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日蓮聖人の本尊観

134犀角独歩:2002/11/06(水) 14:21

上記に関連して「一躰の仏」について、少しだけ補足します。

この記述は『日順雑集』のうち、『法花観心本尊抄見聞』にあります

「聖人海の定木を以て一躰の仏を造り佐渡の国へも御所持・御臨終の時には墓側に置けと云云、小乗の頭陀釈迦の仏・瓔珞の衣を脱ぎ垢衣を着玉ひ鹿苑に来遊教化の御弟子無きは一人頭陀し玉ふ事なり、設ひ鹿苑教化の後も一人修行し玉ふ時は頭陀の釈迦なり」

お暇庵さんが「修行中を表す義」と記されたことは、この点と一致します。
不思議なことに修行像である点は富士で言われながら、海中出現船守寄進説に石山では落ち着いてしまっています。

私は131で、本尊抄と関連して記したことは、かなり冒険でした。
上述の文はその前に

「聖人は造仏の為の出世には無し本尊を顕んが為なり、然れば正像の時は多く釈尊を造れども本尊をは未だ顕さず然れば如来滅後未曽有大漫荼羅と云云」

とあるからです。ここでは漫荼羅本尊正意論から、修行一体仏像と対比しています。
しかし、この説明は先にも挙げた「寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の“仏像”出現せしむべきか」の仏像の二文字を、文字通り仏像読むべきであると考える私にとって納得のいく説明ではありませんでした。故に未来出現仏像は修行仏ではなくて久遠成道釈尊なのであろうと考えたわけでした。


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