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創価学会の功罪を考える
184
:
ガンコ
:2003/09/28(日) 13:59
愚鈍凡夫さん
逆に質問されると困るんです。な〜んにもわかってないんですから。いちおう、わかったふりをして、ない知恵を絞って、お答えします。
おそらく、観心本尊抄を読み解けば、おのずと答えはでるのだろうと、思っています。
「夫一心に十法界を具す。」
「故に成道の時、此の本理に称ひて一身一念法界に遍し」
まったく説明する力はありませんが、なんとなくじぶんではわかったつもりになっています。
「自受用身とは一念三千なり。伝教の云はく、一念三千即自受用身」
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」
御義口伝は、まあ、愚鈍さんにとっては考慮外の御文であろうかと思いますが、曼荼羅正意の立場で申すならば、本尊抄の「観心とは我が己心を観じて十法界を見る」に相当すると考えています。わたくし達は、御本尊とは仏様(日蓮大聖人)の御生命をあらわしたもの、というように教わってきたわけでして、その御本尊の為体を拝するに、そこには大日天王・大月天王・大明星天王等が厳然とあらわされているので、まさしく蒙古使御書のごとく「所詮、万法は己心に収まりて・・・日月衆星も己心にあり」ではないかと思うのです。
そこで、「外典の外道、内典の小乗、権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり。」ということは、すなわち法華経以前の教えでは“己心を観じて十法界(全体)を見ることは不可能”との意味になろうかと思います。戻って「盲目の者の鏡に影を浮かべるに見えず」がまさにピッタリではないかと。
よって、「然りといへども法華経の如く説かず。」というのは、大綱と網目の関係(観心本尊得意抄)が了解されれば、べつに難しいことはないでしょう。極論すれば、梵我一如すら「法華の為の網目」とすれば、「説相空しかるべからず」ということになります。
問題は、大聖人御自身が、梵我一如を否定なさっている御書があるのかないのか・・・だろうと思うのですが、それに相当する御書をご存知でありましょうか?
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