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創価学会の功罪を考える

281犀角独歩:2003/10/21(火) 13:41

沖浦克治さん:

2点、申し上げます。
まず、

> 御書に書いていない事は一切認めない

わたしは、いわゆる真跡主義を貫徹しているのは事実です。
伝聞ではなく、事実から事実を知る至極当然の科学的な文献主義だからです。
ただし、それはひとつの過程なのであって、その後を前提とするものです。
これを奇異に感じられるとすれば、それは既に近代科学の発展から乗り遅れて、科学開闢前の土俗信仰でものを騙っているのと同様でしょう。

日蓮その人の教えを後世に残すためにもっとも必要なことは何か。たぶん沖浦さんは「実証である」と答えるでしょう。しかし、学的社会において、その前提があります。それは科学的な俎上に耐える事実の羅列です。換言すれば、証拠主義と言うことでしょう。

かつて、蓮師が比叡山に学び、諸国を遊学し、『立正安国論』上奏に諸文献を提示したの同様の手続きがなければ、「日蓮」は間違いなく、ただ土俗信仰のなかに埋没して消えていきます。蓮師が生きた鎌倉時代、その後、蓮師教学が次々と改竄されていったのが中世。そして、近代はようやくと科学の曙光がさし、自由に学問ができるようになりました。近年のインターネットの発展は、学僧が生涯を賭けて調べ上げることをわずか数秒で検索することを可能にしました。
しかしその前提には、膨大の教学資料を古文書から活字に変えた碩学の努力があり、さらにその活字をデータ化して提供した仏教ネット社会の先駆者がいて可能になったことです。いまやかつてない仏教再考の好機を到来しています。蓮師が果たせなかった事実の考証を現代の有志が蓮師に変わって推進し、次代にその成果を遺すことこそ、祖に対する報恩であるとわたしは信じます。

しかし、以上のような手続きを踏まず、ただ、個人的な実証(個人的リアリティ/グループダイナミクス)、あるいは組織力などで圧して、蓮師の絶対性を訴えるのであれば、巷間の人々は納得することはなく、法を久住させることなどできようがありません。

いま必要なことは蓮師御立法門の真実相を確実な資料から割り出し、そこから、再考することです。既にこの努力は数十年ほど前から始まっています。しかし、学会を含む石山系ではこれに大きく後れを取っている事実があります。それを拒んだものが何であったのか、沖浦さんにはわかりますか。それは、創価学会が自分たちの教義を組織力で押し付けて、学問の自由を弾圧してきて結果です。しかし、反面、その創価学会の暴挙に反抗する学問的誠意が実は蓮師研究の大きな原動力になってきたのです。

学会の存在は学会とその指導者の実証を示すことはあったけれども、日蓮その人の実像から実証を示すことはなかった実態がありませんか。このような篤志を迫害してきた暴力的な姿勢は大いに反省されなければならないでしょう。しかし、実直に申し上げて、沖浦さんのここでの書き込みはまさにその組織暴力の体質そのものであり、自由思想に対する冒涜に充ち満ちていると見えます。その基本をなして映じるのが戸田崇拝というカリスマ信仰です。そのカリスマ信仰から訴えられる個人の実証に対して、近代自由人は生理的嫌悪感を懐くことは寧ろ自然でしょう。この点は、池田崇拝であっても、法主崇拝であっても同様です。

たぶん、沖浦さんは法を久住させる方法は、一人ひとりが実証を示し、社会の一流人になれば可能になると考えておられる向きと拝しますが、その前提としての科学的な考証なくしては、仰るような動向は世間一般からは破壊的カルトと白眼視されるだけで埋没していきます。学会内から見れば、おわかりになれないかも知れませんが、学会における漫荼羅信仰は器物崇拝、指導者崇拝はカリスマ信仰として、近代社会において戦渦を招き人類史に爪痕を刻んだ全体主義と同等にしか映じません。「いや、そうではない」というとき、世間一般を納得させるものは、人々の実証でも、社会的な成功でもありません。日蓮その人の実像と教えがいまの科学的考証に耐える否かにすべてがかかっています。それを個人崇拝に基づく組織力で圧しきることを、全体主義、組織暴力というのでしょう。


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