[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
日蓮聖人の本尊観
1
:
管理者
:2002/07/30(火) 19:07
「オフ会 開催案内」スレッドにおいて、議論が沸騰しています。内容的に、仮に、「日蓮聖人の本尊観」と名前を付けて、別スレッドとして立ち上げます。提案趣旨は以下の通りです。
82 名前: いちりん 投稿日: 2002/07/29(月) 11:08
すばらしいやりとりが続いているので、学ばせてもらっています。
ただ、こちらのスレッドが「オフ会の開催」についてのものなので、あとから過去ログを読むときに、勿体ないなあと思いました。
63のドプチェクさんの発言あたりから、こういう流れになっているようですが、
63以降、別スレッドにしたほうが、やりとりがしやすいかなあと思います。
たとえば、『法華経』にみられる久遠仏と菩薩道みたいなテーマとか。
95 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/30(火) 16:10
それと、82でいちりんさんがおっしゃっていますように、いつのまにかこちらのスレッドの主旨から外れてしまいましたので、別のスレッドに移るとか、新たに立てるとかした方がよいのではないのでしょうか。
何だか私の発言から、徐々にこうなってしまったみたいですね(〜.〜;)。
大変勝手な事を申しまして、すいません。
2
:
管理者
:2002/07/30(火) 19:36
63 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/17(水) 23:50
かなり日にちが経ってしまいましたし、それに、本来こちらのスレッドにそぐわないお話なのかもしれませんけれど、少しばかり・・・
61で犀角独歩さんが掲載されました、『宗教の自殺』における梅原猛氏の記述。宗派・教団を問わず、多くの宗教指導者たち一人一人が重要な訓戒として、自らに言い聞かせなければならない事であると思います。また、梅原氏は『仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮>』(紀野一義・梅原猛 角川文庫 1997年)の中で、次のような事も述べられています。
・・・・・・
日蓮はしばしば、誇大な言辞を弄した人に考えられる。彼は、はずかし気もなく、「わ
れは日本の柱なり」とか、「われは日本国の大船なり」とか壮語する。しかし、その半面、
彼は「日蓮は日本一のえせ者なり」とかいうのである。私は日蓮のいささか誇大に見える
自己主張の背後にある自己にたいするきびしい問いを忘れてはならないと思うのである。
(P294)
私は、一度もその信仰がゆるがない信仰者を信ずる気にはなれない。私には真の信仰者
には、いつもおのれに向かっての内的な問いがあるように思われる。おのれの信仰がまち
がいであり、その信仰をおのれにも他人にも命じている自分は一人の詐欺師ではないかと
いう問いがある。「日本一のえせ者」とみずからいう日蓮の中にも、そのような問いがあ
ろう。しかし真の信仰者は同時にそのような疑いを克服する。そして彼はそのような問い
の中に、自己の思想をいっそう深くするのである。
(P295〜296)
いちりんさんが59でおっしゃっています事って、私が所属している某教団(こちらの掲示板は、特定の宗派・教団に対する批判が目的でないので、敢えて名前は挙げませんが)の人たちに、多いようですね。
少なくとも、私の知っているその手の人たちの日蓮聖人の御書や法華経・仏教の解釈の仕方には、どこか浅いところがあるとでも申しましょうか・・・ それのみならず、信仰以外の様々な事柄に対する彼らの考え方に接していても、とにかく表面的な事ばかりを捉えていて、そのもっと奥深いところに存在しているのではないのかと思われる、真実というものを追求しようとなどしない、あまりにも軽い印象を受けてしまうのですけれども・・・
無論、自省とか謙遜とかいった言葉とは無縁なのであり、独善や慢心の類がやたらと目立ちますね。
いったい、どこに目をつけているのか? 日蓮聖人の御書のどこを読んでいるのか? そのように首を傾げざるを得ないのです。もしかすると彼らは、御書を自分たちに都合の良いようにしか解釈していない、あるいは、不都合な箇所については、意図的に避けているのではないのか?と、思ってもみるのですが・・・
3
:
管理者
:2002/07/30(火) 19:37
64 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/18(木) 02:16
ドプチェクさん:
> 御書を自分たちに都合の良いようにしか解釈していない、あるいは、不都合な箇所については、意図的に避けているのではないのか
まったく、そのとおりでしょう。
御書根本というかけ声は自分たち根本の謂でしかないのでしょう。
結局、信仰者が説明する超越者というのは、その人自身の心象なのではないでしょうか。ここのところ、よく引いている『超能力と霊能者』のなかで高橋紳吾師は
大乗仏教における阿弥陀信仰のように、方便として帰依の対象が求められる。これは補助自我とみなすことができよう。それは超越的な形態をとっていても、もう一人の「自分」なのであるから、その「超越者」を「信じている」自分を調べる義務は、その個人にある。
(補助自我−自我のかたわらにあって、自我の充足を助けるもの。「ペット」や「わが子」のレベルから「思想」や「神」などの抽象的なものまである)P215
と記しています。
シャキャムニの教説は徹底して修道的なものであって、飽くことのない自己否定の積み重ねの末、ニッパーナ(自分自身の一切の考えを吹き消し、消え去ったところを到達点)とするものであるように思えます。それは執着の終着点であり、いわば、自己存在から決別と死の受容が重なり合うところの境地を目指すものであったのだと思うのです。
けれど、いまここで取り沙汰されている仏教といわれるものは、変革の末、(革命といってもよいですが)自分が他よりもこんなに優れて立派なのだというところが終着点になっていますね。人一人の命は地球よりも重いとか、宇宙生命と自分は一体であるとか(梵我一如を仏教と勘違い)、信仰の対象と、その信仰グループ・リーダーがともかく、だれよりもどこよりも、優れて最高、どこにも勝っているとか、そんなことばかりを言い続けているわけです。これは要するに、いかに自分が立派であるか、こんなにすごいのだということを証明するために強迫観念に基づく思いこみと行動である映じます。「超越的な形態をとっていても、もう一人の自分」なのでしょう。
私はここで戒壇の本尊、日蓮本仏論、国立戒壇論といった寛師以降の石山教学を、あるいは生命論と言った創価教学を徹底して批判をしてきました。それは、それを信じる人たちの顰蹙を買うものであり、私が恰も日蓮宗教学の煽動者であるような批判メールを送りつける人もいるのです。けれど、戒壇の本尊、日蓮本仏論、国立戒壇と寛師教学、生命論といった戸田・池田教学はかつての私の補助自我であったことを率直に認め、それを批判すると言うことは、ある面、徹底した自己否定を展開していることを看取している方は少ないのです。永年、積み上げてきた信行学とは、まさに自分自身の投影であるけれど、それを徹底して批正していくなかで見えてくるものは、実はシャキャムニの本来の教説でした。
高橋師が言う「超越者…補助自我…自分を調べる義務は、その個人にある」という点は、たぶん、絶対信仰を反省考証した人は誰しも、同じような思索の道程を辿るのであろうと思います。ドブチェクさんの言説のなかにも、私はそれを感じるのです。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板