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問答迷人
:2005/08/16(火) 16:46:32
毎日新聞 記者の目
戦後60年、「小泉翼賛政治」の亡霊=牧太郎(社会部)
◇私的激情に、道理が埋没−−言論も堕落、危うい日本
政党人・小泉純一郎は「靖国」を“おもちゃ”にしている。衆院選を郵政民営化一本で戦うために終戦記念日の参拝を取りやめた。「平和と戦争の諸問題」は最も重いテーマなのに、彼はこれを人気取りの道具に使い、選挙になると決まって争点外にする。イラク派兵も、憲法も……そして、彼の「私的激情」が日本をアメリカの軍事的属国に仕立て上げていく。郵政は踏み絵。ぶっ壊す!の掛け声が、自民党を「誰も文句の言えない私党」にする。戦後60年。翼賛政治が亡霊のように頭をもたげた。
僕は60回目の終戦記念日を60歳10カ月で迎えた。戦中に生を受けたが、もちろん敗戦の記憶はない。正直に言えば、映像で「玉音放送」を聴き、「泣き崩れた人々の姿」を見ても、ドラマを見る感覚。今や日本人の大半が戦争を知らない。
1945年3月10日の東京大空襲。乳飲み子の僕を背負った母は「日本は負けた」と東京の下町を逃げ惑った。首都が焼け野原になって勝てるわけはない。
しかし、新聞は違った。被害は最小限に報道し、7月26日、連合国が「ポツダム宣言」を発表すると「敵の謀略宣言をあくまで排撃」と書いた。鈴木貫太郎内閣は正面から「排撃」と言わず「黙殺」と発表し、小さな記事を期待したが、新聞は大々的に報じた。連合国は「徹底抗戦」と判断、広島・長崎の原爆投下。非力な新聞が権力に過剰にこびを売り、大胆になっていた。
言論統制にもかかわらず、母の周辺では「負けてアメリカの属国になればいい」というやけっぱちな声が聞かれ始めていた。そのころ、昭和天皇は内大臣・木戸幸一に「戦争終結は一日でも早い方がいい」と述べられた。新聞に「冷静な勇気」が求められた時だった。
「玉音放送でホッとしたよ」という母の本音は「映像の終戦」とも違うし、新聞の「玉砂利握り締め 宮城を拝した涙」とも違う。
元々、市民の多くはかなり前から日中戦争を予感していた。昭和9(1934)年の大凶作。東北から若い女性が次々に身売りされた。当時の文献によると、芸者2300人、娼婦4500人、酌婦600人……僕の実家がある東京・柳橋の花柳界は“身売り”の受け皿。母は銭湯の便所に「おかあさん、助けて!」という“落書き”を目撃した。
東北の疲弊。姉妹が売られる矛盾に青年将校は「革新」を叫び、二・二六事件を起こす。内政の行き詰まりが日本を大陸に向かわせた。「誰に頼まれたわけでもないのに中国へ行った」と母は皮肉を込めた。
戦争には常に「大義」が用意される。近衛文麿元首相のブレーン「昭和研究会」は「日本が大陸に出ることで、新しい東洋文化を形成する」と信じたが、庶民から見れば、戦争は「東亜統一の大義」ではなく「実利」で起こった。経済、金融、エネルギー……戦争は限りない欲望で、限りなく人命を奪う。
政党と新聞は「大義」に追随した。40年9月の日独伊3国同盟締結に政党は混乱して、一党として反対することはなかった。新聞も意見する勇気を放棄した。政党と新聞は軍部よりさらに無責任だったかもしれない(海軍は当初、締結に反対した)。
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