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創価学会の功罪を考える

1225犀角独歩:2004/12/08(水) 10:13

―1224からつづく―

学会は、現行学問から突っつかれて揺らぐような教学体系から「卒業」していく方向性で具体的に進んでいると思えます。その思いは、たぶん、彫刻本尊の欺瞞性を、池田さんが知った段階から始まったのではないのか…。わたしの学会感はそのように変貌してきました。

ただ、池田さんへの熱烈な思いが会員にはあり、個人崇拝感覚のない側からすれば激しいギャップに見舞われるわけです。けれどたぶん、会員はこれをギャップとは思わないはずです。何故なのだろうか。そんな呻吟が、わたしにはありました。

たぶん、これは証拠主義と体験主義という、二局面からの違いでしょう。
ここ掲示板で、数年来行ってきたのは徹底した証拠主義としてのアプローチです。事実を見極めるうえで、もちろん、この姿勢は何等批判されるところはありません。この点は今後も一貫して変わることはないでしょう。このような当掲示板と、その運営者である管理人さんにわたしは敬意を表するわけです。

一方、事実が明確にわかった。では、どうするという選択に迫られたとき、では、実践的、かつ実感としての歓喜(かんぎ)はいずこに求めればよいのかという問題が生じるわけです。

学会では過去50年の発展と各会員の体験に自信を持っているでしょう。
証拠主義は信頼できる資料から事実を見極めようとしたわけです。ある面、わたしはここで行われてきた理論実験は、昭和60年代に1650万会員を豪語し・いま820万・差し引き800万人の脱会者の代弁的な要素が強かったのかも知れません。
けれど反面、当の学会側は実際にあった発展と各会員の実体験を、では、どのように理論付けられるのかというのが教学構築の前提なのであろうとわたしには思えます。

以上は、創価学会・池田さんを肯定しているわけでも・否定しているわけでもなく、何故彼等があのように考え・行動するのかを考える前提で記すことです。

冒頭に戻りますが、過去数十年、考える資料としたところは反学会側ジャーナリストからの情報とスタンス、もうこの時代は終焉を迎えたわたしは断言してもよいと思います。
わたしはかつて法華経に書かれてあることを知りたければ、極端な話、天台教学と、それを踏襲した日蓮教学をまず横に置いて読んでみることだと語りました。

いまの学会を考えるのに当たり、従来言われてきたことを、ひとまず置いて、わたしは、池田さんが彫刻本尊の実態を知ったときから考え・進んだ方向性として創価学会の路線と今後を考えてみたい、そんなふうに考えています。

わたしが今回行った禅師授与漫荼羅に基づく拙稿は、かつて、どこぞの坊さんが目を凝らしてやったことであったでしょう。その御仁は、その実態を知ったうえで、最高権力者として君臨し、巨万の金銭を信徒に求め、800万信徒の思いがいとも容易く壊したうえで新たな建造物を造るのにまた金銭を指せることもなんら罪悪感もなく行えたのでしょう。一方、その実態を知りながら、過去800万の思いを背負い、数十年のスパンで方向を転換していこうとしたのが学会であったのか。さて、どうでしょうか。

今後の創価学科は、どうなっていくのか。そのもっともプロトタイプとなっていくのは、やはり、東京の創価学会でしょうか。将来のことをともかくとして、いま東京の創価学会は、どのようになっているのでしょうか。
どなたかレクチャーいただけませんでしょうか。


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