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創価学会の功罪を考える

729犀角独歩:2003/11/07(金) 09:41

―728からつづく―

前後しますが、本仏論については、先頃、いわゆる凡夫本仏論というのでしょうか、松戸さん辺りがそんなことを言い出した。たしかドブチェックさんは高く評価された点です。これを学会外では創価学会の本仏論の解釈変更の兆しと見たのですが、講説者本人は学会から疎んじられたとLeoさんが教えてくれました。松戸さんが疎んじられた理由は池田さんにとって、凡夫本仏論は会長本仏論に変わる池田崇拝の基礎理論であるべきなのに、それが凡夫(=民衆)レベルに普遍化されすぎたためではないのかとわたしは見ます。

ともかく、凡本迹仏的な発想は、蓮師真跡にはまったく見られません、けれど、偽書濃厚の各御書では見られるところでした。これらは『秘密荘厳論』に典型を見る「一念三千=自受用身=出尊形仏」でそれがさらに「示同凡夫」論へと展開を見ますね。これを蓮師に契当して「日蓮本尊」を言ったのは有師でした。しかし有師の発想は蓮師を本仏と見るのではなく、末法今時の本尊とみることでしたので本仏論とは違っていました。しかし、程なく「日蓮本仏論」の濫觴と変わっていきます。実はこの時点で既に凡夫本仏論はあったとわたしは思えます。この場合、日蓮本仏は派祖本仏という興師崇拝の強調へと転化されることになります。これは嫡々相承から持住本仏論(歴代崇敬)を言う中世カリスマ信仰と見ます。これは石山一山の問題ではなく、中世以降の日本仏教の特性を反映したと見るほうが至当ではあると思えます。いわば、日蓮本仏論というのは派祖興師を継いで持住絶対をいう基礎理論となっている点は看過できないわけです。

しかし、たぶん、ここの掲示板などで真面目に考えてきた人、たとえば無徳さん(先の暫定スレッドでは失礼しました)などは、そのような派祖本仏・持住本仏論としてではなく、釈尊脱仏に変わる日蓮本仏という純粋な仏教崇拝の観点から言われるのでしょう。しかし、学会で言う日蓮本仏論は、これに指導者・集団・信仰者崇拝としての基礎理論である点で異なっています。

やや、説明が諄くなりましたが、では、従来、創価学会は、持住本仏の変形としての会長本仏という極端な逸脱を経、未だに池田崇拝というカリスマ信仰を残しながらも、先に挙げた「凡本迹仏」的な解釈へ変遷し、民衆仏法を標榜が始まっています。さて、ここでも、蓮祖直結というのであれば、蓮祖の教学を採るべきとは思えますが、実際は真偽未決書で展開される凡夫本仏論を基礎とするわけです。この変遷を功績と見るか、罪科と見るか、わたしは、やや冷静に考え始めています。


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