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創価学会の功罪を考える
853
:
アネモネ
:2003/11/10(月) 21:38
845〜846
犀角独歩さん
>だから個人体験は「信心して良かった」のスレッドにでも投稿すればよいと促しているわけです。
そうですね。この点は、私にも大変な落度があったと思っています。実際に、沖浦さんに自己体験を語ることを勧めたのは、他でもない私でした。このような混乱を招いた原因は、無知な私にもあったものと、反省しているところでもあります。
このようなネットの場ではありますが、直接現役の創価学会の方と対話を試みたのははじめてでしたが、私の正直な感想としては、自分と自分の教団を客観視する意識というものが見受けられない。何度も書いたことですが、その罪過というものを感じました。
信仰というのは、自己陶酔の作用というのは大きいですね。それがプラスに働いて、何かの原動力になることは多いと思いますが、マイナスの作用、つまり弊害も大きいと思います。それは、社会性の欠如、エスカレートすれば、社会的孤立というものを招きやすものではないかと懸念されますね。
>社会心理学で言う「個人的リアリティ」は、あくまで主観に過ぎません。
本当にその通りだと思います。またそれは、そのまま信仰の落とし穴でもあるだろうと思いました。
>「境涯が低い」「程度が低い」などと激しく責めてきたのは沖浦さんのほうです。この批判に甘んじる理由はわたしにはありません。
当然のことと思います。傍で見ていても、決して快いものではありませんでした。
しかし、素朴な疑問ですが、いつも他者に対してあのような心持でいるということなのでしょうか。もしもそうだとすれば、社会適応そのものが危ぶまれるものではないかと思います。信仰が受け入れられないのではなく、そこで培われた人格が社会から受け入れられるものではないでしょう。集団的孤立とでもいえばいいでしょうか。なにかそのようなものを感じます。人間主義といい、庶民の立場といい、民衆の立場などと訴えながら、実際に社会における円滑な人間関係は困難なのではないかと思いますね。ここで起きたような摩擦は、決して珍しいことではないのではないでしょうか。
>他の方との激しい議論のなかで、証拠も提示せず、一方的に自己信念を押し付けるような横暴な態度
裏付けの示せない自己信念の断言は、単なる一方的な押し付けであり、とうてい議論にはなりません。時間とエネルギーが消耗するだけですね。
>自分も個人的な体験は語りきれないほどあります。しかし、その実否を考え直してみる必要がある、
私にはたいした体験がそもそもありませんので、だいたいの体験談は疑ってかかりますね。不思議だの奇跡だのといわれても、ほとんどピンときません。むしろ、私はかれこれ約三年前になろうとしていますが、この掲示板にたどりついた偶然のほうが、よほど奇跡に思えるくらいです。
だいたい、個人の信仰的体験談は、他の宗教団体でも同じような成功話や奇跡話が腐るほど語られています。となると、それだけでは正邪の証明には全くならないと思います。
ですから、私は、その人の思想性や人間性、そして人格や人柄、そういったところを見ようとしてしまいます。それにしても、そこを見る私に、真価をキャッチするだけの感性や感覚が備わっていないと、その判断もわかるものではありません。やはり、仏教でいうところの八正道が求められるところだなあと思いますね。
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