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創価学会の功罪を考える

1726犀角独歩:2005/05/26(木) 09:04:28

創価学会の功罪、前者は会員からすれば生きる喜びを与え、人間革命、総体革命、世界平和に貢献する場を提供したということでしょうか。では、後者は、と言えば、創価学会的な考え以外を排除する、学会への敵を自分の敵のように憎悪すること、また、賞罰によってコントロールされるようになってしまうということでしょうか。

ここでも文献資料という証拠を多々扱いますが、これを扱う前提があります。何か。つまり、その資料をありのままに見られる心が確保されているかどうかということです。このために、もっとも邪魔者は他から与えられる解釈です。それは換言すれば、自分が考える自由が確保されているかどうかということです。

一連の学会擁護の投稿を見るに付け、それら人々は、その自由を壊されている人だということがよくわかります。情報をどう解釈するのか、そして、自分の解釈を排除するようにされてしまっているということです。さらに与えられた解釈以外を、無視、軽視、もしくは憎悪するようにコントロールされているということです。

会と指導者と、どこまで自分が同じになれるか、意志はそこに集中しています。このような状況に人間を仕立て上げることを、わたしは罪悪であると考えます。

聖教新聞に書いてあった、創価新報に書いてあった、では、それをどう思うか。
池田さんが、こう発言した、ああ発言した、では、それをどう思うか。
このどう思うかが自分です。この部分を会と先生の言うとおりと放棄させられ、与えられた解釈を鸚鵡のように繰り返す、猿のようにボスの物まねをする、その先の、では、自分はどう考えるという最大重要な心的能力がばっさりと欠落しています。このような“訓練”と“成果”をわたしが罪悪とみます。

創価学会のなかの思想訓練は、

「この先生の指導を読んで、君はどう思うのか」
「先生が偉大だと思います。先生の言うとおり実践します」

ここで、たとえば、
「先生の言っていることは間違っていると思います」
「それは君が信心がないからだ。もっと一生懸命にやっていけば、わかる」
という会話となるでしょう。つまり、何が道間違っているのか。自分がどう考えるのかという重要な議論は、なされないことになります。いや、なし続ければ、その組織と指導者から去るしかない構造にもなっているのでしょう。

これは顕正会でも、石山でも、あまり、変わりません。
ただし、石山のもとよりの信徒は、もう少し伝統仏教的でしょう。

いずれにしても、以上のような状態にある人との議論は、ただの時間の無駄です。
彼らにとって、考える余地はなく、与えられた情報と解釈以上に自分で考えることはできず、できない以上に、他の解釈に対しては、それを受け入れられないように操作されているからです。
いわば、蓋の閉まった水筒には水は入らないと言うことです。

実は創価学会の功罪を考える、顕正会の功罪を考える、大石寺の功罪を考える、日蓮の功罪を考える、仏教の功罪を考えるでも同様ですが、その功罪を考えると言うことは、思考の自由を自分はもっているのかどうかという試金石なのだと気付ける人のみが、議論が可能であると言うことです。
その思考の自由を確保できない人は、まず、それを確保すること、ただ、それのみが課題であるということです。それができていない人との会話は、できた側からすれば、徒労、繰り返し、ただの時間の無駄、換言すれば、鬱陶しいということです。
この「鬱陶しい」という言葉はひどい言葉です。しかし、そのように思われる状況が考える自由を放棄した人間に接する偽らざる心境であることを組織・指導者に誣いられる人々は見聞する機会をもったほうがいいので、敢えて、使用しました。

功・罪とは、実は、そんな自分自身の思考の自由の与・奪の異名であると考える昨今です。


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