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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

813空き缶:2004/04/23(金) 16:54

 地名さん、こんにちは。
 「大聖人門下掲示板」は愚鈍凡夫さんのレスにあるとおりです。愚鈍凡夫さんフォローありがとうございます。

 私のコミュニティーは、ほとんど手をつけておらず、来訪者もほとんどありません。地名さんのお役に立てる内容は、現在皆無です。
 念のためこちらです。→http://groups.msn.com/daihonnzannmyouhonnji
 現在は妙本寺ではなく、この春に訪れた中伊豆の實成寺の写真を掲載しています。

814空き缶:2004/04/23(金) 17:22

 犀角独歩さん、「日興跡条々事示書」については、故伊芸益道師も「日興跡条々事への復帰―大石寺法門研究序説―」の中で、「示書は第十四世主師の書とはいわれているけれども、確かなことはまだ検証したことはない。」と言葉を濁しています。

 やはりなにかありそうですね。

815地名:2004/04/23(金) 21:54


812 愚鈍凡夫さん

ありがとうございます。お礼まで。

816地名:2004/04/23(金) 21:55

813 空き缶さん

ありがとうございます。お礼まで。

817地名:2004/04/23(金) 22:38

724 独歩さん

>川澄師は亨師批判をしているか。

「阡陌陟記」川澄勲著、1991年、オレンジ出版をざっと見た感じでは、評価が相半ばというふうにしか私の力量では言えません。

例えばP520「今の法門の根本は亨師によって教義として編成された本仏論から始まっているようである。これが大正元年には戒壇の本尊の真蹟説にまで発展していったものと思う」もしかしたら応師と間違っているのかとも思いましたが。
刊行にあたってでは「大石寺では既に堀上人の立正での科外講義のために、本因・百六箇抄及び相伝ものについては殆ど二本線をもって消されている…」
一方で「亨師60年の成果である富士宗学全集は…」とも。

818地名:2004/04/23(金) 22:58
川澄師の上記書P211に板本尊について記述あるので参考まで

「…摺形木は逆さ文字を彫るが、板本尊はこれとは逆に紙本尊から板に、
しかも右文字をそのまま右文字に移している処に何かがありそうである。
文底本因の一つの表し方であろう。
そして、板本尊は、上代において宗祖・開山・有師に限られていた。
そこにも何かがありそうである。」

譲座本尊について、参考まで
P225「主師は譲座本尊といい、精師は御座替り本尊という。譲座の語には釈尊から上行、上行から日蓮ということも含めて歴代に無理なしに考えられるが、精師の御座替りには、前貫首から現貫首へという意味しか感ぜられない。主師の場合は法門という感じが強い…」
P226「この本尊の中央の南無…経を日蓮体具の妙法という。宗祖己心所具の妙法であり、向かって右が興師、隠居座、左が目師、嫡子分である…」

819愚鈍凡夫:2004/04/23(金) 23:28

横レス失礼します。
川澄勲氏に関する、こんなサイトがあります。

「川澄勲研究会」
http://homepage2.nifty.com/houmonken/index.htm

820犀角独歩:2004/04/24(土) 08:16

817 地名さん:

有り難うございます。
参考になりました。

821犀角独歩:2004/04/24(土) 09:19

814 空き缶さん:

有り難うございます。

何かわたしは思うのですけれど、たいがい非公開のものというのは「あやしい」ですね。隠しておかなければならない理由がある見ざるを得ません。

この前、とある日蓮系雑誌を眺めていたのですが、現存する複数の『立正安国論』真筆、そもそもあれは全部が全部、蓮師の真筆なのか?という疑問を率直に記されていました。
これは各山に格護される「日蓮聖人真筆本尊」と言われるものもしかり、山中師『本尊集目録』に載る所謂聖筆もしかりですよね。それぞれ由緒寺院の尊厳を傷つけないと言うお計らいが学的研究を妨げています。

わたしは興師古写本しか遺さないものは、たとえ禄内でも直ちに蓮師真筆と見る勇気は湧きません。まして、歴代の時師写本なんかはまるで信用する気が起きません。なおさらのこと、どうも富士系で言う文献考証は直ちに信頼することにおそれがあります。

もちろん、これはれんさんをご教示くださった示書の真偽を斜に見るということではなく、蓮師門下の学的・科学的考証は甘く徹底したところがないために真実が隠蔽されている嫌いを嘆くことです。

822れん:2004/04/24(土) 17:19
日興跡条々事示書は歴全に主師著作として掲載されているものの、御筆写真等は公開されておらず、故伊芸師の言葉の如くそのまま主師の著述と断定することは不可能ですね。譲座本尊示書も弥四郎曼陀羅の腰書の書写部分は公開されてないので、独歩さんの仰る通り、譲座本尊示書をもって弥四郎曼陀羅腰書の初出文献と断定することは現時点では不可能で残念ですね。さて時師写本ですが、御書目録日記事・本因妙抄・心底抄・三大秘法抄等は、興風談所の研究により、時師筆と異なることが確認され、現在は上記文献等の時師筆は否定されています。m(__)m

823地名:2004/04/25(日) 01:32
811 独歩さん
>蓮師は、やはり戒壇義不説で没したと考えるべきなのでしょうね。
>興師については…三学無縁さんと話しましたら『本門弘通事』を挙げていた。
>また『三時弘経次第』
>これを興師戒壇義と採るべきか否か…悩む。
>むしろ像末弘教の違い…像法:迹面本裏、末法:本面迹裏の相違…比叡山迹門寺…富士山本門寺の勅許を求める範囲ではないのか。
>延長線に迹門戒壇と本門戒壇の対比は帰結する可能性あり。
>この点を考えるとき、わたしは蓮興二師に決定的な違いを感じる…。
>蓮師は実質的な権力者、幕府・北条(武家)に立正安国論を呈した…興師は天皇に申状を呈している点…。時代性の隔壁と言えばそれまでだが、コンセプト…の相違を感じる。

執行師「興門教学の研究」P97〜103で「…日興の著としては「三時弘経次第」と「安国論問答」の二著にすぎない」と記されています。
「…日興の確実なる著作または消息によって、その思想を考察してみよう。「三時弘経次第」には、正像末の三時について、弘経の次第を述べ、この三時を昔・迹・本に配当し、末法当今は迹門に基づく像法の時代と異なり、法華の本門に基づき、久成釈迦仏の法が、本化上行の垂迹としての日蓮聖人によって顕示される時であると見なしている。つまり、日蓮聖人を弘経の四依の立場で解するもので、仏勅を受けて釈尊の法を弘める導師とする。
この点、石山の教学が、釈尊と日蓮聖人との使命を異質的なものとして、末法にはその救世主としての久遠の本仏が出現することを予告(言)されたのが、釈尊であり、その予告に応じて出現されたのが、日蓮聖人であると見るのと根本的に異なるものである。」と。

824地名:2004/04/25(日) 02:15
続き
望月歓厚師の「日蓮宗学説史」のP71〜73で「(三)戒壇について」の項で「戒壇論が後世石山一派の特色ある主張となりしと雖も興師の当代にこの思想ありしやは研究の余地ありといふべし。」
「…「五人所破抄」(宗全二・82)…「門徒存知事」(宗全二・125)…「百六箇」(宗全二・25、29)…「産湯相承」(宗全二・33)…「身延相承」(宗全二・33)…是等は皆同一系統の思想にして、決して興師の教学と認むる能はず。
興師に於て延山離山当時の思想は「美作房書」(弘安7年)…「与波木井書」(正応元年)「…いずくにても聖人の御義を…」…決して富士を後世の夫の如く中心壇場と考えたるには非ず。「いずくにても」との言は明白にその旨を語るに非ずや。故に富士移転後も決して明白に富士会談を主張しおらず。「本門寺棟札」(宗全二・111)の如きも何等戒壇とするの根跡無し。「三大秘法口訣」裏書に「受持即受戒也、経云是名持戒…持経之処即戒壇也、法界道場云々」(宗全二・14)といふもの又之れが反証にあらずや。
故に興師は戒壇論に於て決して後世の所謂富士戒壇説を主張したるにあらざれども、又決して富士興隆の意志無かりしといふにはあらず。彼の「三時弘経次第」(宗全二・53)に比叡山に対比して富士山を列ねたるものの如きは此の一例なるべし。然れども、決して戒壇建立地とまでは主張せざりしならん。彼の延山に対する愛慕の言よりも将に然るべきを思ふ。若し一旦離山したるが故に悪言を放ってまでも富山を興隆せしめんとすとするが如きは、興師を傷けるものあり。併し、五一異見の一項に叡山戒壇踏不の義あり。伝説の如く昭師系が叡山戒壇を踏めりとせば、必ず興師は極力之を非難されしなるべし。これ他の教義上よりその然るべきを論断するを得るなり。」と述べられています。ご承知の事と存じますがご参考まで。

825地名:2004/04/25(日) 02:25
続き
上記の書のP76〜78で「富山戒壇論(富山中心論)…処破抄−門徒存知−産湯相承等…
…富山中心論が戒壇建立となり、王城移転を論ずるに至っては、興師のものにあらず。本尊も四士造立論より継子論となり、聖筆大曼荼羅論となるは、板本尊論に至る経路にして、又、興師のものと考へられず。…」と。ご参考まで。

826地名:2004/04/25(日) 02:47
「日興跡条々事」について「日興門流上代事典」P562では
「なお、大石寺日精「家中抄」の自筆正本「富士門家中見聞稿本零編」(研究教学書六・343)が本書に解釈を加える中に、
「日興宛身所給等者是板本尊事也。   今在当山也」と記されているが、同書(の)頭注等は日精正筆には
「…  …    是万年救護御本尊也。今在房州妙本寺也」と書かれていたのを、
大石寺第31代・日因が引線・抹消して
万年救護→板、
房州妙本寺→当山
と改字した事実を指摘している。」と記されています。ご参考まで。

827地名:2004/04/25(日) 10:58

稲田海素師の「日蓮聖人御遺文対照記」P115〜127には
「明治36年1月11日 富士大石寺(貫主大石日応上人)より御真蹟拝照せしむべきに付来山すべき旨の書状に接し…翌日江川家の本立寺を辞し、大石寺に詣る
直に塔中の寂日房を宿所に定められ、毎日8時より夜12時まで5日間録内外の御聖教37章を拝照し、外に録内外に漏れたる聖教編共に13章拝写せり…中略…

己上の御真蹟等を拝照せし時、監督の旁ら終始熱心に拝照されたるは、東京市下谷山下常在寺住職堀慈琳師にして、當山滞在中は勿論、其己後も御遺文拝照に就ては余に一臂の力を貸されたり、今一般の読者に代て一言以て之を感謝す、
猶ほ此外に遺文三十の巻(四十二丁)の日朗上人より日興上人への御書の御真蹟、拝照せし上に参考として拝写せり、又當山には興師の御消息多々あり、其中少々拝照せり、堀師は全分之を拝写す、且つ其中に日頂上人の御消息一通あり、此も後日老僧集編纂の為めに拝写せり…中略…

同22日 當山の霊寶拝見も無事に結了せし故に、午後3時より寂日房を辞して西山に過ぎり…」ご参考まで。

828地名:2004/04/25(日) 19:15

821

山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」によると「大石寺の多宝蔵には3,000点余の上代からの文書が保存されている。これらの殆どの文書の中に日亨上人は朱筆を点々とお入れになっておられる。」とありますね。
「三大秘法抄」の写本…日親本なり…多宝蔵から…日時上人の筆写本が出て、これが門下最古写本となった。
「御書目録日記」…行学日朝(上人)の写本で聖滅188年…聖滅116年の日時上人筆のが多宝蔵にあることがわかった」と。
堀ノート等の公開などしてくれるといいのですが…。

829犀角独歩:2004/04/26(月) 08:00

れんさん:

> 御書目録日記事・本因妙抄・心底抄・三大秘法抄等…時師筆と異なる

やはりという感じです。
それにしても、いまだにこれらの旧説が漫然と信じられ続けているわけですね。
説の刷新は常に孤高の人たちが認識し、旧態依然とした過ちにしがみつく人々の顰蹙を跳ね返しながら、事実を定着させていかなければなりませんね。

830犀角独歩:2004/04/26(月) 08:26

地名さん:

いつもながら、有り難うございます。
たいへんに参考になりました。
富士事戒壇論も蓮興二師にその確たる具体性を見ないことはほぼ間違いのないことと認識しました。

> 山口範道…多宝蔵…「御書目録日記」…日時上人筆のが多宝蔵

この人は、種々の一般の僧俗が読めない古文書やら、亨師の字が読めることから、たいそうなことを言っているように見えますが、凝視すると顕師のご機嫌伺い・御身可愛さ護教で説を枉げ、学的襟度は丸でないですね。いわゆる宝の持ち腐れとはこのことであると思うわけです。石山の都合ような発見をつなぎ合わせて、皆に重宝がられても、不節操に縫い合わせただけではただの雑巾です。

時師説はれんさんがお示しくださった研究が事実なのであろうと認識します。
山口師のいい加減さを示す好例を呈示いただけ、ロムの皆さんには対象の便宜となったと拝察いたします。

> 多宝蔵には3,000点余の上代からの文書が保存

これはしかし、石山所蔵のものという意味ではないでしょうね。
よく引きますが、布師が志師の詰問に窮して

「旧録等取り調べ逐一御会答申上げ可く候得共、去る慶応元年丑の二月廿八日之夜、弊山居坊之分不残ら災に罹り候砌、古記録を入れ置き候書庫迄悉皆延焼多分鳥有に属し今は何等之攷証に備ふ可き書類も之無く勿論弊禿如き愚侶の中々及ぶ可きに之無く宜敷御憐愍を仰き奉り候」

と記したわけですから、これを補完すべく各地から亨師が苦労して明治以降に集めた文書類という意味なのでしょうか。

> 堀ノート等の公開

同感です。望まれるところですね。
亨師が他山で語った資料なども、一読してみたいものだと常々思っている次第です。

831れん:2004/04/26(月) 11:36
犀角独歩さん。誠に仰る通りと存じます。これまで日時師筆とされてきた御書目録日記事とそれと同じ筆跡を有する本因妙抄・五人所破事・本門心底抄・三大秘法抄の写本が大石寺六世日時師筆と異なることは、興風談所の池田令道師が興風叢書〔6〕大石寺某筆御書目録日記事の解題「大石寺某筆『御書目録日記事』の解題」において文献考証によって論証しております。興風十四号・十五号所収の大黒喜道師「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書」(一)(二)とともに、ご参考までに読む機会がありましたらご一読をお薦めしたします。

832犀角独歩:2004/04/26(月) 12:10

831 れんさん:

有り難うございます。
お薦めいただきましたところ、是非とも拝読いたします。
どうにも不勉強な面ばかりを晒しておりますが、今後ともご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

833犀角独歩:2004/04/26(月) 12:12

832につづき、多大な正確な資料をご提示くださる
地名さんにも改めて御礼申し上げ、ご指導・ご鞭撻の程、お願い申し上げます。

そして、空き缶さん、愚鈍凡夫さん、何より管理人さんにも深く御礼申し上げ、ご指導・ご鞭撻の程、お願い申し上げるものです。

愚鈍凡夫さん、元気出してくださいね。

834地名:2004/04/26(月) 22:50
830 独歩さん

> 多宝蔵には3,000点余の上代からの文書が保存
>これはしかし、石山所蔵のものという意味ではないでしょうね。
>…布師が志師の詰問に窮して
>「旧録等取り調べ逐一御会答申上げ可く候得共、
>去る慶応元年丑の二月廿八日之夜、
>弊山居坊之分不残ら災に罹り候砌、
>古記録を入れ置き候書庫迄悉皆延焼多分鳥有に属し
>今は何等之攷証に備ふ可き書類も之無く
>勿論弊禿如き愚侶の中々及ぶ可きに之無く宜敷御憐愍を仰き奉り候」
>と記したわけですから、これを補完すべく各地から亨師が苦労して
>明治以降に集めた文書類という意味なのでしょうか。

詳細は私にはわかりません。上記「大石寺の多宝蔵…保存…。…亨師は朱筆…。」の後にはこう続きます。
「その御精査力には唯々感銘の外はない。又全国を行脚なされての折、諸史料を記録なされたノートが500冊余も遺されている。これらの諸史料の中には再度探訪蒐集の不可能なもの、他山でも曽存となったものが多量にあるという重要な史料ばかりである。又ノートには長文の同じ文書を二回も三回もお写しになられたものがある。…」
とあります。表題は「古文書界の一隅」で、平成2年1月稿とあります。
布師は上記のように志師に話されている訳ですから「上代からの文書」というのは受け止め方は種々あると思います。あまりお役に立てず…。

835地名:2004/04/26(月) 23:08

831 れんさん

ありがとうございます。私も大変勉強になりました。御礼申し上げます。

836地名:2004/04/26(月) 23:14

830 独歩さん

>富士事戒壇論も蓮興二師にその確たる具体性を見ないことはほぼ間違いのないことと認識。

私が摘記した資料は一部に過ぎませんので、当否は御精査願います。
山口師は確か、当住、久保川師、手塚師、大橋師等と共に亨師に種々御指導を賜ったと仄聞しております。
七師外道さんが上記で記されている堀ノートの内容等も聞き及んでおられることと思われますね。推測ですが…。

837空き缶:2004/04/26(月) 23:15

 犀角独歩さん、恐縮です。こちらこそいつも勉強させていただいております。本当にありがとうございます。

 間もなく宗旨建立の記念日、4月28日です。私も某寺院(妙本寺系ではありません)にて記念行事に出席予定です。
 しかし何よりも最高の楽しみは、独歩さんの書籍を手にすることです。無事出版の日をむかえられますよう、影ながらお祈り申上げます。

838山本:2004/04/27(火) 00:46
いよいよ犀角独歩さんの新刊が出版されるのですね
楽しみです。いつ頃の予定ですか

839れん:2004/04/27(火) 18:03
犀角独歩さん・地名さん。こちらこそお二方はじめ皆さんの真摯な御研究・御議論には大変啓発されてますし、大変勉強にもなっています。私も来月正式に創価学会を脱会する運びとなりました。脱会を決断するのには勇気がいりましたが、ここでの皆さんとの貴重な議論が、脱会の決断を後押ししてくれたことも事実です。皆さんのこれまでのご指導ご鞭撻に感謝申し上げるとともに、独歩さんをはじめ皆様に引き続きご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。今後は宗教団体からは距離を置き、無所属の立場で勉強していく所存です。右ご報告まて。

840地名:2004/04/27(火) 22:03

839 れんさん

こちらこそ大変勉強になります。
古文書を苦もなく拝読されておられ実にすばらしいことと拝察申し上げます。

そうなのですか。なんと申し上げてよいかわかりませんが、
私の方こそ今後とも種々御指導を頂きたくお願い申し上げます。

841犀角独歩:2004/04/27(火) 22:41

空き缶さん:
山本さん:

有り難うございます。


れんさん:

そうですか。
「脱会」、かつてわたしも通った道でした。
そこには開ける自由な精神と自由な思索がございました。

れんさんのご研鑽とご賢察が、さらに躍進されることと頼もしくも嬉しく存ずるものです。衷心より敬服申し上げる次第です。

842地名:2004/04/27(火) 22:59
828 地名
>山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」によると
>「三大秘法抄」の写本…日親本なり…多宝蔵から…日時上人の筆写本が出て、これが門下最古写本となった。
>「御書目録日記」…行学日朝(上人)の写本で聖滅188年…聖滅116年の日時上人筆のが多宝蔵にあることがわかった」と。
に対して

831 れんさんが
>これまで日時師筆とされてきた御書目録日記事と
>それと同じ筆跡を有する本因妙抄・五人所破事・本門心底抄・三大秘法抄の
>写本が大石寺六世日時師筆と異なることは、
>興風談所の池田令道師が興風叢書〔6〕大石寺某筆御書目録日記事の
>解題「大石寺某筆『御書目録日記事』の解題」において文献考証によって
>論証している。
と記されました。

本日、私も興風叢書[6]「御書目録日記事」を購入し拝読しました。
その結果、れんさんの記されたとおりだと私も思いますので訂正いたします。

843空き缶:2004/04/28(水) 20:27

 犀角独歩さん、私のコミュニティーにも「図解必携 大石寺本尊鑑別」の出版を待ち望む声が届きました。

 信濃町富士宮研究所も含め、創価学会・正信会・大石寺宗門とあらゆる所属の方々より注目を集めていますね。
 顕正会関係者のカキコがあまりみられないのが不思議ですが、国家諫暁に忙しいのでしょうか?

 れんさん、これからも多々ご指導いただきたいと願っています。落ち着きましたら、れんさんにも本をかいていただきたいです。

844地名:2004/04/29(木) 08:52

843 空き缶さん

信濃町富士宮研究所でのご活躍すばらしいです。
拝読して明晰な内容に大変勉強になりました。

よろしければ二点ほど教えて下さい。
一点は、失礼でしたが空き缶さんの下記の内容について引用させていただくことお許しください。
ここに記されています内容について、もう少し教えていただければ幸いです。
>私は通称「戒壇本尊」は時師の代から造立がはじまり、主師のころまでに大石寺に遷座されたと考
>えています。有師が模刻したものは、富士年表によれば「紫宸殿本尊」ですね。有師の京都遊学後に造立されていま
>すので、「紫宸殿本尊」は先に日尊師が模刻して京都の寺院(現在は要法寺)に安置していますので、所詮は尊門の
>真似事と思っています。つまり有師の代は、大石寺に教学と本尊が無く、京都遊学中にこの二つを他門より輸入し
>たと考えます。本尊は尊門、教学は隆門(八品派開祖・日隆の教学)。

二点目は、空き缶さんのコミュニティー拝見させていただきました。
大本山妙本寺と伊豆実成寺はつながりなどはあるのでしょうか。会津の実成寺には何度か参詣しています。
保田の妙本寺には関心があります。一度参詣したことがあります。
下記も上記掲示板に記された引用をかってにしてしまい大変失礼いたします。
興風談所発行の「興風」誌で、坂井師が日目師→日郷師の相続について言及されていたため
下記も含めて保田妙本寺について学ばせていただければ幸いです。
>万年救護本尊は、誰もが宗祖真筆と認める御筆本尊です。しかも宗祖図顕曼荼羅の中で唯一、宗祖の筆で「大本尊」と書かれた御本
>尊です。(他は皆大曼荼羅・大曼陀羅ですね)
>また尊門出身で後に大石寺貫首になった、日精師もその著作の中で「弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日
>興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり、日興より又日目に付属して今房州に在り」(富士門家中見聞)としています。
>さらに三十一世日因師は「袈裟数珠之事」で「近代上人方は皆正法を失ひ天台真言の邪義に附する故に今日因之を改め近代上人方の
>邪の法を疑ふのみ、一には日主上人の立行関東奥方に残り伝はる故、二には当山古老僧皆之れを伝ふる故、三には当山日目上人の
>相伝悉く房州保田に有る故、四には要法寺二代日大叡山相伝当山に伝ふ、故に知んぬ近代上人方、要法寺日大の邪伝に附するの
>み。」といわれ、日目上人の相伝が保田妙本寺にあることを明かされ、大石寺は「天台真言の邪義」や「要法寺日大の邪伝」が伝え
>られていたことを暴露しています。
大変失礼な書き込みをお許しください。可能でしたらお願い申し上げます。

845犀角独歩:2004/04/29(木) 12:12

843 空き缶さん:

地名さんの書き込みに誘われ、信濃町富士宮研究所の貴投稿を拝読させていただきました。管見にご賛同いただき、またご紹介のうえ、ご賢察を開陳いただき、まことに有り難うございます。

一点。禅師授与漫荼羅が石北両山にあり、どちらが本物・模写であるかという点。
亨師は両山の漫荼羅を比較し、まったく同一であると述べていたと記憶します。この点はかつてワラシナさんが指摘されたことです。では、まったく同一相貌の紙幅漫荼羅が何故現存するのか?ということが問題になります。山口範道師も紹介していた方法、つまり、表装剥離で正本から影本を取ったと議論されたことでした。
この件に関しては当スレッド35、104、255で空き缶さんも加わってお出ででした。

―― 漫荼羅の和紙はいまの紙に比し、ずっと厚手なので、表面(正本)を剥がすことができる。剥がしても、まだ文字は染み込み残っている(影本)。こうして禅師授与漫荼羅が二舗に分けられた ――

「弘安三年太歳庚辰五月九日、此丘日禅に之を授与す、
(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京 法道院」

「弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、
(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯耆漫荼羅と称す)、同上(北山本門寺)」

この記述をそのままに信用すれば、以上のような時系列が認められることになります。

(1)蓮師・弘安3年5月9日図示・「此丘日禅に之を授与す」
(2)興師加筆「本門寺に懸け(奉り)万年の重宝…」
(3)2舗に剥離
(4)石山本:興師加筆「少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し」、そして、「本門寺に懸け奉り万年の重宝…」の文字を削損

すなわち、この分離は興師在世に行われてことになる!と類推されます。
ただ気になるのは、

石「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり」(興師筆と)
北「本門寺に懸け万年の重宝たるべし」(他筆と)

と亨師が書き分けている点です。徒に訓読にされてしまっているために、多分、白文で記されたであろう加筆の相違が判然としません。けれど、もし、「本門寺・重宝…」の加筆が同一の筆であれば、以上の時系列ということになるでしょう。

もしこの剥離・削損が興師の許で行われたとしたら、本門寺奉懸を興師は意図し加筆。
のちに一舗は「本門寺重宝」の意義を削損し「少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し」と加筆して、禅師へ与え直したなどという類推は可能かも知れません。こうなると北山に保管されたほうが正本であり本門寺奉懸漫荼羅、法道院(現在石山)保管のほうは禅師個人の漫荼羅ということになるでしょうか。

尤も表装を剥離したものではなく、元より片方が(籠抜き拵字などの技法を使った)正確な模写である可能性は否定し切れません。その場合、すると「少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し」の加筆は模写を許さなかったということになるのでしょうか。

いずれにしても、この二舗は同一相貌であるという事実は動かないであろうと思うわけです。

PS:それにしても、わたし富士宮研究所では保田の法類と勘違いされたのですね。まだ妙本寺は参詣したこともありません(笑)

846れん:2004/04/29(木) 18:12
先日国会図書館に行き完則師の大石寺宝蔵目録をコピーしてきました。弥四郎マンダラについては皆さんが論じられている通りでしたが、目録で気になったのは「色心実相境智根源決・日時筆」でした。これは達師が刊行し娘婿の菅野師の妙観文庫に所蔵とのことが同文庫目録に記録されていましたが、内容は未見なのでわかりません。石山固有の法門書は目師の「日目直授相承」興師弘安五年撰述の「本尊点画伝」道師の三師伝と行師への「本尊秘伝抄」時師の「色心実相境智根源決」でしょうか。以上は富要等にも載らず未公開ですが、ご存じの方はご教示の程を。

847名無し@ピンキー:2004/04/29(木) 18:41
地名様
大本尊と顕示されているのは、万年救護の本尊以外にも実存致します。
岡山県の日蓮宗寺院に三国救護の本尊、仙台市の仏眼寺に一幅、大本尊と認めが
あり、前者の三国救護の本尊は真筆と立正安国会でも断定しております。

日禅授与の御本尊様の相貌のハッキリとした、写真をお持ちの方は公開して
下さい。

848空き缶:2004/04/29(木) 18:45

 地名さん、こんにちは。
 いずれもう少し自分の考えをまとめたいと思いますが、これまでの論議の中で出尽くしていることばかりです。
 大要は以下の通りです。

 >時師の代から造立がはじまり、主師のころまでに大石寺に遷座
 
 1、道郷係争の終焉により、時師は御影を失った。「日興上人御遺蹟事」より、御影が本門寺建立の時の本堂安置の本尊と推定される。
 2、大本尊副書の記述と「家中抄」の記述より、御影と大本尊はセットであると思われる。
 3、これらのことより時師には御影の像立と併せて、大本尊の代替をつくるという動機があると推察する。

 4、主師撰と伝わる文献に、初めて弥四郎曼荼羅と思われる板本尊の記述がみられる。
 5、「奥人」等の資料にも、板本尊に関する記述に時師と主師の名が見える。
 6、主師とほぼ同時期に活躍された、保田・小泉の中興である我師撰と伝わる文献に、久遠寺の板本尊が当時大石寺にある旨の記述がある。

 こんなところです。

 尊師模刻本尊と有師模刻本尊の件は、れんさん引用の「日興門流上代事典」の記述を参考にさせていただいたものです。
 隆門教学摂取の件は、日蓮宗宗学全書8巻の「日隆上人略伝」を参考にしています。

 實成寺と妙本寺ですが、特別な関係にあるわけではありません。
 誤解を招くといけませんので、近日中に實成寺の写真は削除しようと思います。
 個人的に、實成寺も蓮・興・目の三師を正師と立てる寺院でありますので、親近感を持っています。所蔵資料も興味のあるものが多いと思います。

 いずれにしましても、地名さんから学ぶことが多いわたしですので、私の愚論はあくまでも暇つぶし程度にお考えくださいませ。

849地名:2004/04/29(木) 18:56

848 空き缶さん

ありがとうございます。
いずれおまとめのおりは、拝読させていただきます。

850地名:2004/04/29(木) 19:00

847 名無し@ピンキーさん

>大本尊と顕示されているのは、万年救護の本尊以外にも実存致します。
>岡山県の日蓮宗寺院に三国救護の本尊、仙台市の仏眼寺に一幅、大本尊と認めが
>あり、前者の三国救護の本尊は真筆と立正安国会でも断定しております。

ありがとうございます。
私は本尊については今回初めて学ぶ者ですので寡聞にして大本尊は保田妙本寺様の大漫荼羅と思っております。
もしよろしければ、上記の大本尊の腰書等教えていただければ幸いです。

851空き缶:2004/04/29(木) 19:09
 
 犀角独歩さん、禅師授与曼荼羅の件、私は単純に北山のものが立正安国会の御本尊集に収録されなかった為に大石寺のものが真撰ととらえました。
 いとも単純でした。やはり皆さんと私では次元が違いますね。

 れんさん、国会図書館への来訪お疲れ様です。コピー代高いですよね。
 名無し@ピンキー さん、勉強になりました。ありがとうございます。

852れん:2004/04/29(木) 20:19
名無し@ピンキーさん、はじめまして。岡山県日蓮宗寺院…三国救護の本尊…立正安国会…真筆と断定…。仙台仏眼寺のものは御筆写真を見たところ保田蔵の大本尊を底本とした偽筆と私は見ます。岡山県日蓮宗寺院所蔵の通称三国救護の本尊は本当に蓮師真筆なのでしょうか?たとえ立正安国会が真筆と断定していても、御筆ないし御筆写真を実見しない限りは私は蓮師筆とは判定しかねます。もしよろしければ、三国救護本尊の図示年月日、図顕讃文、授与書、先聖添書等について詳しく御教示戴ければ幸甚です。

853犀角独歩:2004/04/29(木) 20:27

禅師授与漫荼羅は北山では寺宝「万年救護本尊」として格護され、寺院の方針としては非公開とのことでした。

パンフレットに載った件を法類の方にお尋ねしたら「知らない」ということでした。

石山は、もちろんこの騒ぎですから、公開することはないだろうと思います。

854犀角独歩:2004/04/29(木) 20:42

れんさん:

完則の相貌図、ご覧になって、どのような感想を懐かれましたか?

855名無し@ピンキー:2004/04/29(木) 21:03
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm
これの事ですか、パンフレットの件

856れん:2004/04/29(木) 21:46
犀角独歩さん。完則師の相貌図を見た感じでは、ずいぶんとまあ今の弥四郎マンダラとは相貌が違うなぁ、あまりに勧請が少なすぎると言うのが正直な感想です。これでは今の板マンダラが何代目か?と思われても仕方ないですね。やはり弥四郎マンダラの成立には謎が多すぎると感じます。弥四郎国重も明和年間には家中抄の記述により南部実長氏の嫡男説であったことは参考になりました。

857犀角独歩:2004/04/30(金) 10:48

れんさん:

> 完則師の相貌図…今の弥四郎マンダラとは相貌が違う…今の板マンダラが何代目か?

やはり。わたしも同様の感慨を懐きました。
手元に完則図を含めて三種の座配を写した図、それに憲師の記述を含めて四種類あります。それぞれ出入りがあって一様ではありません。違っているのは勧請諸尊とその座配ばかりではなく、讃文・腰書の文と文字配り、さらには木下図では上部に「若脳乱者頭破七分」「有供養者福過十号」と記されるところまで違っています。これが同じものを写したとは到底信じがたいものがあります。

なお、『日蓮上人』掲載の写真を拡大して、その座配を睨んだとする柳沢図は、禅師授与漫荼羅と諸尊勧請は全同です。また、先にも記しましたが、全同でした。柳沢師はまったく禅師授与漫荼羅は意識していませんが、学会成就本尊は意識していたかも知れません。この漫荼羅は愛染が弥四郎漫荼羅と同じ筆法に拠っていること、また経の最終画が公明点になっていない特徴は弥四郎漫荼羅を写したものと思われます。達師の、正本堂供養者に下付した特別御形木漫荼羅も同様の特徴を示しますので、ある面、同師は顕師より忠実に弥四郎漫荼羅を「書写」した人であったといえるというのがわたしの見解です。

以上の如く、近代の対比では一致するものの、木下図からさらに憲師、完則師と下れば、著しく相違が散見されることになります。

「一枚岩」ならぬ一枚‘板’ではないと思わざるを得ないわけです。

858犀角独歩:2004/04/30(金) 10:50

【857の訂正】

誤)また、先にも記しましたが、全同でした。
正)また、先にも記しましたが、学会成就本尊も全同でした。

859れん:2004/04/30(金) 22:13
犀角独歩さん。仰る通りですね。実家にも達師の特別形木マンダラがあるので、あらためてまじまじと観たところ経字と愛染の梵字の書体も独歩さんのご指摘の通りでありました。憲師、完則師の記述による限り、弥四郎マンダラは複数の存在が類推される、というよりも、台座(腰書部分)からマンダラ部分の取り外しが可能ならば、台座は一つだが、やはりマンダラ部分は相貌の違うモノが複数存在するということになりましょうか?先ずは、近日中に発刊される独歩さんの著書を拝読させて戴いて、勉強させて戴きたく存じます。

860名無し@ピンキー:2004/05/02(日) 18:21
本門寺根源では虫干会の際に宝物の紹介をするパンフを配布しています。
受付に言えば過去の分も含め出してくれますよ
 本門寺根源 0544-58-1004

861犀角独歩:2004/05/04(火) 14:54

859 れんさん:

こちらこそ、今後ともご指導・ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。


> 860

禅師授与漫荼羅については、近日発刊の『図解必携 大石寺本尊の鑑別』で詳しくする予定です。ご参考ください。

862名無し@ピンキー:2004/05/07(金) 21:22
 楽しみです。つい最近になって猿島富久成寺に蔵の宗祖日蓮聖人筆

 の写したる紺紙金泥の御本尊を福島の寺院で拝観しました。

 因みに、正宗寺院ではないですけど。

863ストレート:2004/05/07(金) 23:45
某掲示板で石山批判書出版するという直●というかたは、あのロ●●クさんだったんだネ。
最初の出版社は自社判断で出すのをやめたと聞く。その理由を種々聞いて納得。

864みかん:2004/05/08(土) 02:25
>>863 ストレートさん。
どこのどなたか存じませんが、捨てハン(だよね?)で、
伏せ字で他板の住人の個人攻撃をするのはいただけないと
思いますが。

直人さんがROCKさんなのは、みんな知っていることだし、
彼の書かれる本がすぐれたものか、そうでないかは、
本が出てから実物を見て評価すればいいことではないでしょうか。

> 最初の出版社は自社判断で出すのをやめたと聞く。その理由を種々聞いて納得。

その事情をあなたが本当に聞いたのか、知っているフリなのか知りませんが、
こういう事実かどうか検証不可能な裏情報をもっともらしく振り回すのって、
いささかいただけないと思いますが。いかがでしょうか。

865Happy Birthday!!:2004/05/08(土) 09:55
御真筆御本尊の発見か!?

『重宝御虫払法要』

日時:5月22日(土) 午前10時

場所:妙盛寺本堂(静岡県静岡市清水草薙北)


主な奉掲御本尊

 ●日蓮大聖人筆(弘安三年 月 日)[日弁授与之御本尊]
 ●日興上人筆(元亨四年七月二十二日)

  なお、この2幅は日蓮正宗関係の書籍でも確認できない。

 その他、日蓮大聖人御影・日興上人御影、日蓮正宗歴代法主の書写御本尊約30幅

866空き缶:2004/05/08(土) 12:54

 伝「御真筆」は、まだまだたくさんあるんですね。

 先日は明らかに「模写」と思われるものが、オークションで落札されていましたが。

 是非、日蓮正宗圏も所蔵の伝「御真筆」本尊を鑑定され、世に公開されることを希望します。

867名無し@ピンキー:2004/05/10(月) 21:40
 ここに、伝日蓮大聖人筆の御本尊があります。
 http://www.eps4.comlink.ne.jp/~shokeiji/mandara1.htm

868犀角独歩:2004/05/10(月) 22:16

このスレッドのテーマは「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」です。本論に戻しませんか。
必要があれば、上述の議論に相応しいスレッドを提案されては如何でしょうか。

869独り寝:2004/06/13(日) 20:02
こんにちは。

初めて投稿させていただきます法華講の者です。

様々な御研究。
遡って拝見いたしました。
学究的な態度での真面目な御研究のようですのでお邪魔をするつもりはありませんですが、
一信仰者の「私見」でしかないものですが私の意見をひとつ書き込みさせていただきたいと思いました。

◆私見◆

私は、「弥四郎国重」とは、遠い未来に広宣流布し、いよいよ戒壇堂が建立されることになった時に実在する願主(時の天皇、総理大臣、総講頭などがそれにあたるでしょうが)の名前なのだろうと考えております。
これを事前に仏様が予言しておられるお名前だろう。
そう思います。

でそのお方は、
「やしろ くにしげ」
さんかもしれないし、「やしろ総理・くにしげ天皇」の連名での願主なのか…
私は凡夫なのではっきりとはわかりませんけれども、
とにかく近いお名前の方が実在し、信徒を代表して願主となれるような地位にいる時代、この時に広宣流布し、戒壇堂もできるよ…
という仏様の予言ではないかと思っているものです。

もちろん、学術的な根拠は何もなく、たんなる一信仰者の私見でございますからお笑いくださって結構なのですが、
過去の書き込みを拝見するにつれて、
大聖人様が、「仏様」ゆずっても「上行菩薩」さらにゆずっても、元の来訪を予言せられた大僧侶である。
という、この、未来予知ができたお方である…という視点からの言及がとぼしいように思いましたので、あえてその立場からの見解を述べてみるのも意味があるかしらん、と思った次第です。
つまりは「未来の願主予言説」
とでももうしあげましょうか、
そんな拙い私見でございます。

なお、もちろん、私はお邪魔をするつもりはございませんですから、板の趣旨や話の流れにそぐわない投稿であると御判断されたら、ご自由に御削除くださって結構でございますことを、あわせて申し上げます。

失礼いたしました。

870風来坊:2004/06/14(月) 12:28
本当に久しぶりに覗いています。

独り寝さん

>、「弥四郎国重」とは、遠い未来に広宣流布し、いよいよ戒壇堂が建立されることに
   なった時に実在する願主(時の天皇、総理大臣、総講頭などがそれにあたるでしょうが)の
 名前なのだろうと考えております。これを事前に仏様が予言しておられるお名前だろう。

そう考えている方もいらっしゃいますかもしれませんね。
でも、でも日蓮正宗ではそうは言えないかもしれません。
血脈相承を受けてきているはずの大石寺諸師が、「波木井さんの息子」と
しているからです。
(富士宗学要集第五巻)

その他のところでは、他の系図もあることは、過去、こちらの掲示板で
皆様が議論されていましたのでそちらを見ればわかります。

重ねて申し上げれば、血脈相承があるとする以上、日蓮正宗では
独り寝さんのような御意見は通らないかもしれませんね。

871独り寝:2004/06/14(月) 13:20
風来坊さんこんにちは。
昨日の日曜日に、
独歩さんのサイトから御本尊に関する文章をコピーしたものをゆっくり読んでましたら、丁度弥四郎国重のところをみていた時に、
突然、フッと下のような考えが浮かんできたんです。

なのでそれをそのまま書いてみた次第です。
勿論、
ただの思いつきですので言い張るつもりもなにもありません。

ちなみに偽作、
ということでいえば、そもそも大乗教典自体が非仏説があったりするわけですから、
学問だけを頼りに考えていくなら、
特に大乗仏教の国、
日本の仏教宗派自体がそもそも成り立たないでしょうね。
と思います。
しかし信仰というのはまた別のものでしょう。
そもそも居るか居ないのかもわからない神を、しかし崇めてきているのが人間の歴史。
人の命のより深いところからの欲求によって成り立っているのが宗教だろうと私は思います。

学問は学問。
宗教は宗教でしょうね。
人は自分の命の欲求に従い、
見事な使い分けをしていくものでしょう。

がしかし…
こんなこと書いてると明らかに趣旨に反しますので、風来坊様にはお相手くださったお礼をのべつつ退散いたしますね。

どうもありがとう。
失礼いたしました。

872風来坊:2004/06/14(月) 14:35
独り寝さん
>退散いたしますね。

いやいや、私は退散させようとしたわけではないのです。
ここの皆さんは真面目ですし優しい方が多いですから、とてもいいお話ができると思います
ので、どうぞまた参加せれることをお勧めします。
やはり、自分の信仰には一つも疑問や不満がないことが望ましいです。
独り寝さんの中にも、弥四郎国重のことだけじゃなく、ほんの少しは疑問とか
あるのではないでしょうか?それを皆さんにぶつけてみたりするのもいいんじゃないかと
勝手に私は思っています。
それがゆるぎない信仰へと発展するかもしれませんよ。
またお会いできること、心からお待ちしてます。(最近は私も全然見れませんでしたが)

873空き缶:2004/06/14(月) 15:38

 独り寝さんはじめまして。

 大乗非仏説と本門戒壇之大御本尊偽作説とは根本的に性質が異なると思います。
  
 「本門戒壇之大御本尊」は弘安三年の日禅師授与の曼荼羅という、もとになったものが厳然と存在いたします。
 これは御当代の日顕上人猊下様も過去にお認めであることが、故河辺御尊師のメモによっても明らかです。あのメモは、「院達」等でどんなに言訳をされても、その内容をごまかすことはできません。
 もし本門戒壇之大御本尊と弘安三年の日禅師授与曼荼羅とが、全くのべつものであるならば、この二つを横に並べて写真公開し世に問えばよいこと。しかしそれができない、何故でしょう?それは、その曼荼羅の大きさ、勧請諸尊の種類・座配、主題・花押の筆法、全てにわたって全くの全同であり、河辺メモの正確さがかえって証明されてしまうからではないでしょうか?

 そして御顕示年月日・授与書の改竄を施した、単なる禅師授与曼荼羅の模刻ではなく、あたかもなにか特別な曼荼羅であるがごときを詐称した、大石寺流にいうならばれっきとした偽本尊です。
 
 つまりは犀角独歩さんの論文はまさに的を射たものであるのです。

874れん:2004/06/14(月) 16:43
独り寝さん、お久しぶりです。私も空き缶さんと同意見で、大乗非仏説と戒壇之板曼陀羅の偽作説とは根本的に性質が違うと思います。空き缶さん、重須七代日国師の「定書」には「予ノ代ニ従上野御正筆御本尊一補買徳之御本尊一補」云々とあり、日国師が上野から蓮師曼陀羅を求め得て重須に所蔵したことが記されています。上野が石山であるなら、もしかしたら日国師が上野から買い得た蓮師曼陀羅とは禅師授与曼陀羅ではなかったかと私は推測してます。上野が禅師授与曼陀羅を手放したのは板曼陀羅偽作に伴うものでないか想像を逞しくしてしまいます。

875れん:2004/06/14(月) 16:47
訂正。
誤、伴うものではないか想像
正、伴うものではないかと想像

876空き缶:2004/06/14(月) 18:04

 れんさん、お久しぶりです。
 非常に面白いですね、大石寺の12世か13世のどちらが売却したのでしょう?
 日国師の「定書」には年代を特定できる識語はありますでしょうか?

 そして14世の遺文にはじめて弥四郎曼荼羅が出てくるということですね。
 
 さらにそれが56世によって北山から買い戻されるとは、それはそれなりにドラマチックなことですね。

877海が好き:2004/06/14(月) 18:28

みなさん、はじめまして
ちょっと教えて、いただきたいのですが?
「日蓮百話」高橋勇夫(東方出版)に
富木尼は熱原弥四郎国重のむすめ、南条伊予守定時に嫁して一子をもうく、
六老僧の一人、伊予房日頂である。(105P)
浅間神社の流鏑馬の神事の際に信徒の四郎坊に重傷を負わせ、また弥四郎を
暗殺するなどの行動に出た。(241P)
光日房は本書中にあるように、子の弥四郎の勧めで信仰に入り、(271P)
と、あります。いま、おもしろがって読んでいるのですが、
この本は、あまり信用しないほうが いいのでしょうか?

878れん:2004/06/14(月) 18:58
空き缶さん、日国師の「定書」(日興門流上代事典P632所収)には「天文第伍天丙申十月廿九日」とありますから、天文五年(西暦1536年)ですね。年代としては石山十三代日院師の代ですね。もっとも「従上野御正筆御本尊」=日禅授与曼陀羅かとは私の単なる推測で想像の域を出ないことは申し添えておきます。ただ弥四郎曼陀羅が日禅授与曼陀羅を底本としたと見られる以上、上野と重須との間の蓮師曼陀羅の移蔵を様子を示す重須日国師の「定書」は板曼陀羅成立を考える上で参考資料にはなると思います。

879れん:2004/06/14(月) 19:01
またまた訂正。
誤、移蔵を
正、移蔵の
失礼しました。

880空き缶:2004/06/14(月) 19:22

れんさん、早々の御返事ありがとうございます。
 
 海が好きさん、『「日蓮百話」高橋勇夫(東方出版)』は法華宗系の出版物でしょうか?「東方出版」からは法華宗(本門流)の書籍が、多く出版されていると思いますがいかがでしょう。

 富士門にて「熱原弥四郎」といえば「滝泉寺申状」に弘安二年八月に斬首されたことが書かれている、「弥四郎坊男」のことを指すと思われますが、お示しの「日蓮百話」によれば日頂上人は弥四郎国重の孫に当たりますね。
 なかなか面白い説であると思いますが、「富木尼は熱原弥四郎国重のむすめ」とはどのような文献あるいは伝承をもとにされたものかは興味を引きます。
 同書の巻末などに参考とした文献類がかかれてあると思いますが、教えていただけませんか?

881空き缶:2004/06/14(月) 21:04

 れんさん、西暦1536年とは日蓮正宗冨士年表によれば日国師の晩年ですね。(1536年10月9日寂)
 
 日国師の「定書」が「天文第伍天丙申十月廿九日」という、日国師の死後10日目にして書かれていることを考えますと、日国師の弟子による「日国師御遷化記録」的なものであろうかと推察いたしました。

 いずれにしましても、年代的にみて重要史料たることは動かないですね。

882空き缶:2004/06/14(月) 21:06

 何度もすみません、「日国師御遷化記録」というよりは「日国師伝」ですね。

883れん:2004/06/14(月) 21:27
空き缶さん。日国師は富士年表では天文五年十月九日の帰寂が伝えられいるそうですが、日国師は同月廿九日に「定書」(上代事典には正本北山本門寺蔵、日国花押と記載あり)を定置されているので、それ以降の帰寂と考えた方が自然と思います。恐らく富士年表の記載の方が誤伝と思います。

884海が好き:2004/06/14(月) 22:32

空き缶さん

 〇本書執筆参考文献
・日蓮上人遺文全集講義(日蓮上人遺文全集講義刊行会編 平楽寺書店・ピカタ)
・日蓮上人遺文講義(日蓮上人六百五十遠忌報恩記念会編集 日本仏書刊行会)
・望月・仏教大辞典(望月信享編 世界聖典刊行会)
・本化聖典大辞林(田中智学監修 師子王文庫)
・仏教語大辞典(中村元著 東京書籍)
・コンサイス・仏教辞典(宇井伯寿監修 大東出版)
・日蓮大聖人・御書辞典(創価学会教学部編 創価学会)
・法華経(坂本幸男・岩本裕訳注 岩波文庫三冊)
・法華三部経章句索引(真読・兜木正亨編 佼成出版)
・日蓮(戸頃重基・高木豊編 岩波・日本思想大系14)
・親鸞集・日蓮集(兜木正亨・新間進一校注 岩波・日本古典文学大系82)
・日蓮主義聖語録(中川日史著 平楽寺書店)
・法華経講義(織田得能 東方出版)・録内啓蒙上・下
・日蓮(紀野一義著 日本の名著)・日蓮(田村芳朗著 NHKブックス)
・日蓮とその門弟(高木豊著 弘文堂)・日蓮(高木豊著 評論社)
・講座日蓮、五冊(宮崎英修・田村芳朗編 春秋社)
・日蓮上人と諸人供養(中村錬敬著 平楽寺書店)
・日蓮のことば(渡辺宝陽著 雄山閣)
・日蓮上人名言集(日蓮宗現代宗教研究所編 隆文館)
・日蓮の伝記と思想(日蓮宗現代宗教研究所編 隆文館)
・日蓮の旅(新月通正著 朝日ソノラマ)
・日本国語大辞典(日本大辞典刊行会編 小学館)

885空き缶:2004/06/15(火) 01:36

れんさん、以前某掲示板にて波木井坊竜尊氏が「日蓮正宗冨士年表」のことを「小学生の使う事典以下」と蔑んでいましたが、こういうことがあるからなんですね。
 
 私も日蓮正宗冨士年表は、上下巻ものと平成二年版とを所持しており、何かにつけて参考にさせていただいていますが、チョッとショックですね。

 海が好きさん、ありがとうございます。お手数おかけしました。
 どれもそれなりの研究書だと思われますが、、「日蓮百話」自体は原典をもとにした書物ではなさそうですね。
 私にはどの参考文献をもとに、熱原弥四郎国重が日頂上人の祖父に当たるとされたのかが判りません。
 
 千葉に「熱原氏」という一族があり、富木氏がその系譜に属する氏族なのか、それとも富木氏はもともとは熱原出身なのか?

886犀角独歩:2004/06/15(火) 07:26

869独り寝さん:

はじめまして。あなたの投稿を読んでわたしが思ったこと。

一つ。法華講員であるというが、石山とは違う異説を唱えている点。中世の石山は弥四郎国重を円師の嫡男と言い(精師)、現石山は、弥四郎男に模した日蓮己心の人物という(達師)。

未来の「やしろくにしげ」、こんな荒唐無稽な夢想は個人で考えるのは、自由。しかし、まじめに論攷しているところにはまるで馴染まないものでしょう。

一つ。「学問は学問。宗教は宗教」ということもまた、石山とは違う異説である点。石山では古来より「一信二行三学」といい宗教と学問を不可分であると主張してきた(亨師)
学問と宗教が別ならば、教学研究は不要ということになり、富士学林という石山の大学も不要と言うことになるでしょう。

行学なき信仰がだめだというのは日蓮已来の考え。日蓮自体、当時の日本を代表する今で言う総合大学比叡山に学んでいるわけです。

学問から離れた宗教を、わたしは個人的に鰯の頭を信じることと異ならないと思います。この考えに基づく議論は以下のスレッドでしました。

鰯の頭も信心?
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1083757197/l100

まあ、個人的には、石山の解釈とは違う異説を唱えることはけっこうなことであると思います。ただ、根拠なき思いつきの「私見」は確かに笑い話以上の意味は持たないと思います。それをまた、わたしは信仰であるとも思いません。

887空き缶:2004/06/15(火) 20:02

れんさん、大石寺が創価学会を破門した後に、日蓮正宗を離脱していった僧侶のグループで「憂宗護法同盟」というのがあるそうですが、その憂宗護法同盟の著作である「法主詐称」には、禅師授与曼荼羅について「一旦紛失後、天文8年頃、北山本門寺が所蔵。」とあります。
 この書籍も、何を参考文献として書かれたのか、全くの不明である為確証あるものではないと思いますが、「一旦紛失」が重須での盗難事件、「天文8年頃、北山本門寺が所蔵」を日国師定書をもとにした著者の年代の勘違い・記憶違いと考えれば、憂宗護法同盟という僧団の考えが少しわかるような気がします。

888れん:2004/06/15(火) 20:45
空き缶さん、ご指摘の憂宗護法同盟著「法主詐称」の文を見ますと、上野から重須に移蔵されたという蓮師曼陀羅が禅師授与曼陀羅である可能性は否定出来ないものと思えてきました。上野には石山と禅師建立の東光寺がありますが、上野が石山ならば精師の代ではなく天文年間以前の時期に弥四郎曼陀羅が禅師授与蓮師曼陀羅を底本として偽作された可能性も考えられます。弥四郎曼陀羅そのものに関しては、先ずは今月を目処に出版される犀角独歩さんの御本を拝読させて戴いた上で考察を深めて行きたいと考えております。

889愚鈍凡夫:2004/06/15(火) 21:56

空き缶さん、れんさん、お久しぶりです。
このことは以前、空き缶さんに質問したことだったと思うのですが、日禅授与漫荼羅が何故北山にあるのでしょうか。
日禅師は日興師に蓮祖授与曼陀羅を預けっぱなしにしておいたのでしょうか。もしそうだとすれば、その理由はなんだと思われますか?
解けない謎の一つですので、是非お知恵を拝借したいと思います。

890愚鈍凡夫:2004/06/16(水) 07:28
皆さん、お早うございます。

>>889:
慌てて投稿したため、ちょっと表現が変なので訂正します。

誤→日禅師は日興師に蓮祖授与曼陀羅を預けっぱなしにしておいたのでしょうか。もしそうだとすれ  ば、その理由はなんだと思われますか?

正→日禅師は日興師に蓮祖漫荼羅を預けっぱなしにしておいたのでしょうか。もしそうだとすれば、そ  の理由はなんだと思われますか?

に訂正します。悪しからず。 m(_ _)m ゴメン!!

891空き缶:2004/06/16(水) 14:56

愚鈍凡夫さん、禅師授与の曼陀羅についての動向は細かいことはわかりません。

せいぜい以下の流れが想定できるくらいと思われます。

弘安三年五月九日 宗祖より日禅師に授与

正応三年     禅師大石寺南之坊創建(はたして当時安置した本尊はなんであったか?)

―――宗祖滅後、師僧である日興師があづかり添書きする―――

永仁六年前後   再び日禅師へ授与される。(興師本尊分与帳と禅師授与曼陀羅の添書きがほぼ全同であることから、この前後に再授与されていると思われる。)

(正中二年十一月十二日 盗難により重須より紛失か?)
※興風談所「日興上人全集」補註により、この事件自体が信憑性に乏しいと考えカッコ書きとしました。

元徳二年        日禅師、東光寺・妙音寺を創建。

元徳三年 三月十二日  日禅師、大石寺南之坊にて遷化。

元弘三年 二月 七日  日興師重須にて遷化。

以後、二百年強の歳月を経る。

天文 五年頃      大石寺より重須(北山本門寺)が買い取る。

明治の頃        日応師が買い戻す。

以上です。御覧の皆様の加除訂正をお願い致します。

892れん:2004/06/16(水) 16:28
愚鈍凡夫さん、お久しぶりです。お尋ねの禅師授与蓮師曼陀羅の動向についてですが、私の考えも、空き缶さんと同じです。禅師が自らに授与された蓮師曼陀羅を興師に預けっ放しにするとは余り考えられず、興師により本門寺云々の添書がなされた後、程なくもとの如く禅師の住坊(南ノ坊か)に御遷座されたと思います。南ノ坊(大石寺)から重須への禅師授与蓮師曼陀羅の移蔵は、空き缶さんの御類推の如く天文年間のことと私は推定しております。以上ご参考まで。

893犀角独歩:2004/06/16(水) 19:37

れんさん:
空き缶さん:
愚鈍凡夫さん:

禅師授与漫荼羅についてですが、これはまったく同一のものが2舗あることが前提ではないでしょうか。

【北山】弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯耆漫荼羅と称す)

【石山】弘安三年太歳庚辰五月九日、此丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京 法道院。

そして、法道院から石山に移管されたものに、河辺メモに言う如く模写の形跡が残っていると言うことでした。

これを1舗の漫荼羅として論じると混乱が生じると思いますが、如何でしょうか。

894問答迷人:2004/06/16(水) 19:44

空き缶さん

禅師授与蓮師曼陀羅は、同じものが二幅現存しています。一つは、日応師が買い取って、現在大石寺宝蔵にあるもの。もう一つは、北山本門寺にあるもの、これが、北山が大石寺から買い取ったものなんだと思います。これら二幅は、日興上人の書き込み部分に差が有るだけで、後は全同のようです。冨士宗学要集にも二幅が記録されています。果たして、日応師が買い取ったものは、如何なる流転を重ねたものなのか、非常に興味が湧きます。

895問答迷人:2004/06/16(水) 19:50

犀角独歩 さん

レスの内容が重なってしまいました。ただ、北山が大石寺から買い取ったということが、大変興味深く思ってロムしていました。

896空き缶:2004/06/16(水) 20:04

 犀角独歩さん、お久しぶりです。

禅師授与曼陀羅二鋪の内、一鋪は模写・臨写などによって再現されたものと思われますが、興尊の添書が興尊の本尊分与帳にある記載と同じであること、北山のほうは立正安国会編御本尊集に未収録となったことを考えれば、やはり現大石寺所蔵のものが真筆である可能性は大きいですよね。

本物の一鋪はその時代時代によって、重須と上野を行き来しており、現在は大石寺に。
問題は何時、二鋪にされたのかということですが、独歩さんは興尊御在世中も考慮に入れているとのことでした。
私は北山が売りに出し、日応師が買い戻すといった直前、明治期ころに行われたのではないかと考えます。
阿部師のいう「模写」とは、曼陀羅の上に白和紙をのせ写し書きしたものをいっているのではないかと考えます。「模写の形跡」とは写し書きした時、墨汁かなにかが本紙の方まで多少染みてきてしまった跡でもあるのではないでしょうか。
もしそうであれば、何百年も前のシミを模写の跡と判別することは、いくら阿部師の鑑定眼をもってしても容易ではないと思います。そう遠くない近世においてできたシミであろうと憶測するしだいです。

897空き缶:2004/06/16(水) 20:12

 問答迷人さん、こんばんは。

「禅師授与曼陀羅」、恐らく阿部師のあのメモが創価学会によって暴露されなければ、こんなに有名になる曼陀羅ではなかったのでしょうね。

いま私は何故大石寺は日禅師授与の曼陀羅を模刻したのか不思議に思っています。相貌が整っているからでしょうか?

898問答迷人:2004/06/16(水) 20:46

空き缶さん

>北山が売りに出し、日応師が買い戻すといった直前、明治期ころに

北山が売りに出したという記録があるのでしようか?

>何故大石寺は日禅師授与の曼陀羅を模刻したのか

全くもって不可解です。只、日禅師授与の曼陀羅が二幅あることと何か関連が有るように思います。

899問答迷人:2004/06/16(水) 20:51

空き缶さん

>北山のほうは立正安国会編御本尊集に未収録となったことを

大石寺の日禅師授与の曼陀羅は御本尊集に何番として収録されているのでしょうか?

900空き缶:2004/06/16(水) 21:24

問答迷人さん

>大石寺の日禅師授与の曼陀羅は御本尊集に何番として収録されているのでしょうか?

大石寺は非公開ですので不収録です。つまり、不掲載という完全否定を免れたというだけで、確実に本物であるという証拠はありません。
可能性はある、という程度です。

>北山が売りに出したという記録があるのでしようか?

申し訳ありません、確証ある記録はありません。
阿部師の言動を記録した例のメモと、「奥人」?に掲載されていた日応師の御状にそれらしき記述があったことくらいです。
「奥人」掲載の書状は、これから探してみます。たしか御本尊売買のことがかかれてあったと記憶しています。

901れん:2004/06/16(水) 21:28
犀角独歩さん、以前国会図書館で読んだ堀日亨師の富士日興上人詳伝(文庫版ではない)に、亨師は立正安国会の片岡随喜師・山中喜八師等の北山本門寺での蓮師真蹟の写真撮影に同席し、片岡師が北山所蔵の蓮師曼陀羅の内、建治二年二月の鉄砲曼陀羅以外は全て摸写本と鑑定したこと、その際檀家総代が片岡師の鑑定に抗議したことを述べています。実見した片岡師の鑑定が正確ならば、空き缶さんの言われる如く北山蔵本は模写の可能性があります。問答名人さん、以上の理由により北山蔵の禅師授与曼陀羅は安国会の御本尊集に未掲載で、石山蔵も未掲載です。

902問答迷人:2004/06/16(水) 22:13

空き缶さん

お手数をお掛けします。よろしくお願いいたします。

れんさん

>実見した片岡師の鑑定が正確ならば、空き缶さんの言われる如く北山蔵本は模写の可能性があります。

なるほど。そういう経過が有ったのですね。有難うございました。

ただ、そうなると、石山の禅師授与曼陀羅も模写かも知れません。以前、三学無縁さんが仰って居られた事ですが、北山も石山も、両方とも由井正雪の制作した模写本を掴まされたのかも知れませんね。

903問答迷人:2004/06/16(水) 22:27

空き缶さん

>(正中二年十一月十二日 盗難により重須より紛失か?)
※興風談所「日興上人全集」補註により、この事件自体が信憑性に乏しいと考えカッコ書きとしました。

富宗要02-021 日順阿闍梨血脈には、「嘉暦第一の暮秋には険難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ、」とこの本尊盗難事件に触れられています。事件は間違いなく有ったものと僕は考えてきました。そこでお伺いしたいのですが、補注には、この「日順阿闍梨血脈」の一節についてどのように述べられているのでしょうか?或いは述べられていないのでしょうか?

904犀角独歩:2004/06/17(木) 00:13

れんさん:
空き缶さん:

非常に旧い投稿なのでお読みになっていらっしゃらないかも知れないので、ご参考までに

*** 転載はじめ ***

『富士大石寺の歴史』
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/rekisi.htm

158 名前: ワラシナ 投稿日: 2001/11/23(金) 22:27

こんばんわ、問答迷人さま。

*そろそろ出てきそうな話題だったので待っていたら案の定出てきました。

「二種類ある弘安三年五月九日日禅授与本尊」

0、「富士日興上人詳伝下73-74頁」の「正文書、興師御正筆御本尊、各山に珍蔵す
るその脇書」に弘安三年五月九日の日付で二つの日禅授与本尊が並んでいます。

1、最初のが、、
大本門寺の重宝なり。
弘安三年五月九日 日禅上人へ。東京法道院に在り。{富士宗学要集第八巻史料類聚
1、178頁}

2、後のが、、
本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。
弘安三年五月九日 日禅上人へ。重須本門寺に在り。{富士宗学要集第八巻史料類聚
1、215頁}

3、大聖人様もお忙しい中よく二つも書いてくださいました。
だけど、ここで思い出されたのが、かって「徳明」氏に教えられた真跡紙幅本尊の
クローン複製法?です。和紙の表層をうまくはがせば、そっくりコピーさんがもう
一丁できあがる、というあの話です。
のり弁当ののりをはがせば、醤油に染みたおかかは均等ではない。しょうゆにしみ
だご飯と染みない白いご飯の部分が混ざった感じになっている。
表層一枚をはがして下に残った本尊の表面は、墨の汁が表層のやつほど濃くはない
だろう。こういうことがあるんじゃないかな、と考えています。

*** 転載おわり ***

905犀角独歩[TRACKBACK]:2004/06/17(木) 00:13

―904からつづく―

以上のワラシナさんの投稿を再掲し、わたしが付記したのは以下のとおりです。

*** 転載はじめ ***

94 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/28(日) 11:51
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/r255



この方法を、『日蓮正宗史の研究』で山口師が記しているのを副次的に見つけました。
既読であろうかと思いますが、取りあえず、転載します。

剥離表層(これは主として御本尊に見られるものと云われる)、剥離すると本体と影本という両本が出来るが何れも偽物ではない。本体と影本と並べて見ると容易に判別できるが、殆ど所蔵が離れているので一箇処に並べてみることが出来ない(P14)

ロムの方々に少し説明を付せば、川辺メモで問題になった禅師授与曼荼羅は石山にあることになっているのに、実は北山にもあるという指摘をワラシナさんがしてくださった。

なぜ、二体あるのかを説明されたのが、上記のワラシナさんの投稿でした。
和紙が厚みがあるので、うまくすると表層をうまく剥がせ、2枚にすることができる、剥がしても墨は裏のほうまで染みているので、表層を取られても、墨痕・文字はしっかりと残る、そのために真筆の曼荼羅を二体(本体・影本)に分けられる。この方法を使って、二体に分けた禅師曼荼羅が石北両山にあるのではないのかという話です。

*** 転載おわり ***

長い投稿で恐縮ですが、もう少し。

北山所蔵の禅師授与漫荼羅は、写真で見る限り、所謂、模写ではありませんね。ただし、「だから真筆である」という意味ではありません。模写というのは正本と全同に模写できません。しかし、北山禅師授与漫荼羅はかなり正確に弥四郎漫荼羅と一致します。これほどの一致は当時の技術では、剥離表装法、一歩譲っても籠抜以外に考えられません。

河辺メモが言う「模写の形跡」は、では北山蔵の紙幅のためか、それとも、弥四郎漫荼羅のためか、わたしは後者であると考えます。何故ならば、北山蔵の紙幅の筆の勢いは、とても拵字に墨を埋めたものとは見えないからです。

また石山蔵は亨師が「興師加筆」とされるわけで、それをそのまま信頼し、かつ御筆漫荼羅に非ずとすれば、興師は偽作を正筆と思い加筆したことになりますね。そんなことがあり得るでしょうか。それと、北山蔵が模写であれば、何故、興師の加筆を写さず、さらに他筆を加えたのでしょうか。まして、石山蔵は削損されているわけです。

以上の矛盾は、しかし、興師在世当初から表層剥離によってこの漫荼羅が二体に分離されていたと考えれば自然に理解されます。

なお、この漫荼羅がその相貌が全同であることを言ったのは亨師そのひとではありませんでしたか。

れんさんが呈示された売買が事実であれば、むしろ、二体に分かたれていたものが二カ所にある不都合を埋めるためとは考えられないでしょうか。しかし、その後、また別々に所蔵されることになるとしてでもです。

しかし、この当時の売買は自讃毀他の要素を考慮すべき点はないでしょうか?
『誑惑顕本書』の冒頭は「或人来テ問曰大石寺ニ於テ重須本門寺ノ重宝タル鉄砲漫荼羅を買取候」と、石山と偽って模写を信者に開帳して金をだまし取っているという記述で始まっています。この頃の「買った売った」の記述は手放しで信頼してよいものかどうか、わたしが慎重なのは、上述の騒ぎを意識するからでした。

なお、禅師授与漫荼羅は北山では「万年救護本尊」と言われるのであり、さらに『大石寺誑惑顕本書』では「戒壇本尊」とまで言われます。これほどまでに重視されるようになった理由は何か? わたしはその由来は案外『大石寺誑惑顕本書』に不自然に論われる禅師授与漫荼羅の‘宣伝’がその発端ではないのかと疑っているところがあります。

906犀角独歩:2004/06/17(木) 00:15

895 問答名人さん:

お久しぶりでございます。お声掛け、恐縮に存じます。

907空き缶:2004/06/17(木) 00:53

 問答迷人さん、御返事が遅くなり恐縮です。

 まず、興風談所「日興上人全集」では、日順阿闍梨血脈にはふれずに日代師への八通遺状に疑義があることから、盗難事件を認めがたいとしています。
 なお日興上人全集の正誤表にも、該当個所の訂正はみられません。
 以前、愚鈍凡夫さんなどと、この盗難事件について論議した時も「日順阿闍梨血脈」の文が問題になった記憶があります。
 「日順阿闍梨血脈」では「嘉暦第一の暮秋」となっていますが、日代師への八通遺状では「正中二年十一月十二日」となっており、正中二年が西暦1325年であるのに対し、嘉暦は西暦1326年からはじまっていますので、盗難事件自体はあったが日代師への遺状にあるような日付ではないということかもしれません。
 
次に日応師の書状です。内容は吟味しておりません、私としましては「それらしきことが書いてあるな〜」程度です。皆様方のご判断を仰ぎたく思います。


○藤本家文書(正本:藤本家蔵)

日応上人御状

大暑の節に候処 弥御清適に御信行大慶之至に存候 野衲義も法用に付出京候得共 無事に法護罷在候間御休神被下度候 却説過般御登山に相成方よりの御咄しに宗祖御真筆大御本尊(其際御拝見に入候)御購求に相成候思召も有之趣に付 売方へも其趣申入置候処 度々の督促 殊に今回同人態々出京 身延派へ売込申様の相談も有之 誠に遺憾の至りに候間 可成御購求相成度 若し御承知に相哉候はば 五六日は滞京に候間 至急御返事相成度
 夫迄は右売人へも他に売却は差留置候間 一刻も早く否哉御返事待上候 先は右要用のみ 稹々
 三十三年七月二十五日
 常泉寺にて 大石
藤本勘吉殿

以上ですが、昭和40年代に大石寺に遷座される前は法道院に秘蔵されていたことを考えれば、日応師の代に買い戻されたと考えてもつじつまが合うように思われます。

908れん:2004/06/17(木) 03:00
問答名人さん、昭和初期の片岡師の鑑定では模写とされたものの、今日の科学的な手法によって模写と実証したわけではないので、最終的な実否は分かりません。独歩さんの904・905におけるご教示を踏まえて考えると重須と石山の禅師授与両蓮師曼陀羅は剥離表装による正本と影本である可能性の方が高いと思います。犀角独歩さん、ご教示ありがとうございます。大変参考になりました。国師の定書の件ですが上代事典の記述では正本が重須にあり、蓮師曼陀羅を国師が買得したのは史実に近いと思います。ただそれが禅師授与のものであるかは断定出来ません。

909問答迷人:2004/06/17(木) 06:25

空き缶さん

>盗難事件自体はあったが日代師への遺状にあるような日付ではないということかもしれません。

あぁ、それなら納得です。ただ、「嘉暦第一の暮秋」は使節の日付ですので、「盗難事件が有って、一年を経て体勢を整え、使節を出した」と僕は推測しています。


>日応師の代に買い戻されたと考えてもつじつまが合うように思われます。

たしか、法道院の「法の道」か何かにこの件についての記述が有ったと記憶しています。法道院の信徒が古物商で売りに出されているのを見つけて、法道院の法華講でお金を出し合って買い求めたとか。誰が古物商に売ったのかは分かっていなかったのではなかったでしょうか。

れんさん

>蓮師曼陀羅を国師が買得したのは史実に近い

大変重要なご指摘、有難うございます。禅師授与蓮師曼陀羅についての謎解きが一歩進んだのは確かだと思います。

910愚鈍凡夫:2004/06/17(木) 06:29

皆さんどうも有り難うございます。とても参考になりました。
ただ、日禅師授与漫荼羅が2舗存在するのは何故だろう(レプリカが作成されたのは何故かという意味です)という新たな疑問が沸いてきすね。この漫荼羅以外の蓮祖漫荼羅では駄目な理由があるのでしょうか。
背景には北山と石山の歴史的な暗闘があるのでしょうが、とても興味深い問題だと思います。

911犀角独歩:2004/06/17(木) 12:59

> 910

わたしも同様の疑問を懐きます。
『誑惑顕本書』に「本門戒壇ハ必重須ニ事極ルト思ヘシサレハ当山第一ノ重宝萬年救護本門戒壇ノ本尊ヲ本門寺ニ懸テ萬年ノ重宝トスヘシト…日禅本門寺立ヘキナレトモ…」とあります。

いまでも北山では禅師授与漫荼羅を「万年救護本尊」と呼んでいますが、ここでは、さらに「本門戒壇本尊」、さらにさらに立つべき人は禅師であると言い、それを興師がなされるので禅師はこの漫荼羅を重須に留め置いたと言います。

わたしは弥四郎漫荼羅は禅師授与漫荼羅の模刻と闡明にしたわけですが、ここで気付けるのは、「一貫して、戒壇本尊はこの禅師授与漫荼羅である」とことです。

それにしても不思議なのは、石山蔵のほうは「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり」を削損しなければならなかったのかということです。
想像を逞しくすれば、弥四郎漫荼羅に拵字から彫刻して‘法魂’を遷したので、正本の該当の加筆は不用となったと言うことでしょうか。どうにも解せません。

だいたい、この漫荼羅が、斯くも珍重され北石両山ともに戒壇本尊とするのはいったいどのような理由に依るのでしょうか。

冒頭に挙げた『誑惑顕本書』の著者は、有師が本紙を板に張り付けて彫ってしまったと非難するわけですから、禅師授与漫荼羅の模刻であるとは思っていないわけです。それにも関わらず、今の弥四郎漫荼羅はその漫荼羅を素本にしていると見えるわけです。その意味において、893の空き缶さんが仰る「シミ」の出来た時期の予測は重要な意味を持っているとわたしは思います。

912空き缶:2004/06/17(木) 14:04

皆さんこんにちは。

 以前、名無し@ピンキーさんが、大石寺系末寺に所蔵される伝宗祖真筆曼陀羅を宣伝されていましたが、私は富士宗学要集等その他の諸文献にもある通り、正式な鑑定はされてないまでもほぼ宗祖真筆とみてよい曼陀羅本尊が、大石寺系諸寺にもあると思います。
 恐らくは其の中の一つに過ぎないはずの「日禅授与曼陀羅」が、昭和40年代にわざわざ大石寺に遷座されるのも不思議でなりません。
 大黒師が「日興門流上代事典」にて指摘したことは、宗内の学者の間ではそれなりにささやかれていたことなのでしょうか。

 日応師は当時本門宗から離脱し、要法寺の管長らと対峙していた経緯もあり、特に要法寺日守師による「末法観心論」に対する反論書「辨惑観心抄」を執筆されるなどの行動をとられていたと記憶しています。
 辨惑観心抄の内容からすれば、末法観心論にも「本門戒壇ノ大本尊」への誹謗があったようですが、幸にも禅師授与曼陀羅との関係には触れられておらず、過去に出尽くした内容の羅列であったようですね。ある意味、気付かれる前に売りに出されている「禅師授与曼陀羅」をなんとしても買い戻し、本山以外のところで秘蔵する必要があったのではないでしょうか。
 全ては憶測の域を出ません。
 継命新聞社版「日興上人」などにも、日禅師に関することは文献も限られており、明らかになっていないことが多いと書かれています。


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