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法華経について
102
:
犀角独歩
:2006/05/02(火) 10:04:05
昨日、定例の松山俊太郎師『法華経講義』が開催されました。
この内容は、追ってご紹介させていただこうと思いますが、ご参加の一字三礼さんのご見識には改めて感心させられました。
今回は、ようやくと方便品第二に入ったのですが、ここで松山師がもっとも注目されているのは、「慧日大聖尊」(岩波文庫『法華経』上P78-L8)という羅什の訳でした。この原語は naraditya で、岩本訳では単に「人間の太陽(仏)」(同P79-L3)となっています。それを何故、これほど荘厳に訳したのか、というのが松山師の疑義でした。
これを受けて一字三礼さんが仰ったのは、ここで三請のはじめで、このあとの2回も「〜尊」という敬称を以て韻を踏んでいるのではないのかというご指摘でした。
すなわち、次が「法王無上尊」(同P82-L8)、その次が無上両足尊(同P84-L9)です。
妙法華…………正法華……岩本訳
慧日大聖尊……慧聖大尊…人間の太陽
法王無上尊……人中王……仏たちの最上の方
無上両足尊……仏…………仏よ
松山師も「なるほど」と頷かれていました。
もう1点。方便品における開示悟入は、四聖諦の苦集滅道に対応するのではないかというのが一字三礼さんご見解でした。
開・示・悟・入
苦・集・滅・道
この開示悟入につき、わたしが‘悟り’が‘入る’前にある点が面白いと一字三礼さんに話すと、「ええ、その点も四聖諦と一緒だと思うんです。滅が道の前にありますから」。なるほどと思った次第。
わたしが方便品で羅什訳、というより、訓読で気になるのは、十如是はさておいて、「世雄不可量」(同P70-L1)です。ここは一般に「世雄は量るべからず」と訓読されるわけですが、この理解は一般に、世雄のご威徳、悟られるところは量りがたいといったニュアンスでとらえられてきたと思います。しかし、わたしは、これはおかしいと思うわけです。ここで意味するところは仏の数は無量であり、その一切の仏を知ることは難しいということではないのかというのが、わたしの疑問でした。
該当する岩本訳は「偉大なる勇士(仏)は無量である」(同P71-L1)となっています。この該当梵文を松山師にご覧いただき、どちらの意であるかを判定していただきました。結果、やはり、原文は仏の数の無量をいうものであるとのことでした。
これを受けて一字三礼さんと話したことは
方便品は、冒頭より「百千万億無数諸仏」で始まり、「世雄不可量」「本従無数仏」という、無数の仏を想定していることによって構成されている
また、松山師の分類に依れば、第1期で成立した法華経の原典は方便品第2(Upayakausalya)から化城喩品を除く法師品第10(Dharmabhanaka)である
この法師品の結論部分は、まさに「若親近法師 速得菩薩道 随順是師学 得見恒沙仏」である
すなわち、一貫して無数仏を想定して構成された物語であるということです。
ところが、これが寿量品になると、六惑示現といったことで一仏に統一されていくというまったく違う構成になっているわけです。
一字三礼さん曰く「方便品の作者は、寿量品であんな展開とな流なんて、夢にも思わなかったのではないでしょうか」、尤もなご意見であると思った次第です。
いわば、方便品と寿量品とはまったく違う物語なのであって、しかし、天台はこれを本迹に大きな区別をつけることなく論じるところを、日蓮は本門思想を強調することになります。故に松山師は「日蓮はすごい」というわけでした。
いつもながら、実に勉強になった一夜でした。
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