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創価学会の功罪を考える
840
:
アネモネ
:2003/11/10(月) 01:05
(つづき)
>自らの功徳の体験と、向上の見られない信心等には、何の値打ちも無いと信じております。
仰りたいことはわかります。ですが、ここでは、もう一歩進んで考えてみてほしいのです。
功徳とは何か、向上とは何かです。そのような根本的なところを、このスレッドでは考えてきているのです。
>何故皆様方は、自らの功徳の体験を通して蓮祖の法を語れないのか、と疑問に思います。
誰しも語れないわけではありません。それぞれに相応の体験はあるでしょう。しかし、真の日蓮仏法に照らして、本当の功徳とは何かということからここでは考え直してきているのです。
そもそも功徳とは、「積功累徳」ということで、徳が授かることではなく、徳を積むことのはずですね。功徳ということも、自分がどのような徳を積んだのかという話でなければならないわけです。
さらにもっと根本的なことも議論してきています。それは蓮祖の仏法とは、何であったのか、もしくは蓮祖が求めた仏法とは何であったのかといった、本当に根本的なところからの検証再考の議論なのです。
ですから、たとえば「創価学会は正義だ」といった、結論ありきから始める議論ではないのです。むしろ、「創価学会は本当に正義なのか?」という疑問から始める議論といってもいいかもしれません。
しかし、創価学会を絶対的に誇りに思う沖浦さんにとっては、そのような問題提起から始まる議論が、相容れず馴染まれないのだと思います。
しかしそれは、それでいいのです。ただ同じ問題意識を持つ者同士が集って、気持ちよく議論をすればいいことですね。そのようないわば同じ土俵に立てないうちは、議論にならないということだと思います。
>創価学会の功の部分は、私のような社会から見放された人間に生きる勇気と希望を与え、見事に蘇生をさせた所にあります。
個人的に沖浦さんのことを存じ上げているわけではありませんが、客観的にみて、このような社会的功績は確かにあっただろうと私は思っております。
ただ、それだけでは最高の教えだといえるものではありません。なぜならば、社会から見放された人を救ったはずの教団が、今度は、教団に属さない人々や、教団から離れる人々のことを蔑む心を育んでいることが見えてきているからです。そこを罪過として捉え、いかにして克服していくかということが、今後の課題といえるのではないでしょうか。
このことは、謝罪までされた沖浦さん自身の実際の投稿で明らかになったことともいえますね。
>私の周りには、同じような体験を持つ人々が何十人といます。
異口同音に自分が今日あるのは創価学会のおかげ、と感謝をしております。
ここに参加されている方々だって、同じような体験を持っていらっしゃることでしょう。それを、創価学会のお陰と思っているか、日蓮仏法のお陰と思っているか、もしくはもっと別のことを考えているか、創価学会=日蓮仏法とならなくなってしまった人もいるわけですから、それは人それぞれかもしれません。
だけど、日蓮聖人への思いは変らないのです。だからこそ、このような形で、ここに参加して日蓮仏法に触れているのです。その点での日蓮聖人への思いは、富士門流という枠組みにおいて、ここでは皆、心は同じだと思いますよ。
>この事実を、皆様方はなんと見られるのでしょう。
少なからず残念に思います。
それが、信教の自由というものですね。自由に信教の道を選んだ結果が、この掲示板の形に表れていると思います。
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