したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

創価学会の功罪を考える

1876犀角独歩:2007/04/29(日) 11:29:37

―1875からつづく―

>>日蓮が晩年に「霊山浄土」に死後に託した
> 日蓮の「別世界」の想定なのかどうか非常に気になる

これは真蹟遺文は挙げれば事足りるでしょう。

「後生には霊山浄土にまいりあひまいらせん」
‘後生’とは生きていた後、すなわち死後のことです。

「死出の山三途の河を越し給はん時、煩悩の山賊・罪業の海賊を静めて、事故なく霊山浄土へ参らせ給ふべき」

日蓮は、死後、共に霊山浄土で逢うことを促しています。
ただし、日蓮の霊山観は、もちろん、実在のインドの霊鷲山を指したのでしょう。ただ、いまの時代とは違い、飛行機もない時代、実際のところ、船と馬・徒歩でインド霊山に行くことは不可能であるけれど、死後、そこに詣でよう(善所=霊山に生じる)という考えがあったのでしょう。

> 逆に在家に墓がなかったことを物語っている

これは在家・出家ということではないでしょうね。
「身分」によったのでしょう。
それが陵・塚・廟・塔、そして、遺体投棄の野であれ、古来よりの風習と大陸文化の集合、宗教で言えば神仏習合という幾重にも折り重なったシンクレティズムがやがて風習、伝統普遍化し史となり、それらが崩壊し、再歴史をするという複雑な変遷があるわけですね。

> 遺体に対して「穢れを祓う」という一般的な感覚に対して仏教的な行動をとったことを褒めているのではないでしょうか?

このような考え方は、日蓮にはないでしょう。
日蓮の観じ用法で言えば「祓」はただの一度も使われていません。
遺骨を日蓮の許にもっていったのは、追善菩提の法要を行ってもらうためでしょう。

「母…舎利を頚に懸け…深洞に尋ね入て一庵室を見る。五体を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し、歓喜身に余り身心の苦忽ち息む。我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり…仏事を為し事故無く還り給ふ」
「父の舎利を頚に懸け、一千里の山海を経て甲州波木井身延山に登りて法華経の道場に此れをおさめ、今年は又七月一日に身延山に登りて慈父のはかを拝見す」

道場に納めたあと、身延に「はか(墓)」が造立されていることが後文では書かれていますね。

> 遺骨に対する思い入れとは必ずしも繋がらないと思います。

マハーさんは、霊、墓、遺骨に特別の思い入れがあるようですが、この思い入れから日蓮の考えを測ってしまっていませんか。上記遺文から再考してみては如何でしょうか。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板