[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
日蓮聖人の本尊観
104
:
ワラシナ
:2002/08/12(月) 22:29
「現象仏と内面仏の二重内面」1
0、目的と意図
こういうタイトルで今考えている「日蓮本佛論の構造(草稿50枚、完成すれば500枚)」の荒っぽい紹介をして、これからも大石寺信心を細々と続けていきたい人の為に日蓮本佛論の持つ「柔軟な論理、控えめな誇らかさ」を示すことが役に立つと思ったから。
0−1、約二年前頃、寿量品の教主釈尊の顕本の持つ「一回こっきりの掛替えのなさ、希少性」と「最初から仏だった師匠としての先仏が無数に居るという本因妙解釈」とは矛盾すると思いその解消策に取り組んだが謎解きができなかった。なぜ疑問に感じたかといえば、師匠の教化をうけて修行していたなら、沢山居るというその一番古い師匠が最初の寿量品の教主釈尊になってしまえばいいんだ、なぜ遠慮するのか、と考えたからだ。矛盾に気が付いたとこまでは進歩だったが、だが宗祖が本尊抄でそこのところをどうけりをつけているかが全く解らなかった。それが、最近やっとわかった。それがタイトルに示されているアイデアで、宗祖は教主釈尊の佛身の三身性質を内面本質(報身内面佛)と外面本質(応身、現象佛)の二つの違った性質が一身で合体している者として捉えている、と感じたのである。さらに内面本質を二重(因行面、果徳面)に分け、塔中釈尊=現象佛(果徳面)と上行菩薩=現象菩薩(因行面)とが、この内面佛を共有したもの、としているのである。
「己心釈尊、無始古佛」とはその名前「己心」語が示しているようにこの内面佛の因行面に該当するものと考えられるのであった。
0−2、まだまだ考察途上で間違えているところが多いと思っているから、本気になさらぬよう期待いたします。また当然なぜどうしてなんだと追及されてもまともな答えが出来ないでしょう。
1、「最初で最後の唯一の現象的顕本仏」の「唯一性」を強調したところに宗祖の本尊抄が強調した釈尊観の特徴があると考える。そしてこの現象仏が必ずしも時系列上の極限過去としての「無始」語の意味での「無始古仏」語の意味と直接的同一ではないと思われるのである。
此処が微妙な処なので「乃至」語の役割を虚心に受け取る必要がある。
2、「統一」といった時、「何が何を統一したのか」が大事である。先ず私は「宗祖の寿量品の教主釈尊観を「最初で最後の唯一の現象的顕本仏」と解す。この「現象的顕本仏」語に宗祖の三身説解釈の特徴が見られる。
先ず、現象仏(=五百塵点成道仏)をその外面本質(応身)として、「顕本」の「本」を解す。そして、次には、その自身の外面性現象仏性に保持されている内面本質(報身)を特別に「本」として取り出す。此処で言った「本」は、「本から有った常住性質のものとしての」の意味である。このように意識して「本」を外面性応身と内面性報身の二種に分けて理解しているのが本尊抄である、と考える。
3、そして、現象仏としての外面性の方面は、とりあえず済んだ事として、内面仏としての智徳の輝き、精神仏の方面を特に強調したのが顕本後の「教主釈尊」語の意味である。
統一仏の統一とは何が何を統一したのかといえば無数の諸仏を現象仏として理解して、寿量品の教主釈尊までも現象仏としてみれば彼らグループと一緒に扱われてしまう現象仏性質たるを示した上で、それら彼ら無数諸仏全ての心の奥底に眠っていた「内面仏の方面を引っ張り出してそれによって外的本質が包み込まれてしまう事を示した事、この内面仏(報身)が開示される(顕本)という形で実現された統一の事を、普通、理顕本、報身顕本と言っている」と理解するからである。
内面仏(報身)の価値を強調したのが寿量品の教主釈尊観の真骨頂、と解するのである。
4、従って、寿量品顕本仏発生以前にどれ程無数の現象仏が先在していようとも、教主釈尊を内面仏と外面仏の異質な二方面の組み合わせで理解するやり方だから、寿量品説法というどちらかといえば後の方になってから内面仏の教主釈尊が登場してきて、内面本質の上での統一を果たしたとしても矛盾がない。
経典記述の史的順序性(=教相、現象仏の後の上行誕生の順序)を守りながら問題の本質を内面化解釈(=観心釈)の領域に移しているのが本尊抄、と考えるからである。(2へ続く)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板