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創価学会の功罪を考える

1920犀角独歩:2007/09/08(土) 09:22:17

『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』からの移動を、偶ロム偶ログさんから促されましたが、彫刻本尊に係る内容を少し書いておきたいので、敢えてそちらに記しました。

さて、こちらでは、『創価学会の功罪を考える』という筋から、少々記したいと思います。

このスレッド名で重要な点は功罪ということでしょう。罪過のみではなく、功績も考えるということです。

この二つはしかし、実は肯定的な立場にある人と、否定的な立場にある人では、そのバランスがまことに悪いわけです。

肯定派は、功績を肥大した形で論じますし、否定は罪過を肥大して論じるからです。まずはバランスよく考えること、つまり、実像をしっかり見据えることが第一歩となるわけです。

この点で偶ロム偶ログさんの視点は明晰なのだと思います。
わたしは脱会者としての被害者意識と、脱会後の活動家自体の自画像については加害者意識が、どうやら強いようで、厳正な中立的な分析に欠く嫌いがあったのだと、現時点で自己分析をしています。

しかし、時間というのは最大の治療師のようで、今回の合宿でモーニングさんのご発表を拝聴した際、わたし自身の関心事は、このような創価学会肯定型の内容を自分の感情がどう受け止めるのかということでした。

モーニングさんご自身にも告げましたが、わたしの第一の感想は「懐かしい」というところでした。もはや、二度と謳うこともない「学会歌」の歌詞と、クールではあるけれど、如何に創価学会幹部然とした発表した有様が、脱けて17年にして見聞するとき、どこか青春時代に命がけになっていた自分とシンクロするところがあったようでした。

問答さんとのやりとりとも関連しますが、わたしが半生をかけて何もかもを犠牲にしながらやってきた信仰、本尊と教義は“偽物”であったわけです。しかし、そこから振り返ると、その偽物の本尊と教義を信じ込んだ集団と人々のあの熱烈な信仰と行動力の源泉、創価学会の用語を使えば“生命力”は、では、どこから発生していたのだろうという新たな疑念が生じたわけです。

創価学会には功徳がないという批判はあるものの、今回のモーニングさんのご発表のように、「勝った」という実感を有する会員がいるからこそ、創価学会の現行勢力は保たれているのでしょう。ここには生命力と功徳を実感する人々がいるわけです。

たしかにカルトという言葉は熱狂的な信仰というのが、原意であって、では、その教義は真かといえば偽である、偽であるけれど、熱狂的な感動がそこにあるという反比例があるわけです。

たぶん、このような構造のなかで、感動し、“功徳”を実感する人々の心象は、偽の本尊・教義とは裏腹に、真として存在しているのだろうと思えます。
となると、ある意味、本尊・教義の真偽を問うことはナンセンスということになります。

では、この生命力の源泉、モーニングさんの言い方を借りれば、「勝ち」の源泉とはいったい何なのか、それを発表では「学会精神」だと結論していたわけです。全てを勝ちに変えていくプラス思考、それが学会精神なのだとモーニングさんはいうわけです。


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