、あるいは秘儀を授けたことを書き示しただけのものと言うことでしょうか。
相伝を伝える文献を他山の古写本に頼ったり、付法を伝える漫荼羅が他山にあったり、それだけで、相伝・付法の信憑性を一山に帰すわけにいかないと考えるのは常識的な類推と思えます。
64
:
犀角独歩
:2003/09/21(日) 16:33
愚鈍凡夫さん:
『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』の記述は順不同なんでしょうか。
重んずる順番に記されているんじゃないでしょうか。
冒頭の寂日房とは石山塔中寂日房の開基、そして、妙蓮寺開基の家師のことですね。
興師は、家師を目師より上席に置いていたということではないでしょうか。
65
:
犀角独歩
:2003/09/21(日) 16:39
【64の補足】
家師=華師です。
66
:
愚鈍凡夫
:2003/09/21(日) 19:18
犀角独歩さんへ。
小生は、最後の文の
「此六人は日興第一の弟子なり」
との、取って付けたような気配りを、順不同と考えたいのですが。
67
:
空き缶
:2003/09/21(日) 19:34
愚鈍凡夫さん
『小生は、最後の文の
「此六人は日興第一の弟子なり」
との、取って付けたような気配りを、順不同と考えたいのですが。』
なるほど、日興上人の心配りでしょうか。そういえば「宗祖御遷化記録」の「不次第」と書かれている個所も、どうみても(写真をみる限り)「後付け」と思われる書き込み方ですよね。
68
:
犀角独歩
:2003/09/22(月) 11:14
愚鈍凡夫さん:
通常、弟子を書き連ねるとき、それは法蝋の順位でしょうね。
遷化録もその順位になっていますね。
空き缶さんの「不次第」が後付、頷けます。
建治2(1276)年、目師は走湯山円蔵坊で興師から得度され、同年、華師は身延入山、二十家阿闍梨号を受けています。この差は歴然です。
69
:
愚鈍凡夫
:2003/09/22(月) 18:33
同じ、日興師の筆による『宗祖御遷化記録』が入門の浅い順で、『弟子分本尊目録』が日興師との繋がりの深い順ですか・・・・・。
蓮祖の本六と日興師の本六を一概に比較は出来ませんが、今一釈然としませんが。
個人的に、どちらも順不同で序列なしのほうが、遺恨を残さずにいいかなと思いますが。
70
:
犀角独歩
:2003/09/22(月) 18:50
愚鈍凡夫さんは、坊さんとの付き合いはないのですか?
順不同が遺恨なしという考え方は彼らにはないでしょう。
師弟子、入門の順位を喧しく言う社会です。
法要をやるのでも、その席順というのは厳しく決まっています。
法蝋の順位を常に意識しています。
本弟子六人の定で「不次第」としたいのは当の本人たちではなくて、その門下であったのではないでしょうか。
わたしは読み解けませんが、遷化記録の葬送次第の役割分担から、その弟子・檀那の序列がはっきりとわかるのではないでしょうか。
71
:
愚鈍凡夫
:2003/09/22(月) 19:06
日蓮宗の住職に知り合いはいますが、あまりこういった話はしません(一般人とは、地雷の埋まっている場所が違うもんですから)。
ただ、絶対的なカリスマ的指導者がいなくなった時のことを考えて「不次第」、「此六人は日興第一の弟子なり」との配慮がなされたのではないかと思うのです(取って付けた感じは否めないですが)。
72
:
犀角独歩
:2003/09/22(月) 20:33
愚鈍凡夫さんは、興師を、いまでいう民主平等主義者であったと考えているのでしょうか。
遷化記録の筆者本人である興師が兄弟子二人がいるのにも拘わらずに「不次第」と当人の意志で書いたとしたら、わたしは興師の性格を疑います。しかし、それが蓮師の考えであれば書記に徹したと言うことでしょう。
さて、どちらなのでしょうか。そこから、弟子分与帖の意味も考えられるのでしょうね。
73
:
愚鈍凡夫
:2003/09/22(月) 21:14
『宗祖御遷化記録』が弘安5年10月16日に記され、「日照(日昭?)日朗日興日向の四人の裏判之れ有り」(祖師伝)とありますから、偽造したのでなければ、「不次第」とは総意の上であると言えると思います。
ただ、その後、本六が宗門として纏まることなく、それぞれの道を歩き出したわけですから、日興師は平等主義の弱点を肌で感じていたはずです。要するに、絶対的な師がいなくなると、互いに支え合うことなく、各々の道を歩き出すということを。
それでも敢えて、「此六人は日興第一の弟子なり」とあるのは、平等主義を貫こうとしたのではないでしょうか(飽くまでも、日興師の筆であるとの前提ですが)。
この本六に対する平等主義は、日興師の意志ではなく、蓮祖の遺言だったのかも知れません。
そして、それを頑なに守ろうとしたのかも知れません。
74
:
愚鈍凡夫
:2003/09/22(月) 22:04
>>73
:の補足です。
平等主義の弱点として、扇の要がなくなった時、各自がバラバニなるといった弱点がありますが、逆に、危機感を持って1つに纏まる場合もあるわけです。
「不次第」が蓮祖の意志で、「此六人は日興第一の弟子なり」が日興師の意志であれば、後者を選択したのではないでしょうか(或いは、そう願ったか)。
75
:
愚鈍凡夫
:2003/09/22(月) 22:55
>>74
:訂正です。
誤→各自がバラバニなるといった弱点がありますが
正→各自がバラバラになるといった弱点がありますが
です。悪しからず。 m(_ _)m
76
:
犀角独歩
:2003/09/23(火) 08:49
愚鈍凡夫さん:
重ねて突っ込むようで申し訳ないのですが、
仮に6人を平等に扱ったとしても、多くいる弟子のなかから6人だけを特に選び出すのが平等主義といえるのでしょうか。
77
:
愚鈍凡夫
:2003/09/23(火) 09:54
皆さんお早う御座います。
犀角独歩さんへ
> この本六に対する平等主義は、日興師の意志ではなく、蓮祖の遺言だったのかも知れません。
集団指導体制を執り、一極集中を避けたという意味では、個々の責任分担に置いて平等なのではありませんか。
ただ、2つの遺文に出てきた短い文ですから、それだけで判断すべきことではないですし、推察の域を出ないことです。
違う言い方をすれば、10の能力が有る者は10の能力を発揮し、5の能力しかない者は5の能力を発揮する。つまり、能力に応じて自分の出来ることを存分にやる(適材適所という意味で)。そういう意味では平等なのではないかと思います。
これは、日蓮教団がそうであったという意味ではなく、そうであって欲しいということです。
78
:
犀角独歩
:2003/09/23(火) 10:28
愚鈍凡夫さん:
> そうであって欲しいということ
ということならば、わかります。
わたしは興師ほど、六老のなかで頑なな人はいなかったと思っています。
厳格主義者、勝劣主義者、その故の孤立とも見えます。
しかし、反面、その排他的とも見える姿勢であるからこそ、五老方に先んじて“日蓮宗”としての発想を誰よりも早く持っていったのだろうとも思えます。
その意味でまるで平等主義者とは見えないので、突っ込みましたが、愚鈍凡夫さんの願望として、論の展開であれば頷けます。たしかにそうあるべきだと思います。
79
:
三学無縁
:2003/10/31(金) 22:39
独歩さん
お久しぶりです。
興師の実像というか、わたしは、いまだにつかみかねています。
頑なな人だったのだろうとは思うのですが、融和をも忖度する
人でもあったのでは、と。
上足がたが、波木井氏の信仰や言動を非難して身延に参詣しなく
なったときに、興師は、波木井氏を庇う書状を書いています。
まあ、結局は身延離山したのですから、昭朗常師らの考えが正し
かったということになりますが、興師としては蓮師滅後の門下を
なんとか分裂させないように、と、当初は考えていたと思うのです。
以前、どなたかが言っておられましたが、
五一相対とは、日向VS五老僧
という考え方を支持するものです。
つまり、現在いわれている五一相対は誤りではないかと思います。
典拠となる「所破抄」「門徒存知事」の来歴と信憑性に問題はないだろうか、と。
ちなみに、日蓮教団が、天台宗から名実ともに独立できたのは、江戸時代に
なってからですし、それも神道によるお墨付きによるでした。
鎌倉方の「天台シャモン」の言も、現実に存在する日蓮門下集団を私度僧としない
ための苦肉の策と考えることはできないでしょうか。
80
:
犀角独歩
:2003/11/01(土) 15:32
三学無縁さん:
お久しぶりとご挨拶申し上げてよいやら、過日はまことに有り難うございました(これはこのご挨拶までで)
79にお記しのこと。
確かに仰るとおりであろうと思います。
空き缶さんにはお叱りを受けるかも知れませんが、わたしは六老方のなかでもっともはやくから蓮祖教学に新解釈を加えていった一人であると思うわけです。
その典型が御影信仰でした。(この点で愚鈍凡夫さんがこの御影を彫(塑)像ではなく絵像であると指摘された達観に舌を巻きました)また、その流れで、仏像撤廃、漫荼羅を拝むという儀も生じていったのかと想像をたくましくします。
三学無縁さんが「漫荼羅を拝んでいたのであろうか」と目から鱗が落ちる疑義を私に告げて下った日のことを終生忘れません。これは蓮師漫荼羅とは抑も何なのかという命題に強引に引き戻される強烈なパンチでした。
「天台沙門」という点については、わたしは「法華宗」の意味するところから、先に記しました。元来、法華宗とは天台宗を指すのであって、当時、法華宗とコミットメントすればそれは天台沙門にほかならないのではないのかという意味です。では「法華宗」が実質的に天台宗と分別されて(日蓮)法華宗として独自の地位を確立できたのはいつ頃から、案外、この辺がわかると興師/他五老の五一相対が言われるようになった時期が見えたりするのではないのかと勝手な期待を懐いたりしています。
たしかに私度僧という観点から見ることも可能ですね。
81
:
空き缶
:2003/11/02(日) 03:09
空き缶です。
最近随所で、私の名前(ハンドル)を見かけるようになりましたが、ここの皆様と比べますと教学研鑚がまだまだで、恥ずかしい限りです。
話は変わりますが、有師も化儀抄の中では「法華宗」という宗名を使っていると思いますが、いかがなもんでしょう?
日隆上人の影響でしょうか?
82
:
犀角独歩
:2003/11/02(日) 15:21
空き缶さん:
そこここに勝手にお名前を知るし申し訳ありません。
ただいま、わたし強烈なウイルス爆弾を食らい、データ用のコンピュータが死んでしまい、その修復に大わらわ、ついては文献資料などを提示できない有様です。故に隆門との脈絡はれんさん、愚鈍凡夫さんなどにお応えいただければ有り難く存じます。
けれど、書籍資料で、わたしが日蓮系の「法華宗」の呼称に疑義・興味を持ったのは、「比叡山延暦寺 沙門 圓信 記」の『破日蓮義』を読んでからでした。
原文が漢文体なので、そのうち、延べ書きにして自分のHPにアップしようと思っていますが、この冒頭から
「日蓮黨類所談法華経法門三國伝来様慥可申也
若無三國相承者 不可立宗名
汝號法華宗事 甚不可然
法華宗者 天台宗名也」
(日蓮党類は法華経法門の三国伝来のさまをたしかに申すべきなり
もし三国の相承無くんば宗名(法華宗)を立つべからず
汝法華宗と号すること、はなはだしかるべからず
法華宗とは天台宗の名なり)
― この延べ書きでよろしいでしょうか、顕正居士さん ―
とガツンと始まっています。概略すれば、(天台)法華宗の名を承けるために伝教師は海を渡り、大陸に赴いた。それ故、中国天台から「法華宗」の名を承うけた故にそれを名乗る。しかし、日蓮一党はその相承も受けず勝手に「法華宗」を名乗ることは甚だ不可である、こんな感じで始まっています。比較的読みやすい漢文体で、返点もあります。一読をお薦めします。
まあ、今の創価学会が「大聖人直結」とか言い、その継承を無視して、半世紀ばかりの歴史で、700年前の蓮師に繋がっていると言っているのを批判しているようなものです。
この書、面白い、読み応えがあります。
83
:
顕正居士
:2003/11/03(月) 08:37
独歩さん。
一行目の「所談」が抜けています。
日蓮党(の)類の談ずる所の法華経の法門は三国伝来の様をたしかに申すべきなり
二行目、三行目は「の」を送ったほうがよいでしょう。
もし三国の相承無くんば宗の名を立つべからず
汝の法華宗と号する事(は)甚だ然るべからず
日蓮法華宗も三国四師の「外用相承」を立てます。これは伝教大師の著述からの
「経巻相承」の意味でしょう。比叡山の師は俊範法印らしい(『日大直兼問答』)が
遺文には名がでてこない。「外用相承」は天台の正統に立つ意味だから、「教相」
の解釈は天台宗と同一土俵になる。だから江戸時代に談林が出来て自前で台学
をやる以前は学僧は比叡山に留学していた。
「日蓮はいづれの宗の元祖にもあらず」だからほんとうは「日蓮宗」というべきでは
ないが、天台宗と区別するために次第に日蓮宗を名乗るようになったのでしょう。
二つの法華宗が別の宗派であるといっぱんの人達にわかったのは天文法華の乱
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/tenmonhokkenoran.html
の以降だろうという人もいます。
84
:
犀角独歩
:2003/11/03(月) 09:30
顕正居士さん:
小生、相変わらず、雑駁な漢文読みをやっておりますね。
お恥ずかしい限りです。さらに勉学に励む所存です。
ご指導、有り難うございました。
85
:
顕正居士
:2003/11/03(月) 16:08
漢文の訓読というとこのスレッドに関係することがあります。
『一期弘法書』
http://gappo.cool.ne.jp/nyumon/gosyougai/nyumetu/nyumetu.htm
国主被立此法 者 富士山 本門寺戒壇 可被建立也
「国主此法ヲ立テラルレバ 富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ 建立セラル可キ也」と
日蓮正宗系の書籍では訓読しているとおもう。「本門ノ戒壇」はわかるが、
「本門寺ノ戒壇」とは何か?「富士山本門寺二戒壇ヲ」であるはずである。
伝教大師の1-法華宗公許 2-戒壇建立の順序から考えて、まず「本門法華宗」が
公許されて、その中心の寺院が「本門寺」と称する(延暦寺を「迹門寺」という意味)。
次に戒壇が勅許されて東大寺(爾前)、延暦寺(迹門)と並ぶ本門の戒壇となる
(園城寺の密教戒壇建立と同じ考え、というか真似である)。
『三秘抄』には
「勅宣並御教書を申し下て尋似霊山浄土最勝地可建立戒壇者歟」とある。
「霊山浄土ニ似タラン最勝ノ地」とは「本門寺」のどれかである。富士山のてっぺん
とかの意味ではない。『三秘抄』は富士派で作られた書ではない。だから、違うよ、
北山の本門寺の意味である。続く文も「可待時而已事戒法謂是也」(『三秘抄』は
「可待時耳事の戒法と申是也」)で、『三秘抄』成立後の創作だろう。
日蓮正宗系の書籍で「富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ」と訓むのは大石寺の戒壇でなくて
ならないからだが、変なよみ方が顕正会や本門正宗を発生させたともいえるので、
送り仮名一字、なかなか笑えないことが時におこります。
86
:
犀角独歩
:2003/11/04(火) 09:53
顕正居士さん:
富士山とは山号であり、本門寺は寺号であると考えればよろしいのでしょうか。
富士山本門寺との呼称は北山・西山。二箇相承は、その北山にあったとされる文書でした。となれば、該当はまさに北山本門寺。その「北山本門寺に戒壇を」という文意であるということですね。
いつも慧眼には驚かされますが、このご指摘も流石と申すほかありません。
> 園城寺の密教戒壇建立と同じ考え、というか真似
非常に不躾で恐縮ですが、質問をさせていただけますでしょうか。
富士系では、園城寺下文があったと伝わります。
この実否はさておいて、ここで「園城寺」の名が挙がる背景はご指摘の模倣と関係していると考えられるものでしょうか。
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