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創価学会の功罪を考える

1896犀角独歩:2007/05/09(水) 07:23:41

―1895からつづく―

> 日蓮はこの逆修思想を強く打ち出してるイメージ

近代の日蓮門下一般を見ると、逆修という考えは根付いています。
『日蓮宗事典』では、以下のように記述されています。

「預修とも称す。現在では「生前に法号を受けること」の意味に使われているが、本来は死後の往生菩提に資するために、供養を生前に自らの手で行うことをいう。つまり死後の追福はその利益少なく、正前に修する逆修は功徳が大なるものであると考えられた。これらの典拠は『地蔵菩薩本願経』に「若し男子女人ありて、在生に善因を修せず、多く衆罪を造らんに、命終の後、眷属小大為に福利を造るとも、一切の聖事は七分の中にして而も乃ち一を獲るのみ。六分の功徳は生者自ら利す。是を以て未来現在の善男女等、健やかなるとき自ら修するを聞き、分ち分ち巳に獲る」と説くところである。つまり、死後の追福で死者はその功徳の七分の一を受け、七分の六は生者が受けるという。また勝範(九九六−一〇七七)撰の『智無智通用集』などにも見出せる。これによると、逆修忌日を一年間に限定し、三十三回忌まで一三回の仏事を行うものとし、そして「右此日逆修作善七分全得日也」といって、生前みずから逆修すれば、七分の功徳を全得するというのである。このあたりを、その源泉とするものであろう。このことは、日本において平安時代すでに逆修の仏事が行われていたことを物語る。日蓮宗において逆修の仏事が盛んに行われた顕著な例は、中山法華経寺教団にみられる。すなわち一四世紀終末から一五世紀の初頭になると曼荼羅、特に交名部に逆修と刻み込まれた大型の板曼荼羅を始めとして、逆修のために建立した板碑が数多く現出する。このことは中山法華経寺教団の発展過程の中で、逆修の仏事を提唱することで、人々の進行を獲得していったといえる。またこの逆修が人々の中心仏事として定着したともいえると共に、人々の来世への限りない不安感から逆修という仏事が重要視されるに至ったものであろうと思われる。また、檀信徒に逆修法号を授ける場合には単に法号の書付けを渡すのではなく、「授戒式」を行うようにすべきである。式のつとめ方は『宗定法要式』「帰正式」に準ずる。逆修の書式は一例を挙げれば左の如くである。
(表書)=糊入又は奉書を用いて、横二つ折とし、更に、それを縦三つ折にすること。
 法号の内、二文字(日号ある場合には、日号)を朱書する。位号(居士、大師、信士、信女等)は、預修の時に必ず書き入れると限ったものではない。」

日蓮没後100年以降(14世紀)、主に中山法華経寺からとんことです。つまりは、日蓮にその考えはなかったということでしょう。
まあ、ついでに記せば、ここ富士門下では、この逆修は摂取されませんでした。

> 日蓮は本義であるところの本地(仏)垂迹(神)説を採用してる

ええ、これはそのとおりであろうと思います。

> …タントリズムや、神仏習合や山岳信仰、氏神説、やモガリなどは、鎌倉以前からありました。日蓮に使用法が見当たらないのではなく、日蓮が採用しなかった・・・不必要であったのでしょう。そしてこれにはきっと論理的な理由があった筈と思います。

これは、非常に簡単明瞭なことです。日蓮にとっては、供養は法華経、それ以外は不要と見なしたからでしょうね。

> ナラカが本来どのようなサンスクリット言語からの発生かわかりませんが、場所を表す言語とはやや違って、「人の状態」や「ありさま」を指す言語に近いと思います。

地獄が場所か・状態かというのは、いわば教相と観心のようなものでしょう。
どちらかではなく、両方だと思いますね。。

> 法華経で使われる「アビーチ」は程度を表す、「最下層」「一番」「最も」などでしょう。

これは状態ではなく、場所ですね。「地の下一百由旬」などというわけですから。説明するまでもないでしょうが、由旬は帝王は一定の時間に行軍できる距離を指す実数語ですから、つまり、その距離に地底であるという具体的な場所を指していますね。


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