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創価学会の功罪を考える
728
:
犀角独歩
:2003/11/07(金) 09:40
愚鈍凡夫さん:
723のように、公式発表が180度変わってしまうことを、ここスレッドの「創価学会の功罪を考える」重要なテーマのひとつであると思います。戸田さんの国教化(王仏冥合/政教一致)・国立戒壇構想は、池田さんの段階で政教分離、民衆立へと180度、方向転換しました。昭和45年には言論問題、昭和52年度路線、そして、宗門からの破門/学会の独立は平成3年でしたか。
集団が方針/方向を変えるのはしばし見られる現象ですが、創価学会の度重なる方向転換をどう考えるべきか、これ自体は集団の自治権に問題です。ただ国法に基づいて宗教法人の認可を受ける以上、その運営は国法の範疇を超えるものであってはならないわけですね。それを踏まえるとき、王仏冥合から政教分離、国立戒壇から民衆立、言論妨害からその反省というスライドは、むしろ一般社会の親和性を高める方向転換であったと思えるわけです。社会から見れば、これは歓迎されるところであったろうと思えます。
ただ、ここで問題になるのは、顕正会が指摘するように、この改変が「蓮師の遺志と異なるもの」ではないのかという指摘となります。「創価学会の教学は果たして日蓮教学といえるかどうか」、ここのスレッド的に言えば、創価学会の教学解釈は蓮師教学を改変した罪科はないのか?ということになります。わたしはこの点においては大いに疑問があります。ただし、従来、石山で伝えられてきた教学は寛師で完成を見た日本仏論/板漫荼羅信仰であったわけですね。これが蓮師の素意かどうか、このことを当板では実に真剣に論じ合ってきました。いまはこの是非をここで論じません。ただし、「蓮祖直結」というのであれば、寛師教学によらず蓮師本人の教学観/本尊観に拠るべきではないのかというが率直な感想です。
それは置き、少なくとも後者の板漫荼羅信仰については、創価学会は解釈を変える方向にあります。今後、創価学会がどのような漫荼羅本尊観に持っていこうとしているのか、わたしはこの点を注目しています。いずれにしても、板漫荼羅安置の正本堂(国立>民衆立戒壇)を莫大な金を集めて建立した熱意は過去のものとなったことだけは事実です。当初は板漫荼羅信仰であった。しかし学会新会則を見れば「三大秘法の大御本尊」と変わっています。
今後の方向性は、ここにおける現役創価学会員の発言、たとえばLibraさんなどを通じて見る限り、記号論的とも言うべき漫荼羅観に変遷していると思えます。つまり、書かれている相貌によって本尊たり得るというような解釈です。ただ、これまた暫定的な経過途上であると思えます。
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