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93
:
犀角独歩
:2005/02/04(金) 17:49:48
ROM専さん、はじめまして。
わたしへの問いかけですね。ちゃんと応じましょう。
引用されるところのスッタニパータを載せるサイトには、たとえば、以下のようなものがあります。
http://aireach.client.jp/vasetta.html
ここでいうバラモンは、しかし、「御僧侶」とはまったく関係がありません。
よく読めば、その点は理解できるでしょう。梵の言語に関する論功は、たしか以前、どなたがしてくださったと思います。ここに重複しません。唯、一点、書けばカースト制度(バルナ)における特権支配階級であるバラモンをここでは指すのではないということです。
また、大乗義に基づけば、正しい行いをすると「御僧侶」なのではなく、その業(カルマン)をなすところが菩薩道であり、菩薩様であるというのであれば、まだわかります。また、菩薩と言わないまでも、真の沙門(シュリマーナ=精進する者)というのであれば、納得がいきます。
僧とは、サンガのことで、原意は集団ということです。
http://www7.ocn.ne.jp/~jagannat/sunskrit/so.htm
侶もまた、同義であると解せます。そうなると、それに御をつければ、現代語で言えば「御集団」とでもなりましょうか。いずれにしても個人を指す言葉ではないでしょう。
真の沙門、真の菩薩、真の比丘(尼)などというのであれば、まだしも、「御僧侶」、どうもぴんとこない印象があります。なにより、日蓮宗僧の方に、「御僧侶」などと声をかければ、ぎょっとされるでしょう。この場合の尊敬語は、やはり、「上人」でしょうね。
それよりも、わたしが、「御僧侶」という言葉を聞いて直ちに気になったのは、現在の創価学会では石山僧を「坊主」と一般流通の出版物にも書いているからです。この対句が「御僧侶」であろうと思えたからです。
出版物、その他で石山僧=坊主という誤報が定着すると、学会員は一様に「坊主」を使いだします。わたしが学会にいた頃は、石山僧は「先生」でした。法華講は、そんな創価学会に眉をひそめ「御尊師と呼べ」と陰口をたたいたものでした。また、わたしが法華講であった頃、他宗の葬儀に出た折、導師に、何気なく「御尊師…」と礼を尽くしたつもりで、声をかけたら、「オウムの浅原じゃあるまいし、尊師はやめてください」と中啓を振られた経験があります。
他に例を採れば、たとえば顕正会では昨年暮れから、阿部さんを「阿部日顕」と呼び捨てにするようになりました。創価学会は破門後(学会の側から言えば独立後)、「日顕」と呼び捨てが公然化していますね。
まあ、どう呼ぼうと勝手ですが、その点を問題にしているのではなく、組織が言い出せば、それに直ちに右へ習いをする操作された姿は、どうかということです。
吉祥仙人さんが、沙門でもなく、菩薩でもなく、比丘でもなく、また「上人」でもなく、「御僧侶」なる語彙をなぜ選択したか、この背景は気になります。また、この経緯にはわたしが挙げたような区別・差別による称号差異も横たわっているわけでしょう。善いことをすれば「御僧侶」、悪いことをすれば「坊主」と言った具合です。しかし、その行い如何は別として「坊主」などという言葉を使えば、使った本人の品位を疑われることになるでしょう。また、「御僧侶」という語彙は、石山周辺では慣用語であっても、他日蓮門下では一般的ではありません。
尊称差異で区別するのは、わたしはあまり好ましいとは思わないというのが一点。もう一点は、尊称は的確に使ったほうがよいと思うのが一点。
吉祥仙人さんの斯かる投稿はけっして悪意ではなく、むしろ、善意であることはわかります。しかし、表現としては、以上、記したように幾重にも、あまり適切なものとは思えません。なにより、尊称、ないし職業・地位呼称で、区別するような在り方は、わたしのような特定信念体系集団から出たものにとっては、かなり奇異な印象を拭えないと言うことでもあります。
ROM専さんは、そんな同一信念体系のなかからご覧になるから、、わたしが感じる奇異さを、感じないと言うことではないでしょうか。
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