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創価学会の功罪を考える
583
:
アネモネ
:2003/11/02(日) 03:53
沖浦克治さん
>一人一人に功徳『功』として顕れてこそ、全体としての『功』となりうるのです。…
>ご理解くださいませ。
わかりました。
私が、スレッド提案の意図した方向性とは多少違ってはおりますが、しかし、ご説明の旨、私なりに理解することといたします。
これから私の書くことも、ご理解頂ければ幸いです。
>568で、沖浦さんは、とてもいい御書を引いてくださいました。
「不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
仏教徒の心掛けとして、最も忘れてはならないことだと思いますね。
だけど、失礼ながら、私には沖浦さんがこの場で不軽菩薩のお振舞いをなさっているとは、どうしても思えないのが私の正直なところです。
私が言うまでもありませんが、不軽菩薩とは、「我深く汝等を敬う、敢えて驕慢せず、所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と、たとえ自分を迫害をする者に対してでも、決して軽ろんじることなく一切の人々を礼拝した菩薩ですね。なかなかそのような振舞いは出来るものではありませんが、しかしそうはいっても、沖浦さんのここでのお振舞いは、まるで逆を心掛けたものとではないかと思われるところなのです。
たとえば私が今思い出す文言だけでも、駄目な人です、あなたには無理です、理解が足りない、境涯が低い、対話をしたくない、興味がない、関係ない…などなどの文言からいって、反論を受けるということにおいての不軽菩薩の姿はあっても、迫害する者に対して礼拝して敬い軽んじないという姿はほとんどといっていいほど見受けられず、むしろ見下していらっしゃるように映ります。私の錯覚でしょうか。
私にとっては、いくらお金が入ってきたかといったことよりも、人々に対してどのような振舞いをしているかといったことのほうが、教えの正邪の判断基準になると思うんですね。つまり、どのような人格を目指し、結果どのような人間性を示すようになったかといったことの方が、本当の意味での功徳の結果ではないかと思うのです。
前のレスに遡って恐縮ですが、沖浦さんが>504に書かれている方のこと、私は少しお気の毒な気がしました。
その方にどのような問題があったのかは、わずかな文面からはとても読み取れませんが、しかし見方を変えて考えてみれば、その方がもしも創価学会に関わっていなければ、そのような人生を歩むこともなかったのかもしれません。
ところが、沖浦さんのレスを読ませて頂く限りでは、理由はどうであれ、信心を退転した人が何らかの形で嫌がらせなどの制裁を受けることは、当然のことであり、自業自得だと言わんばかりのようにも読めてしまいます。
しかし、宗教が本来的に目指す人間の精神性とは、本当にそういうものなのでしょうか。
私は、そのような感覚には大変疑問を持ちますし、それこそ不軽菩薩の姿からいっても、人を裁かないのが、平和宗教の目指す精神性ではないかと、思うところなのです。
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