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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

376ガンコ:2003/07/27(日) 06:03

日蓮大聖人は釈迦宗の中興の祖か?

本宗における中興の祖といえば、日有上人、日寛上人等であることは、おそらく誰もが知っていることでありましょう。
もちろん宗祖=元祖は日蓮大聖人ですが、皆さんご存知のように「日蓮は何れの宗の元祖にもあらず、又末葉にもあらず。」(妙密上人御消息)との仰せがあります。
この御文を字句どおりに受け取るならば、「宗祖日蓮大聖人」と呼び奉ることは適切ではないことになると思います。ちなみにわたくしは顕正会で、“宗祖”という表現をまず聞いたためしがありません。理由は定かではありませんが、おそらく「久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり」(百六箇抄)ですから、一宗一派の元祖などという小さな存在ではない、ということかと思われます。そして、何れの(釈尊の)末葉にもあらず、というのが文底読みの極致といえましょうか。
もちろん反論がありましょう。一般的にはどのように解釈されているのか知りませんのでご教示願いたいところですが、おそらく大聖人は当時の既存の宗教をひとつとして認めなかった、つまり正統派を自覚する大聖人にとって諸宗の元祖と同一に論じられることは屈辱であり、いわんや既存の八宗十宗の末流に列なるわけなどあろうはずもない、といったところでしょうか。そこに顕仏未来記の末文、「安州の日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通せん。三に一を加へて三国四師と号づく。」の意味が生きてくるように思われます。
日蓮本仏論者はとかく御書の文々句々をひねくり回して、なんとかして大聖人を釈尊より偉くしようとするわけですが、上の妙密上人御消息からその義を読み取るのはかなり困難でありましょう。ただし、わたくしの個人的な感想ですが、大聖人は上行菩薩の御自覚にあらせられる・・・いわゆる行間にそれがにじみ出ている・・・と拝するものであります。
さて、三国四師というと四人が肩を並べているようにも思われますが、「天台大師は釈迦に信順し・・・」とあることから、あくまで本師は釈迦如来となりましょうか。ちなみにこの顕仏未来記においても、大聖人は相当の御自覚を吐露せられている、とわたくしは思うものであります。
いよいよ本題に入ります。
釈尊、天台、伝教、日蓮、という正統仏法の系譜を見るに、天台、伝教、日蓮はいわゆる釈迦宗の中興の祖という位置付けになるのでしょうか? もちろん、こうした概念が一般的に流通しているかどうかではなく、大聖人の御自覚としてどうかという意味であります。もし日蓮大聖人が釈迦宗の中興の祖であられるのであれば、大聖人を信仰の対象にすることは間違いとなりましょう。なぜならば、説明の必要もないことですが、わたくし達は一度たりとも日有上人、日寛上人等を・・・恐れながら日顕上人も含めまして、たった一度たりとも歴代上人を信仰の対象にすることはなかったはずであります。
つまり、大聖人は天台、伝教とともに釈尊に信順して法華宗を助ける立場にあるのだから信仰の対象ではない、そして厳密には宗祖と呼ぶのも不適切であるし日蓮宗・日蓮正宗のように“日蓮”を冠するのも不適切・・・ということになりましょう。日蓮宗→法華宗、日蓮正宗→法華正宗。法華宗はいいけど、法華正宗ってなんだかとってもヘンです。釈迦宗、釈尊宗はもっとヘンですけどね。
このさい名前はどうでもいいのです。釈迦宗の本尊は何か? これが問題なのであります。釈迦宗だからといって、釈迦を本尊にしてはならない、法華経を本尊としなさい、これは私の義ではなく先師方(釈尊、天台)の義である、というのが本尊問答抄の御指南であります。
前項で、わたくしは本尊論と本仏論は表裏一体と申しましたが、本項は本仏論を度外視してどこまで論じられるか、という発想で書いているわけです。かなりいい線までいける・・・との手ごたえは十分あると思います。つまり、大聖人が御本仏でなく釈迦宗の人師のひとりに過ぎないと仮定しても、では本尊は何かといえば、釈迦の画像木像ではない、ここまでは間違いなかろうと思うわけです。


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