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創価学会の功罪を考える
1895
:
犀角独歩
:2007/05/09(水) 07:22:59
―1894からつづく―
やや、話が拡散しているのは、舎利、遺骨、墓、先祖供養は一本の線でつながりますが、それぞれ個別の崇拝でもあるという点でしょうね。
舎利というとき、これは仏舎利を指すわけで、遺骨とは区別されます。
舎利崇拝は釈迦崇拝のひとつの形ですが、その舎利を祀る塔崇拝へ転換もし、さらに経塔崇拝から、話題になってきたような五輪塔崇拝という変遷も見せました。
遺骨崇拝は、日蓮で見る限り、魂の去った遺骨を法華経で供養することによって即身成仏させるという法門を伴う形で尊重されていくわけです。これは舎利崇拝とは一線を画します。
また、墓はマハーさんが仰るように、遺骨を埋納された特定の場所を指すわけですが、このうえに置かれる墓碑の崇拝にはつながりません。しかし、これが五輪塔といった塔を形成するとなれば、先の塔崇拝の習合します。この点は、その後の卒塔婆とも連なっていき、卒塔婆崇拝は、写本遺文で見られることになります。塔は崇拝になっていくわけでした。
また、(霊)位牌、石山では「神座」とも記しますが、故人の戒名を記した位牌崇拝という風習は古くからあり、また、日蓮門下では御影像崇拝ということも興ります。これらは祖霊崇拝のあらわれなのでしょう。道教の影響でしょうか。
ここで、ポイントになるのは、それらすべてを崇拝する在り方もあれば、そのなかの一つを採って、一切に替えるという考え方もあるということではないですか。(この典型が創価学会で、全部、本尊(日寛の印刷本尊)ですませています)
日興は、日蓮の遺骨を捨て去りましたが、御影像を造って、それを生前の日蓮のように崇めたわけです。やがて、この日蓮の像は漫荼羅と一体視もされるようになるという変遷もまた見られ、こうなると、漫荼羅は日蓮その人の替わりともなります。この典型が人即法本尊という見地で、これを即断すればもはや日蓮の墓も遺骨もかえりみなくなったのが石山の有様です。
「創価学会は墓園事業には熱心だが墓参りには無関心」というのは、よくいわれることです。創価学会には遺骨に霊魂が宿るという発想は「ない」と言いきってもよいかもしれません。「生命は宇宙に冥伏する」というのが、戸田さん已来の考えでしょう。
やや、話題に上がりつつありますが、すぴこんという奇妙な展開を見せる「スピリチュアル」ですが、では、これと生命論はなにが違うのかというのは、マハーさんとの議論のなかでは、実は一つの論点なのだとわたしは見ています。
その視点を睨んで記せば、スピリチュアルといわれる亡者の「霊」は、生者を守護したり、災いをなしたりといった働きかけをするととらえられますが、創価学会でいう「死後の生命」は、宇宙に冥伏しているばかりで、生者に影響を与えるとは見なされません。また、この「生命は業を感じる」とし、生前の行いに従ってその生命が苦楽を感じながら、次の生まれ変わりをしていくというのが、創価学会の考え方です。しかし、この死後の生命は、生者に影響を与えるものではありませんから、霊障、徐霊のニーズは、創価学会にはないわけです。ここが、伝統教団がいう先祖供養、またスピリチュアルブームでいう霊の扱いと決定的に違うところでしょう。
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