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創価学会の功罪を考える

825犀角独歩:2003/11/09(日) 09:51

アネモネさん:

「境涯が高まる」は日蓮仏教とは関係ありません。
「一流になる」にしてもそうです。両方とも学会の考えです。

このような考えは、入会していない人を「境涯が低い」と見下す差別生に基づくと取られますね。また、「一流・一流でない」という分別観は人間を尊卑、上下でみる差別生が既に胚胎していると、わたしには見えます。

もちろん、一流であることは否定されることではないと思います。
けれど、それは世間のことに属します。
一流への拘りから仏教を見れば、既に蓮師の教えに反します。
以下のような「御書」があります。

「名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり、嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし」

「一流などということは今生の飾りに過ぎない。自ら自惚れ偏って執着が強いのは、後生の枷(かせ)になるばかりである。ああ、恥じるべきである、恐れるべきである」ほどの意味となるでしょう。

ところで『如説修行抄』の真偽に触れられていますが、仰るとおり、真跡が残っていませんね。ただし、祖滅100年頃にまとめられたと思われる禄内に既に収録されていたようです。真跡主義からは採用はしませんが、名文ですね、たしかに。

この真偽は別として、もしこの御書を引用するのであれば、以下の部分を認めることになるでしょう。

「所詮仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり」

創価学会で言えば、「人」にはもちろん、戸田さん、池田さんも入るでしょう。
この明文は、日蓮文献主義が経(論・釈)で一貫している証左です。「人の言葉を用いてはいけない、仏の言葉である」というのが蓮祖門下不動の鉄則です。蓮祖門下を名乗るのであれば、厳守しなければならないでしょう。まして、この御書を引くのであれば、なおさらです。また、この御書には

「我等が本師釈迦如来」

と明言もされています。ところが日蓮本仏圏では御書中の「釈迦」は「日蓮」と読み替えて成り立ちます。これをわたしは蓮師の素意の改変と難じてきたわけです。

さて、教学的な話はさておきます。
アネモネさんの「常識」を、わたしは指示しますよ。


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