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創価学会の功罪を考える

730アネモネ:2003/11/07(金) 11:01
横レス失礼します。
>717で無徳さんが感じられているのと同じ感覚を、私も覚えます。
個人的にいえば、沖浦さんが努力をされて、名誉ある栄光を勝ち取られたことは、さぞかし誇らしかったことだろうと、心より賛嘆したいと思います。その言動力が、間違いなく創価学会の信心であったということも、まったく理解できます。

しかし、それが創価学会の正義の証明になるというものなのかなあ?という素朴な疑問は否めませんね。
ましてや、そのことが宗門が邪宗であるということの、何の証明になっているのというのでしょう。もしも沖浦さんにとって、こういうことが根拠や証明だと考えていらっしゃるとすれば、またそれが創価学会の宗教観なり価値観なりであるならば、そこが功罪として考えるべきところではないかと思います。
まあ、日蓮さんがいうところの、現証というものを意識されてのことなのでしょうけれども、となると、一流と呼ばれる人々は、この宗派以外の中にもたくさんいらっしゃるわけですね。シドニーオリンピックで金メダルをとったマラソンの高橋尚子さんは、他宗である真言宗で優勝祈願の祈祷をしてもらい、そのお守りを身につけて見事一位を勝ち取ったということでした。そうすると、あの金メダルは真言宗の正義が証明されたということなります。

私は、宗教の一流というのはそういうことではないと思います。
スポーツ振興を通して、世界各国との交流を深め平和を訴える、そういう意義がないとはいえないでしょう。しかし、そこでの勝負が、宗門が邪宗であることを証明せんがためのものであるというのであるならば、純粋なスポーツマンシップの精神からいえば、まさに邪な心とも解されるものではないでしょうか。これは、決して侮辱ではありません。価値観の問題です。私にはそのように思えるのです。
ただし、そのようなことが勝利への原動力となったということは、理解できます。

しかし沖浦さんが書かれているような価値観が、本当に創価学会の標榜する日蓮仏法の思想性や精神性であるというならば、宗教的精神性の意味合いからいって、私は疑義を感じます。

何を持って一流となるのか…これは、各分野で様々な尺度があることと思います。しかし、少なくとも、宗教観における一流というものは、地位や名誉や名声といったこと、いわゆる名聞・名利とは全く対極的にあるところの価値観ではないかと、私なんかは思いますね。
そこが、根本的に創価学会の定める価値観とは違うところなのではないだろうかと思われます。
結局、沖浦さんと議論が成り立たない根本はは、いつも価値観の相違という問題に尽きていくようです。あなたはあなた、私は私とは、個々においてはそれでいいかもしれませんが、宗教組織の価値観がいかなるものかということになると、社会的観点からいって、それではすまないでしょう。
創価学会が、どういったことに価値を創造し見い出しているのか、その根本的なところにおける問題があり、独歩さんへのレスにも書きましたが、そもそもそこが仏教精神から醸造された価値といえるものなのかどうか、そこに根本的な大きな問題があると思います。


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