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創価学会の功罪を考える
1561
:
犀角独歩
:2005/02/24(木) 14:23:53
1559 一字三礼さん:
>「久遠実成の釈尊」と「一念三千」とはどのような関係
蓮師教学の掌握としては、
本門本尊…「久遠実成の釈尊」(脇士・四菩薩)
本門題目…妙法蓮華経…「一念三千」
という関係であろうととらえています。
蓮師の認識とされては、開権権遠、もしくは顕本遠寿以前の釈尊は迹仏の域であり、これでは真の一念三千とは言えないという廃立ではないでしょうか。寿量では三妙合論で、‘本’因・果・国土が、ここに明示されるととらえるわけですね。生(因)仏(果)国土はもちろん迹門以前でも揃うには揃っていますが、この頭に付く、‘本’がポイントですね。本の因果国と、それ以前では、その意味は天地雲泥であるからこそ、台学を踏襲して開目抄に典型を見る本迹義を蓮師は孕んだのであろうと存じます。(ただし、その教義をわたしが信仰するという意味ではありません)
> 「一念三千」…地獄から仏…循環の理論
なるほど。このように整理されていらっしゃるわけですね。
妙楽の成句である一念三千は、言うまでもなく天台説・章安記の三千不可思議境で、三千而非三千、不思議一というところでしょうが、わたしは参禅、観心法の実践論、つまり、禅を組んでいるときに、己心に地獄から仏を三千に観察する行法であろうと、本文から考えています。この三千はしかし、羅什が九如是として挙げたところを敢えて十如是とし、その乗数を三千としたのは、三千大千世界という吉数への語呂合わせとも思え、わたしは承伏しかねます。
> 「一念三千」理論が法華経の内容と結びつかない
まったく、同感です。上述したとおり、台学では法華経の説くところは一念三千と言いますが、わたしはまったくそうは思えません。天台は、むしろ法華経を通じて、そのような参禅中の観察心法の行法としたわけで、それが法華経の至極であるという考えには、わたしも納得できません。
> 法華経の中心になる教説は言うまでもなく「二乗作仏」と「久遠実成」。
さらに正確を期せば、二乗までの記別(未来成仏予言)と仏になることによって得られる量り知れない長寿という功徳というのが、そのコンセプトで、だから、未来成仏を信じて、五種法師行に専念し弘教すれば、六根清浄を得、死後は極楽世界の蓮華から化生できる、四安楽行もある(安楽とは羅什以前のスカバティー(極楽)の訳語)というのでしょうね。
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