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創価学会の功罪を考える

293犀角独歩:2003/10/22(水) 10:34

愚鈍凡夫さん:

有り難うございます。でも、訂正した訳ではありません。補足ですよ。追確認と言ってもよいかも知れません。

さて、「化儀の広宣流布」に関する学会資料のご提示、これまた有り難うございます。
わたしは282に「題目の流宣、そして、印刷漫荼羅の頒布を折伏とするのを化儀の広宣流布」、さらに286に「国立戒壇建立にいたる儀式」と憶測したのです。国立戒壇へ至るので間違いとも言えませんが、愚鈍凡夫さんの正鵠を得た資料のご提示をいただき明確になりました。さすがです。敬服いたしました。

先にも記しましたが、わたしの両親は昭和28年の入信。拠点は『人間革命』にも登場する旧蒲田本部でした。戸田さん会長就任の2年後、学会が宗教法人取得から3年目のことです。戸田さんは昭和33年に没するわけです。この5年間、両親戸田さんが訴えた国立戒壇建立の大号令、つまり、化儀の広宣流布達成のために身を投じていったわけです。
あとから入った人には理解できないと思いますが、昭和30年代から40年代に向かう創価学会は国立戒壇一色で、いまの顕正会なんかみたいにゆったり少人数ではなく、破竹の勢いで驀進を続けていきました。いわゆる、「折伏大行進」「邪宗撲滅」なんて鬨の声を上げていた時期です。子供だって学会員であれば、「国立戒壇」と口ずさんでいたんです。わたしもその一人でした。ですから、戸田さんの指導はすべて国立戒壇に向かうものであり、その「戦い」に向かうなかで絶対幸福を得る、そのために下付された「幸福製造機」もあるという指導です。各人が実証を示して、社会に認められる人になるのも国立戒壇実現に必要な要件という伏線でした。それは「国会議員」に代表され、これまた政党進出の伏線となっていったわけです。戸田さんの段階では政界進出は国立戒壇実現のための必須条件であったのは本音であったように見え、けれど、池田さんは言論問題前後で、危険我が身に及ぶや、あっけなくこれを放棄。その後、民主立路線に切り替えて「国立戒壇は使わない」。いまの創価学会に至っては顕正会が「国立戒壇」ということを批判する始末。戸田さん、初期の池田さんの指導は国立戒壇を除いて説明の使用がないにも拘わらずです。

殊に昭和30年から40年代の創価学会は、折伏と供養のラッシュでした。両方とも国立戒壇のためが名目であったわけです。わたしは子供でしたが、それでも大化城・大講堂・大客殿と建立供養は一切しているわけです。親はもちろん、多額の「供養」を拠出しています。そして、国立戒壇が立てば、日本は広宣流布するからこれが「最後の供養」と言われたのが「正本堂供養」でした。嘘でした……。ただ、そのあとは「特別財務」と変わっただけでした。馬鹿にした話です。

しかし、正本堂供養を「最後の供養」といったのは、もちろん、化儀の広宣流布達成であるからという意味であったのでしょう。けど、この化儀の広宣流布をいとも簡単に放棄して、それで、最後の供養は特別財務に変貌を遂げて、さらに過酷な金集め。

この間、うちの両親は『聖教新聞』を50部購読(毎日、50部の新聞束が配布されていたんです!)そして、親戚中を折伏しまくり、稼いだ金は「闘争費」という名の学会活動費と、供養という名の寄付に消えていきました。母親は朝から晩まで題目を上げていて、家にいない時間はすべて学会活動。父親も仕事以外は学会活動一色でした。本人たちはそれが幸福だったんでしょうが、その事実は家庭崩壊。いま、顕正会なんかで問題になっているのの、それよりもっとひどい有様でした。


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