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日蓮聖人の本尊観
121
:
犀角独歩
:2002/08/27(火) 19:57
LibraさんへPart2:
いま松戸さんの文章、ざっと目を通しました。
のっけから、
> 久遠仏は十界互具・凡夫即仏の原理を顕わす象徴的表現と観ていた
などと思いっきり書かれてあり、やはり私は「おいおい」と言いたくなりました。
凡夫即仏ならば、釈尊は凡夫なのでしょうか。それとも、法華経を説いたとする釈迦と日蓮という仏は同じ仏でも仏が違うと言うことなのでしょうか。Libraさんには悪いが学会臭いと思った次第。
まあ、確かに本覚論から言えば、そうかもしれませんが、この点は批正されるべき点であって、受け入れるべき点ではないはずです。なぜならば、天台釈と相容れないからです。
> 十界互具・一念三千の原理からは、釈迦も衆生も同じ九界即仏界・仏界即九界の存在構造を持っているはず
原理とか存在とか、こういう表現も学会臭いですね。十界互具・一念三千は原理ではないし、九界即仏界・仏界即九界も存在構造なんか持ってはいないでしょう。石田次男さんがもっとも嫌った学会教学でしたね。
どうして、こういう一々の言葉の使い方が、大先生でありながら、不適切なんでしょうかね。
十界互具・一念三千も、九界即仏界・仏界即九界も禅定止観における観念観法であって、原理でも存在でもありません。
こんな飛躍したところから始めるのではなく、丁寧に止観の原文を引き、天台はどう説いたか、妙楽はどうそれを解釈したか、本覚論ではどう変化したか、日蓮はどう展開したか、さらに恵心流口伝法門の影響ではどうなったかという一々の整理するべき点が欠落しています。これじゃまるで、天台が凡夫即仏を説いたような印象になってしまいます。
霊山浄土観に行く前に頭が痛くなりました(笑)
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