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創価学会の功罪を考える

346アネモネ:2003/10/24(金) 13:00
沖浦克治さん

今回は、大変長くなりました。ゆっくり読んでください。

>先ず200年後につきましては、戸田先生自らが『自分の正しい評価は死後200年たたないとなされないであろう。』
と言われた旨、池田先生のご指導より聞きました。

戸田さんがそれをどのようなときにどのような思いで発せられたのか、また池田さんがその言葉をどのような思いで受け止めて、どのような意図でもって信徒の方々に伝えているのか、創価学会に個人的な思い入れも共感もない私にはほとんどわかりません。
ただ、ある時代に何かを残した人の評価というのは、後世になって大きく変るということは確かにあるでしょうね。しかしそれのいずれが真実に正しい評価であるかは、時代の変遷の中で価値観も変っていくでしょうから、一概には定められないものではないでしょうか。
むしろ私は、真実の正しい評価は一つというものではないと思っています。敢えていえば、良い評価ができるところもあれば、できないところもあるということであり、そのようにみることが、公正で健全なものの見方ではないかと思っています。
だからこそ、創価学会の功と罪を検証してみたいということなのです。

>失礼ながらこの掲示板では、池田先生すなわち悪、との決め付けが先行しているように見受けられます。

そんなことはありませんでしょう。それこそ、そのように思いこんでしまう沖浦さんこそ、決め付けや偏見というものです。ご自分ではお気づきになりませんか?

>池田先生や、創価学会に対する公平な態度の欠如するところで、創価学会や、池田先生の功罪を論じても、私には無意味に感じられるのです。

私は法華講にいて、うんざりするほど、池田さんや創価学会の口汚いほどの悪口を聞かされて、ほとほとそれがいやで参詣が遠のいたようなものです。それに比べたら、ここの掲示板ではそのような誹謗中傷はなく、非常に科学的で冷静な検証と、そして公正な判断での事実の積み重ねがなされてきていると感じます。そうでなければ、私は常連と呼ばれるほどここに参加してはいません。

投稿者の方々の多くは、組織の立場や経緯は違えど、富士門の教団に対して真摯に問題意識を持っていらっしゃると見受けられます。そのうえで、功と罪を見ている、また見ようとしている方々ですから、そこが組織の枠組みやしがらみを超えて共通する認識の立場ではないでしょうか。非常に有意義なことだと思っています。

しかしまあ話しを戻しますと、学会は学会で聖教新聞などの媒体の見出しなどからして、宗門や日顕さんのことを宗門と同じように口汚く言い、場合によっては、個々の家庭では呪いのような唱題もしていると聞いています。それが本当ならば、どっちもどっちの境涯(境界)といえるでしょう。お互いに近親憎悪の修羅界ではないでしょうか。どこに違いがあるというのでしょう。
そのような泥仕合の渦中にドップリ日々つかっていれば、それこそ人間性が歪められ、感覚は次第に麻痺していき、とてもじゃないですが、自分の組織を冷静に客観視することなど出来るものではありません。
失礼ながら、沖浦さんの投稿から拝見すると、まさにそのような状態に陥っていらっしゃるのではないでしょうか。そういうことがお好きだというなら、それもひとつの生き方でしょう。しかし、そういう心の状態となる価値観を人々に勧めてはほしくないなという思いを私は持ちますね。

沖浦さんは、投稿にもあるように何よりも創価学会員であることに対する誇りが強いわけですから、戸田さんや池田さんに対する思い入れも人一倍強いわけです。となると個人的な感情移入は避けられず、どうしても公正に見ているつもりでも、ひいき目になっているということは、ご自分では全く気がつかれませんか?
良いところだけを見てきているように思われますし、もしくは、良いところだけを刷り込まれてきたということかもしれません。

これは、学会に対する悪意でもって書いていることではありません。決め付けているわけでもないです。違うということであれば、反論なさってください。


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