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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について
1532
:
ひきこもり
:2006/06/13(火) 00:01:57
>>1530
>日蓮の教えは、間違っています。
これは信仰者としてあるまじき言葉です。
私は高等部の時に学生部の夏期講習会に参加した時には、25歳の東大大学院生の
人でした。学生部長は先生から「お前は御本尊を好きで好きでたまらないと言うよ
うになれ」と言われたそうです。私も唱題が少ない時には仕事が捗りませんが、唱
題ができる時には仕事が捗ります。
独歩さんが、東大出かは分かりませんが、日蓮大聖人否定の言葉はどうかと思いま
す。あの津田学生部長は東大大学院生、福島源治郎も東大出です。独歩さんも東大
出かも知れませんが、それで幸福になれないのでは困ります。
1533
:
ひきこもり
:2006/06/13(火) 00:07:13
誤)私は高等部の時に学生部の夏期講習会に参加した時には、25歳の東大大学院生の
人でした。
正)私が高等部の時に学生部の夏期講習会に参加した時には、学生部長は25歳の東大
大学院生に津田さんでした。
1534
:
乾闥婆
:2006/06/13(火) 00:44:49
ひきこもりさん。横から失礼いたします。
>>日蓮の教えは、間違っています。
これは信仰者としてあるまじき言葉です。
本門戒壇の大御本尊が偽物であったことよりも、蓮祖の教えが誤った事実に基づいていたことのほうが、私にはずっとショックでした。子供のころから自分を支配していた絶対的な教えが崩壊し、私もまた十年来のうつ病に(波はありますが)苦しんでいます。本門戒壇の大御本尊は物体に過ぎませんが、教義は心の襞に密接に食い込んでおり、この崩壊は自身の精神状態を酷く荒ませております。何度も仏教学ではなく信仰として蓮祖の教義を捉え直し、自身の精神を立て直そうとしてきましたが、一度知ってしまった事実は、容易に私を信仰へとは向かわせてくれません。
1535
:
顕正居士
:2006/06/13(火) 04:52:26
様々な宗教思想家は正しいことを信ぜよとはいっても、疑わしいことを信ぜよとか、誤ったことを信ぜよとは
言っていません。日蓮もそうです。つまり、正しいことか、疑わしいことか、誤ったことかを信じる前に判断を
せよといいます。誤ったことなら、その信仰を捨てよといいます。釈尊の金言であっても誤ったことなら捨てよ
という。正しいことか、疑わしいことか、誤ったことかを判断するのはどこまでも自分なのです。だから信じる
ことは少なくともその時代の学問に照らして正しいことの範囲でなくてはなりません。
1536
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/13(火) 07:37:26
>1529-1530 犀角独歩さん
そもそも論からいうなら件の『宗教年鑑』の数字そのものが実体を表していません。『宗教年鑑』での各宗派の信徒数を足すと確か日本の人口の2倍以上になるはずです。これはあきらかに相当数の重複を含んでいるからであり、統計学的にみて信用できるものではありませんのでこの数字を使った議論は不毛の論理になりかねません。エンジニアの世界ではこのような重複を含むデータは使用できません。重複率が一定ではないはずですので、係数をかけて数字を補正することすらできないからです。
ま、しかし犀角独歩さんのおっしゃる
>創価学会と接触した人数は以上の経緯からすれば、東京都人口に匹敵する人数というのはあながち外れた数であるとは思いません
というのは、かなり的を得た話であろうと考えます。ただ創価学会の信徒数は世帯数からの割り出しであると思われることから、例えば一家4人の中で一人だけ入会していても4人とカウントされるのであれば、残りの3人は広い意味で創価学会に縁したとは言えますが、その人を退転とは言えないでしょう。そもそもその3人は入会していないわけですから。もっともそれを広い意味で退転とおっしゃるのであれば、それはそういうことです。
ホントは実体は解らないというのが正直なところですね。
>日蓮の教え
これは判断が難しいです。現在の科学からいうなら竜門御書などナンセンスということになるわけですが当時の科学知識で書かれているわけでその内容が誤りであるから日蓮の教えが誤りということではないはずです。1535で顕正居士がおっしゃっていることに尽きるのではないでしょうか。私自身は少なくとも宗祖の御本尊は信じています。ですから現在も信仰を続けているということです。
1537
:
犀角独歩
:2006/06/13(火) 07:59:38
ひきこもりさん
わたしは別に東大出ではありませんが、日蓮の教えが間違っていることはわかります。
もし、それが正しいというのであれば、あなたはここで説明すればよろしい。
わたしは、過去5年間、日蓮がどのように間違えたのかを検証してきました。
その一切に反論すればよろしいわけです。
日蓮は、法華経は釈迦50年の説法、最後、8箇年の説であると信じていました。
しかし、実際は、法華経は西暦前100年から西暦後150年の間に創作されたものでした。ここで日蓮は間違えました。
日蓮は、自分の時代を釈迦滅後2000年から2500年の間であると信じていました。しかし、実際は2000年を経ていませんでした。ここでも日蓮は間違えました。
日蓮は、経典の一切を釈迦の謹厳であると信じていました。しかし、実際はそれは後世の創作でした。ここでも日蓮は間違えたわけです。
日蓮が基礎にした天台の教えは、以上の点を踏まえたうえに構築されたものですから、間違っています。
つまり、日蓮が釈迦の教えであると思ったものは釈迦の教えではなく、その釈迦の教えでないものによって構築された天台の教えも間違っていたわけです。それを基礎にした日蓮の教学は当然間違っていると言わざるを得ません。
しかしながら、日蓮は鎌倉という時代において、本人ができる限りの情報収集と思惟によって、その教学と本尊、そして修行を確立していったわけです。この日蓮の姿勢は、当時出来る最大限の努力であり、そして、その思惟も行動も、わたしは善意に基づいたものであると信じます。わたしは、その日蓮の方法論と善意の行動を信仰しています。日蓮が扱った資料が間違っており、そのためにその結論が間違ったものになっていたにせよ、その日蓮の善意に基づく行動と思惟は間違っていません。わたしは、この部分を信仰しています。
故に日蓮が採った方法論で、現代、わかり得る事実によって、それを再考するとどうなるのか、というのは、わたしが言う21世紀の日蓮を考えるということです。
あなたが、わたしが信仰者にあるまじきであるという気持ちはわかりますが、そのようなわたしは批難するのであれば、ここは挙証に基づく議論をする掲示板ですから、日蓮が間違っていない証拠を提示する義務があるということです。証拠をここに提示してください。
わたしの恩人である社会心理学博士・西田公昭師は、以下のように記しています。
「何か集団のメンバーになっていても、もし何か矛盾する事実に突き当たったら、徹底的に疑ってみることが大切である。もし、個人が疑うことに対して、何か罪的な否定的意識を教えこまれているとしたら、それは科学的思考を一切否定していることと知るべきだ。」(『マインド・コントロールとは何か』紀伊國屋書店 P227)
あなたは自分の信仰を、その信仰を否定する人と考えを排除することによって継続しようとしていますが、そもそもその方法が日蓮的ではありません。日蓮は、知り得る確たる情報を駆使しして結論を出す方法を採ったのです。
ですから、日蓮信仰を自負するのであれば、その方法論を採ってここに説明してみることです。
1538
:
犀角独歩
:2006/06/13(火) 08:05:00
彰往考来さん
1536の日蓮の教えについては、1537の重複します。わたしがいう日蓮の間違いはここに記しました。また、間違いではなかった部分もここに記しました。
顕正居士さんも、わたしと同様のことを仰っていると思います。
なお、虚数に基づく統監は‘科学的’には、仰るとおり無意味ですが、実際の被害を考えるとき、それを無意味として捨て去ることはできません。
統監に科学的な視点を当てながら、日蓮の教えには科学的な視点を当てないような論調になっておられますよ。
1539
:
犀角独歩
:2006/06/13(火) 11:52:48
重ねて、彰往考来さん
> 『宗教年鑑』…統計学的にみて信用できるものではありません
しかし、以下のようなことは言えるでしょう。
創価学会は正本堂供養社名簿として800万人を計上した。次に舎衛の三億の原理を通じて3000万人信徒を暗示した。昭和後期には1650万人信徒を年鑑に公称した。しかし、現在は800万人信徒であると公言している。この数字が一切が虚数ではないとしても、そのような創価学会が言ってきたことは事実です。
となれば、3000万信徒中、800万人の供養で正本堂を建立し、それが1650万人に減り、さらに800万人に減ったと公言しているのは、わたしではなく、“創価学会が発表してきた数字に依る”ところです。800万信徒名簿は実名であったといいますから、これを信頼するとし、また、現在の300万が仮に実数に近いとしたら、やはり、500万人減であるわけで没故者、退転、増加の詳細はわからないにしろ、勢力として激減したことを(それが架空の発表であったとしても)紙背に語ったとことになったということです。
> 4人とカウントされるのであれば、残りの3人は広い意味で創価学会に縁したとは言えますが、その人を退転とは言えないでしょう。そもそもその3人は入会していない
これは、わざとこのような創価学会の統監感覚を偽って仰っているのかどうか知りませんが、1世帯4人というのは平均数を言うわけです。また、もちろんのこと、御受戒をされていない人数を拭くんだ数ではないことは、統監を扱ったことのある人間であれば誰しも知っていることではないでしょうか。
> ホントは実体は解らないというのが正直なところですね。
実態がわからないから被害がないということは言えません。論点はこちらにあります。統計として不確かだから、言えないと片づけることは容易ですが、それは被害者を黙殺する行為になっている点を看過してはならないはずです。
>> 日蓮の教え
> 当時の科学知識で書かれているわけでその内容が誤りであるから日蓮の教えが誤りということではないはずです
そんなことはないでしょう。間違いです。
では、他に例を採って、お尋ねしますが、旧約聖書に書かれる天地創造は、当時の科学知識で書かれたものであるから間違いとは言えないのでしょうか。
太陽は地球の周りを回っていますか。
天地が創られ、まず人間が創られ、それが1週間でなされたというのは、当時の科学知識で書かれたから間違いとは言えないのでしょうか。
先に統監数について、その基礎となるところが不確かであるから信用するに足りないというのが彰往考来さんの論法でしたね。
では、日蓮の教えではどうでしょうか。基礎となるところ(経釈)が不確かであるけれど、自分は信じる。統監と日蓮教えという二つについて、まったく逆転したロジックで論じていませんか。
統監が信用できないのであれば、基礎資料が虚構であった上に成り立つ教えもまた、信頼できないしなければ、ここに整合性はありません。
> 私自身は少なくとも宗祖の御本尊は信じています
これは、要するに上述の統監といった統計を語るときとは裏腹に基礎資料の真偽を度外視して、ということにしかご投稿の意味がなっていないというのが1536の、わたしは記した意味です。
以上の点は「鰯の頭も信心」で大いに語ったところです。
反証は大いに歓迎です。
なお、既に論じてきたように、日蓮が曼荼羅を拝んだ書庫はありません。また、現在、創価学会が言っていることが日蓮その人の教学と似て非なるものであることも論証してきたのが、当掲示板での議論です。
創価学会の信仰とは、偽本尊を拝ませ、日蓮の教学と似て非なるものを信じ込ませるものであるという点でまず違っています。さらに、日蓮は、経典を釈迦の直説であるという神話を信じ、また、その神話に基づいた経典解釈を基礎にしたという点で、二重の過ちを犯しています。
なお、また、「信」ということについては、これまた、先に論攷したとおり、日蓮門下で言われる信仰はバカバットギータの影響を受けて導入されたバクティなのであって、それ以前の仏教とは、ここで改変されていることは既に論証されたところでした。
信じることに絶対的な価値を置くような姿勢は過ちであるというのが、顕正居士さんが
> だから信じることは少なくともその時代の学問に照らして正しいことの範囲でなくてはなりません。
これは現代であれば、現代の学問に照らしてという意味でしょう。
信仰になると統計も科学も無視してただ信じるという彰往考来さんの本尊信仰とは意味を異にしています。「顕正居士がおっしゃっていることに尽きる」と言いながら、まったく逆の態度になっておられる点を不審に思います。
1540
:
西大寺
:2006/06/13(火) 15:27:05
> 日蓮は、法華経は釈迦50年の説法、最後、8箇年の説であると信じていました。
しかし、実際は、法華経は西暦前100年から西暦後150年の間に創作されたものでした。ここで日蓮は間違えました。
日蓮は、自分の時代を釈迦滅後2000年から2500年の間であると信じていました。しかし、実際は2000年を経ていませんでした。ここでも日蓮は間違えました。
日蓮は、経典の一切を釈迦の謹厳であると信じていました。しかし、実際はそれは後世の創作でした。ここでも日蓮は間違えたわけです。
> 日蓮が基礎にした天台の教えは、以上の点を踏まえたうえに構築されたものですから、間違っています。
日蓮を基準にしない、新日蓮教学などと言うのは日蓮の教えに非ず。
①大乗仏教を含めた経典の一切を久遠実成の教主釈迦牟尼仏の説とすれば、
それは応身釈尊の40年説法の間にも、その内容は説かれていたであろうと
する哲学的な推測がなされるのは当然である。未だ久遠の教主釈尊と応身の
釈尊の関係が分らないのならば、法華経の説く哲学等を理解するずもないの
で阿含経だけの仏教をやっていれば良い。
②日蓮は、正法衰退の時を基準にして教えを説いているので、その時点で分
かり得る情報から2000年2500年等としても殊更問題にする必要はない。教義
影響するものではない。これを以て教えも間違っていると考えるのは間違い
である。
③繰り返すが、経典の一切は応身釈迦の教説ではない。日蓮、天台もそのよ
うな浅はかな考えではない。経典の一切は久遠の教主釈迦牟尼仏の謹厳であ
る。
1541
:
西大寺
:2006/06/13(火) 15:47:44
開目抄に曰わく「倶舎・成実・律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり。
天尊の太子、迷惑して我身は民の子とをもうがごとし。華厳宗・真言宗・三
論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり。法相・三論は勝応身ににたる仏を本
尊とす。大王の太子、我が父は侍とをもうがごとし。」
三十四心断結成道の釈尊(劣応身)、歴史上の釈尊の立場でしか教主釈尊を
見れない者が、天台・伝教・日蓮の相承した法華経を理解できるはずもなし。
1542
:
犀角独歩
:2006/06/13(火) 15:58:41
挨拶もなしに、単に持論を書き捨てていくようなものに一々応答する必要はありませんが、いちおう答えておきましょう。
> 日蓮を基準にしない、新日蓮教学などと言うのは日蓮の教えに非ず
それは、もちろん、そうでしょう。
その意味において、現在、日蓮の解釈教学は、日蓮の教えではないというのは、わたしの主張です。
①大乗仏教を含めた経典の一切を久遠実成の教主釈迦牟尼仏の説とすれば、
それは応身釈尊の40年説法の間にも、その内容は説かれていたであろうと
する哲学的な推測がなされるのは当然
別段、当然ではありません。
> 未だ久遠の教主釈尊と応身の釈尊の関係が分らないのならば、法華経の説く哲学等を理解するずもないので阿含経だけの仏教をやっていれば良い。
法華経の哲学とは、では何でしょうか。
法華経を日蓮が哲学といわないのに、哲学と言うことは、日蓮の教えを基準にしない「日蓮の教えに非ず」ものでしょう。
日蓮の基準であるというのであれば、日蓮が法華経を哲学であるといった基準を上げればよろしい。できますか。
②日蓮は、正法衰退の時を基準にして教えを説いている
これまた、日園の教えを基準にしていません。日蓮は大集經からも後百歳を言うのであって、正法衰退のみを基準しているわけではありません。
これまた、日蓮の教えを基準にしない「日蓮の教えに非ず」の己義です。
③繰り返すが、経典の一切は応身釈迦の教説ではない。日蓮、天台もそのよ
うな浅はかな考えではない。経典の一切は久遠の教主釈迦牟尼仏の謹厳であ
る。
では、反詰しますが、その久遠釈尊とは如何なる仏であると天台、日蓮は言っているのでしょうか。いまの経典は五百塵点に説かれたものではなく、印度応誕の釈尊が説かず、誰が説いたのでしょうか。
また、仮に五百塵点成道釈尊の説であるというのであれば、経典の冒頭に記される「如是我聞」の我とは五百塵点の誰であるというのでしょうか。
そもそも、経典とは、釈尊が書いたものではなく、釈尊が説いたものを弟子が記したという前提の物語です。
また、教典を説くのに、劫・国・名号を記すのが仏の説法です。
いまの経典の一切が久遠釈尊の説法であるというのであれば、その劫・国・名号すればよろしい。
以上の考えは、久遠本知開顕と説法の次第を混同した「日蓮の教えに非ず」己義に過ぎません。
1543
:
犀角独歩
:2006/06/13(火) 16:03:31
> 1542
反詰します。
では、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』という五五百歳とは、久遠成道釈尊から数え、いつの五百歳を言うのでしょうか。
仏の本地を述べるのも経典なのであって、その経典の説時と成道を混同するような姿勢は日蓮の基準にはありません。
1545
:
犀角独歩
:2006/06/13(火) 18:18:26
【1542の訂正】
誤)日園
正)日蓮
【1543の訂正】
誤)>1542
正)>1541
わたしが「日蓮の間違い」と記したことは、しかし、日蓮一人の問題なのではなく、全仏教徒に課せられた重大な問題点です。
日蓮が経典を釈迦の金言であると思い込んでいたことは紛れもない事実でしょうし、自分が生きた時代が釈迦滅後五五百歳に当たっていたという認識は、『本尊抄』の題号、また、なにより、漫荼羅に書き込んだ讃文からも動かし難い事実です。これらの点を指摘するとき、それを単に排撃することで是とするのは簡単ですが、逆にそのような態度は、逆に世間一般から信頼を失うことは必至であるとわたしは記しているのに過ぎません。
教理的に言い逃れることは、可能でしょうが、21世紀にもなった現在、経典の成立は科学的に論証分析されているのであって、それを排除することはできません。
そもそも久遠仏の説法だという法華経が釈迦滅後500年以上経ってから成立した創作物である以上、その創作仏を採って、500年前の説明に充てることは科学的な論証とはなっていません。
日蓮の教えとは何であるのか、その素描は、まず700年来の偽書と解釈をすべて取り去らなければ、それを垣間見ることはできません。
また、しかし、園か意味見えた日蓮教学をそのままに墨守しようとすれば、それは原理主義への転落を意味するでしょう。
キリスト者が、いまだに進化論を肯定できない姿に異なりません。
また、自分の信仰と遇わないものを排除するだけで、何ら論攷説明もしない姿勢は、中世ヨーロッパの魔女狩りと異ならないところです。
いずれもカルト体質を脱却できない邪信と言うほかありません。
また、信仰とは、世間一般、科学で通用しない諸事を如何に「当然である」と思い込むことによって成り立っているのか、その自己点検がなければ、単なる自涜と異なりません。
なお、彰往考来さんが仰る本尊信仰、また問答さんが語る唱題体験は、以上のような科学的な分析と照会する参考に、先には雖念さんのご投稿がありました。また、その体験主義的な態度としては、いちりんさんが、唱題も徹底し、さらに念仏道場にも行き、さらにはインドでヨーガを経験する等、多種多様の体験を通じて、唱題を相対化されたご経験の披瀝は、この点を考えるうえで、多くの示唆を与えています。
わたしは、ここで日蓮を批判しているとでもとらえる御仁があるようですが、わたしの目的はそんなところにありません。一般の批判をここに提示し、では、その答を実は有していない相続門下の実態を闡明にしているのに過ぎません。また、その批判への反応は、その日蓮信仰の在り方が、現代社会にあっては、カルトとしか映じない実態を自ら曝しているのに過ぎない点も併せて指摘しておくことといたします。
1546
:
犀角独歩
:2006/06/13(火) 18:20:58
補足します。
もちろんのことですが、1545における内容は、彰往考来さん、問答名人さんの体験主義を批判するものではなく、その在り方をカルト的と言っているものではありません。むしろ、今後の議論の方向性を提示したものです。
1547
:
今川元真
:2006/06/13(火) 18:43:19
創価学会員で、久遠元初を歴史の始まりでは無くて信心の起点・出発点と説いていた方がありました。其儘の事実が解らないなら、ケースバイケースで学問の再構築を成さなければ骨董品でしか無いのでしょうか。
1548
:
犀角独歩
:2006/06/13(火) 19:27:45
【1542の訂正】
誤)
いまの経典の一切が久遠釈尊の説法であるというのであれば、その劫・国・名号すればよろしい。
以上の考えは、久遠本知開顕と説法の次第を混同した「日蓮の教えに非ず」己義に過ぎません。
正)
いまの経典の一切が久遠釈尊の説法であるというのであれば、その劫・国・名号記せばよろしい。
以上の考えは、久遠本地開顕と説法の次第を混同した「日蓮の教えに非ず」己義に過ぎません。
1549
:
西大寺
:2006/06/13(火) 20:14:41
> 現在、日蓮の解釈教学は、日蓮の教えではないというのは、わたしの主張です。
教学には各門流に様々な主張在り。日蓮宗の中に様々あり。どの日蓮の解釈
教学を指して言うのか、どの部分を指すのか、全体を指すのか意味不明である。
> 別段、当然ではありません。
貴方が、哲学的解釈をしなからである。
> 法華経の哲学とは、では何でしょうか。
仏教は、哲学を背景として宗教となっていることを貴方は知らないからであ
る。
> 日蓮は大集經からも後百歳を言うのであって
貴方が言うように、当時の取り得る資料を補助的根拠として引用したのであ
って、正法衰退の時は法華経そのものに示され導かれたことである。
> その久遠釈尊とは如何なる仏であると天台、日蓮は言っているのでしょうか
貴方に繰り返す。開目抄にもあるように、日蓮は三十四心断結成道の釈尊(劣
応身)、歴史上の釈尊をもって教主釈尊とするのではない。教主釈尊は如何な
る仏であるかは天台・日蓮教学の基本であって、それを知らずに日蓮の解釈教
学云々を言うべきか。
> そもそも、経典とは、釈尊が書いたものではなく、釈尊が説いたものを弟子が記したという前提の物語です。
大乗経典は、そのような成立でないことは貴方自らが言っておることであり
常識である。
開目抄に曰わく「仏は久遠の仏なれば迹化・他方の大菩薩も教主釈尊の御弟
子なり。一切経の中に、この寿量品ましまさずば、天に日月無く、国に大王
なく、山河に珠なく、人に神のなからんがごとくしてあるべきを、華厳・真
言等の権宗の智者とをぼしき澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往権宗の人々、
かつは自の依経を讃歎せんために、或は云く、華厳経の教主は報身、法華経
は応身と、或は云く、法華寿量品の仏は無明の辺域、大日経の仏は明の分位
等云云」
久遠実成の教主釈尊が説かれなければ、一切経・大乗経に根拠が無くなるこ
とは日蓮自らが指摘していることである。そして、法華経をこの世に実際に
現れた応身が説いたに過ぎないと言う説を、日蓮自身が非難していること知
らずに、その哲学的な解釈をしようとしないのは、日蓮の教学を全く理解し
ようとしていないからである。
1550
:
ひきこもり
:2006/06/13(火) 21:22:14
基本は信心にありますから、法華経が釈迦の論説ではなくても問題はありません。
末法思想が迷信であり、それに蓮祖が気付かなかったという点は重大問題です。
この点では独歩さんには反論できません。
曹洞宗の開祖の道元は末法思想を否定しています。鎌倉新仏教の開祖の中で末法
思想の迷信性に気付き、それを指摘したのです。彼は法華経を最高の経としてい
ました。
末法思想を蓮祖見抜けなかったことは最大の過ちですね。蓮祖はあの鎌倉時代の
大学者ですが、帰納的思考性に劣っていたのではないですか。懐疑する思考力に
劣ることは創価学会員全体に言えることです。
独歩さんはそうした帰納的数理的懐疑を持たれています。末法思想を蓮祖が盲信
したのははっきり言って誤りと判断せざるをえません。
1551
:
西大寺
:2006/06/13(火) 22:14:06
> 末法思想を蓮祖見抜けなかったことは最大の過ちですね。蓮祖はあの鎌倉時代の
大学者ですが、帰納的思考性に劣っていたのではないですか。
劣っているのは日蓮でなく、盲目なる貴方である。日本人の多くが法華経を
以て教主釈尊を本尊とせず、釈尊以外の教主を本尊として仏教と思っている、
あるいは多くの者が仏教の信仰を捨て去っている、そして釈尊を脱益仏(利
益がない仏)としてい創価学会が政治権力を持っている事実は、末法(正法
衰退)の明らかなる証拠である。
1552
:
燕雀安知鴻鵠之志哉
:2006/06/13(火) 22:56:39
西大寺さん
迷信仰の私には深い所は分かりませんが
>劣っているのは日蓮でなく、盲目なる貴方である。日本人の多くが法華経を
以て教主釈尊を本尊とせず、釈尊以外の教主を本尊として仏教と思っている、
あるいは多くの者が仏教の信仰を捨て去っている、そして釈尊を脱益仏(利
益がない仏)としてい創価学会が政治権力を持っている事実は、末法(正法
衰退)の明らかなる証拠である。
と犀角独歩さんに申されていますが、私は次の点を教えて頂きたいです。
・教主釈尊を本尊とすべき根拠を提示して下さい
・脱益仏として釈尊を扱う学会が政治権力を持っている事が、どうして末法の明らかな証拠になりえるのでしょうか
・後世創作の経典を信じられた日蓮師の言葉を以て、何を証明されようとしているのか
こういった疑問が尽きません
私にはここで多くの方が言われる事の方が正しく思われます。ここに参加する多くの方達は
・根拠のない事を信じろ、正しいと認めろという人あるならばその人は理論的、文献的証明を出す義務がある
・信仰の根本は信であるという事は万人に認められるべきであり、それを個人が用いる事に何ら問題はないが、その信を人に提供する場合、「信」以外の根拠を以て提示すべきである
という考え方を持っていられると私には感じられます。
また私もそうであるべきだと考えます。
でなければ、それこそ「鰯の頭も・・・」であって、その主張を持つ近い人に出会えば、全てそれが可となってしまう事になり得ます。
人々がそれぞれ主張するのは良い事だと思いますが、人に影響を与えんとする場合、その責任義務も同時に発生し、証明すべき事だと思いました。
西大寺さんのように一方的に自論強要する方に最近めぐり合った経緯がありまして、一言申し上げたくなった次第です。
1553
:
西大寺
:2006/06/13(火) 23:04:00
> と犀角独歩さんに申されていますが
読解力を問う。1551が犀角氏に答えた者だと思う者がいるとは。
> その責任義務も同時に発生し、証明すべき
読解力を問う。引用の開目抄を理解できなかったとは。
1554
:
一字三礼
:2006/06/13(火) 23:11:09
横レス失礼します。
> 仏教は、哲学を背景として宗教となっていることを貴方は知らないからである。
西大寺さんはお経を読んだことはありますか。私はそのようなことは始めて聞きました。少なくとも法華経、八千頌般若経、十地経、華厳経、涅槃経などの代表的な大乗仏典にはそのようなことは一切説いていません。
何の経に「仏教は哲学を背景としている」と説かれているのでしょうか。論拠となる経を挙げてください。
もしも、仏教が哲学を背景として成立している宗教であるならば、仏教など学ぶ必要はありません。哲学を学べばよいのでしょう。西大寺さんのご主張は、中世ヨーロッパにおいて哲学に拠って神の存在を証明しようとした「理神論」と同じです。哲学に拠って神が証明されるのであれば、聖書の神の言葉は哲学の理論に劣ることになるのではないか、という批判が起こり「理神論」は崩壊しました。
「法華経」には哲学的なことは一切書いてありません。もしも書いてあると言うのであれば、その箇所を経典から引用してください。それでも無理に哲学的に経を解釈するのであれば、あなたの主張は「法華経」からは離れるのみならず、「法華経」より哲学的思考を重視するという本末転倒の論考となるではありませんか。
1555
:
西大寺
:2006/06/13(火) 23:29:51
> 燕雀安知鴻鵠之志哉
小人物には大人物の気持ちや考えがわからない
①日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。「報恩抄」
②この土の我等衆生は五百塵点劫より已来、教主釈尊の愛子なり。不孝の失に依て今に覚知せずといえども、他方の衆生には似るべからず。有縁の仏と結縁の衆生とは、譬えば天月の清水(せいすい)に浮ぶがごとく、無縁の仏と衆生とは、譬えば聾者の雷の声を聞き、盲者の日月に向うがごとし。
しかるに或る人師は釈尊を下して、大日如来を仰崇し、或る人師は世尊は無縁なり、阿弥陀は有縁なりと。或る人師の云く、小乗の釈尊と、或は華厳経の釈尊と、或は法華経迹門の釈尊と。これらの諸師並に檀那等、釈尊を忘れて諸仏を取ることは、例せば阿闍世太子の頻婆娑羅王を殺し、釈尊に背いて提婆達多に付きしがごとし。「法華取要抄」
③再掲:仏は久遠の仏なれば迹化・他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり。一切経の中に、この寿量品ましまさずば、天に日月無く、国に大王
なく、山河に珠なく、人に神のなからんがごとくしてあるべきを〜「開目抄」
経典に哲学的な見地なく、法華経を後世の創作としか考えられないものに、
日蓮の教学を説くことは難し。
1556
:
今川元真
:2006/06/13(火) 23:38:54
鎌倉時代の僧・日蓮は、 経典に照らし合わせ此の経典は自分に取って方程式的に利用できるから立正安国論を書き説いたのでは無いですか?三身も同じように類型に例え易いから使用した。そして、自分が法華一乗を広めなければ仏教が虚妄に終わると断じて決意したのでは無いでしょうか。全ては、法華一乗の為の摂受的展開(日蓮聖人は感性感覚で泥から出て花を咲かせる蓮華を思い描きながら仏像に合掌し漫陀羅を図示し法華経を説いた)では無いのか。 いろいろな宗教的用法語句文章が、神掛かりな事から発せられたのか計算ずくめで発せられたのかは、想像力もしくは学問構築能力の関わりもあるので判断出来辛いと考えます。
1557
:
西大寺
:2006/06/13(火) 23:40:26
> もしも、仏教が哲学を背景として成立している宗教であるならば、仏教など学ぶ必要はありません。
仏教が哲学的宗教であることは世界の常識でもある。仏教は哲学を背景とし
ていない等と言う仏教学者は?
> 「法華経」には哲学的なことは一切書いてありません。
天台・日蓮の教学を学ぶ者で、そのようなことを愚かなことを言う者はおら
ず。
1558
:
燕雀安知鴻鵠之志哉
:2006/06/13(火) 23:50:08
>経典に哲学的な見地なく、法華経を後世の創作としか考えられないものに、
日蓮の教学を説くことは難し。
この部分を教えて下さい、と申し上げたのですが・・・
1559
:
乾闥婆
:2006/06/13(火) 23:53:27
西大寺さん。
あなたの使われる「哲学」「哲学的」という言葉の定義をまずされてはいかがでしょうか。
1560
:
燕雀安知鴻鵠之志哉
:2006/06/13(火) 23:59:27
西大寺さん
そも、私は日蓮教学を説く力などありませんので、不明と思うところをお聞きしたいのですが、いかがでしょうか?
1561
:
西大寺
:2006/06/14(水) 00:31:59
> あなたの使われる「哲学」「哲学的」という言葉の定義をまずされてはいかがでしょうか。
法華経が二大教義、諸法実相を説き、歴史上の釈尊の本地を説いているにも
関わらず、法華経が哲学的宗教であることを理解せぬのならば、そもそも哲
学とは如何なるかを知らぬ者である。
1562
:
西大寺
:2006/06/14(水) 00:35:53
> 不明と思うところをお聞きしたいのですが
読解力を問う、①②③。
1563
:
燕雀安知鴻鵠之志哉
:2006/06/14(水) 00:51:42
読解力を相手に要求する、西大寺さんの所持する日蓮仏法であるならば、既に万民救済は不可能ではないでしょうか?
私が知る日蓮師の法とは違うような気がするのですが・・・
まさか、我こそ日蓮師の一番弟子のような振る舞いをする事が日蓮師の教えだとは思っていませんでした。
1564
:
燕雀安知鴻鵠之志哉
:2006/06/14(水) 01:07:22
私が殊更失望してしまうことは、日蓮正宗系に関わりながら、実に日蓮正宗系に属する人は固執した持論を展開するのみであって、相手の疑いすら全く理解できていないということ。
そしてそれを更に拡大して日蓮系仏法と名乗る集団或いは個人においても同様の質を見い出してしまいます。
一般的に仏法は深い部分を知らざるは判別に苦しむとは知っていますが、多くの日蓮仏法関係者はそれを分別つけられぬ人は、理解できぬなら法に迷うといい、多くの人はそれに迷うといい、迷うゆえに疑を抱くといいます。
ですが、西大寺さんは薄者と思われますので、敢えて法が正しいのか誤りであるか、きちんと無智の人にも理解せしめて欲しいものです。
それすらせずに「読解力を問う」という文言は、無智相手せずの論であり、救法ではありません。
そして多くの日蓮関係者が勝手な発言だけを残して逃走してしまっているように思います。
その点だけを見ても、一々に責任を持って反論される犀角独歩さんのようなスタンスこそ、本来の「責任ある人」という感を抱く次第です。
1565
:
燕雀安知鴻鵠之志哉
:2006/06/14(水) 01:09:12
訂正
>西大寺さんは薄者
>西大寺さんは博学者
1566
:
犀角独歩
:2006/06/14(水) 04:55:59
一晩でずいぶんと遣り取りが進んでいますが、西大寺と名乗るあなたは己義を書き捨てるばかり以外は何もしていないこと、また、常に侮蔑的な言辞を吐いて、他者の人権を傷つけていること、以上は、まったく当掲示板の規約に抵触している点を、まず指摘おきます。
たとえば、「盲目なる貴方」「小人物」。前者は視覚障害者を侮蔑したうえで、さらに人を侮蔑した言葉です、後者もまた、人権を傷つけています。
斯かる態度を改めないのであれば、わたしはあなたの退場を管理者さんに進得ません。
さて、西大寺さんに対し、わたしは、あなたは日蓮を基準にするといいながら、実際のところ、日蓮を基準にしていないではないかと反詰をしたわけです。
この点について、答えず、己義を投稿し続けています。
これまた、投げかけられた質問に答え投稿をするという当掲示板の佳例を穢してます。
わたしは1542に
法華経の哲学とは、では何でしょうか。
法華経を日蓮が哲学といわないのに、哲学と言うことは、日蓮の教えを基準にしない「日蓮の教えに非ず」ものでしょう。
日蓮の基準であるというのであれば、日蓮が法華経を哲学であるといった基準を上げればよろしい。できますか。
と問うています。他にも二つ質問を上げましたが、それは置きましょう。
法華経、日蓮が哲学を説いたものであるというんであれば、日蓮が、哲学を説いたという該当真蹟遺文をここに提示すればよいわけです。
まず、この質問に答えていただきましょう。
1567
:
管理者
:2006/06/14(水) 06:28:31
西大寺さん
あなたの書き込みは、話し合いを重んじる当掲示板のルールに馴染まないばかりか、参加者に対する侮蔑表現が目立ち、当掲示板の書き込みルールに抵触しています。ご参加の皆様からの削除等の依頼が無いので、暫時、このままにしておきますが、同様の、書き込みルールに抵触する書き込みを更に続けられた場合は、削除、書き込み禁止、等の措置を取らせていただく事になります。
以上警告いたします。書き込みルールを遵守してください。
1568
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/14(水) 07:36:40
>1538-1539 犀角独歩さん
いつのまにかスレッドが進んでいまして、追いつけませんが、ちょっと今仕事が多忙で上記スレッドへ私にお問い合わせの件につきましてまとめる時間がありません。追って投稿したいと存知ますので少々時間をください。
会議やら出張の準備などで昨夜も遅くなってしまいました。いきつけの代理店に出張に使う航空券の受領にいったのですが、何時もお忙しそうですね、と担当の方に言われてしまいました。覚えられているのですね。(笑)
1569
:
犀角独歩
:2006/06/14(水) 08:34:54
彰往考来さん
ご多忙のところ、わざわざ有り難うございます。
お答えをお待ちする点は、他のロムの方にも参考になる点であろうと思います。為に返レスを楽しみにしておりますが、お時間の余裕のあるときにお寄せください。信仰は一生のテーマです。取り立て、急いだ議論ではありません。
まずはお仕事第一。万事、業務遂行のご成功をお祈り申し上げます。
1570
:
一字三礼
:2006/06/14(水) 09:19:12
西大寺さん
> 仏教が哲学的宗教であることは世界の常識でもある。仏教は哲学を背景としていない等と言う仏教学者は?
あなたは、「世界の常識」と「仏教学者」に拠って仏教を理解しているのですか。
「龍樹菩薩の十住毘婆沙論に云く、不依修多羅黒論。依修多羅白論」(開目抄)
「龍樹菩薩の十住・婆沙論に云く、経に依らざる法門をば黒論と云云。」(大田殿女房御返事)
私は、「仏教は、哲学を背景として宗教となっている」との論拠はいかなる経典を根拠としているのかを問うているのですよ。
西大寺さんのご主張は、日蓮聖人の基準に照らせば’黒論’となります。
> 天台・日蓮の教学を学ぶ者で、そのようなことを愚かなことを言う者はおらず。
あなたは、法華経を読んだことがないのですね。
法華経には哲学が書いてある主張するのであれば、その箇所を法華経の経文で指摘すればよいだけのことでしょう。
1571
:
顕正居士
:2006/06/14(水) 18:21:21
インド以来、大乗経は報身仏の説法とすることについては以前に書きました。
本尊と曼荼羅 538
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/538
この話題は戒壇本尊とも本尊と曼荼羅スレッドとも無関係なので
現代人が納得できる日蓮教学
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/l50
がよいでしょう。
1572
:
西大寺
:2006/06/14(水) 18:43:18
「燕雀安知鴻鵠之志哉」とは荘子の言で、意味は「小人物には大人物の気持
ちや考えがわからない」である。
開目抄を引用して日蓮は法華経を応身の釈尊(歴史上の釈迦)が説いたもの
ではないとする立場を示した。したがって、「日蓮が釈迦の教えであると思
ったものは釈迦の教えではなく〜それを基礎にした日蓮の教学は当然間違っ
ていると言わざるを得ません。」の論拠は根底より否定される。
諸法実相と釈迦仏の本地を説くことが、哲学でないと言う者はそもそも哲学
とは何たるかを知らぬものである。
1573
:
管理者
:2006/06/14(水) 19:15:49
西大寺さん
あなたの1572の投稿は、限りなく禁止事項の4に該当するかに見えます。
4 無意味な多重投稿・反復投稿を禁止します。同じ文章の連続投稿、或いは、文章は同一でなくとも内容的に同じことを繰り返し投稿された場合は削除致します。なお、根拠を示せないとか、すでに論理が破綻しているとかにもかかわらず、臆面もなく投稿し続けられた場合は、無意味な多重投稿・反復投稿とみなし、削除致します。
管理者から。交通整理の為、一つご質問します。
御質問 「哲学」とはどういう事柄を言われていますか。「哲学」の定義をお示しください。
なお、この御質問は既に一字三礼さんが質問されていませんが、あなたは、この質問に答えようともしておられないので、交通整理の為、御質問いたしました。御回答願います。
もし、この管理者の質問を無視して、更に投稿を続けられた場合は、即刻削除して、以後のご参加をお断わりいたします。よろしく御回答ください。
1575
:
管理者
:2006/06/14(水) 19:21:52
西大寺さん
補足です。あなたは、「諸法実相と釈迦仏の本地を説くことが、哲学でないと言う者はそもそも哲学とは何たるかを知らぬものである。」と書き込まれておられますので、当然、哲学の何たるかを良くご存知であると考えます。その良くご存知の、「哲学とは何たるか」を御開陳戴きたい、という趣旨です。よろしくお願いいたします。
1576
:
犀角独歩
:2006/06/14(水) 21:57:45
> 1572
> 燕雀安知鴻鵠之志哉
たしかにこの成句は指摘のとおりの意味に使用されます。
ゆえにこれを差別に抵触するとした1566のわたしの言は撤回します。
しかしながら、「盲目」という一言の使用には、その差別と侮蔑的用法に関してはその限りではありません。
また、一連のやり取りは顕正居士さんのご指摘のとおり、他スレッドでそれぞれ議論されるべき内容であると思います。
なお、管理者さんから質問がなされておりますので、以後、ご判断の一切は回答と管理者さんのご判断に委ね、西大寺氏への一切のレスは、裁断が下るまで、遠慮することといたします。
1577
:
犀角独歩
:2006/06/14(水) 22:11:17
なお、一点のみ記しておきます。
法華経は応身釈迦仏の教えではないということと、わたしが日蓮が法華経ほか大乗経典を釈迦の直説と間違えたと言うことはまったく関係がありません。
大乗経典は、五百塵点成道の釈尊が説いたものではなく、西暦前後の仏教徒が創作したものだからです。つまり、西大寺氏の云う経典が久遠釈尊の所説などということはまったく成り立ちません。まさにフィクションとノンフィクションの区別もつかない心理状態に陥っていると言わざるを得ません。
創作された経典に記された久遠本仏をもってきて説明するのは、恰も「天地創造は聖書に記された神様の御業である。故にそれを否定することは神様の御心がわからないためである。つまり、天地創造は聖書に書いてあるから、事実であり、神様も存在する」ということと、同様です。
後世の創作経典に登場するフィクションの仏格をもってきて、フィクションの経典の実否を問うほど、無意味なことはありません。
つまり、西大寺氏の言う「論拠は根底より否定される」ことであるわけです。
では、以後、西大寺氏の「哲学」に関する回答と、管理者さんのご決裁が下るまで、同氏へのロムは遠慮することといたします。
1578
:
とおりすがり
:2006/06/15(木) 09:53:00
哲学くらいの常識的なことは、自分で調べれば良いのでは?西大寺さんは、あなた方の詰問には答えているようだけど・・。
1579
:
とおりすがり
:2006/06/15(木) 09:55:05
顕正居士さんに、報身の説法とはどのようなものかお聞きしたいです。
1580
:
管理者
:2006/06/15(木) 09:58:54
とおりすがりさん
>哲学くらいの常識的なこと
西大寺さんの仰る「哲学」の定義をお聞きしているのです。一般論をお聞きしているのではないのです。
1581
:
犀角独歩
:2006/06/15(木) 12:40:58
顕正居士さんが、大乗経典報身説をご投稿されたのは、以下でしたか。
本尊と曼荼羅 538
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/538
1582
:
犀角独歩
:2006/06/15(木) 13:05:46
「哲学」という言葉は近代、西周によって造語された言葉ですから、そんなものが、仏典、釈、論、日蓮の遺文に載るはずがありません。
調べに調べたうえで、一字三礼さんも、問答さんも、わたしも質問にしているわけです。
西大寺さんが書いたことは、もちろん、何ら答になっていません。
1583
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/15(木) 13:31:30
哲学の訳字について
http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/yakuji.html
を参照ください。
なお、直接関係ありませんがBASEBALLを野球と造語したのは、中馬庚という人です。
http://www.student-baseball.or.jp/history/history.html
http://www.baseball-museum.or.jp/home/qa/qa5.html
http://www.z-flag.jp/news/archives/cat17/
私は正岡子規と思っていましたが、徳島県立脇町高(美馬市脇町)校長を務めた中馬庚(ちゅうまかのえ)が明治26年に訳したのですね。
1584
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/15(木) 13:41:26
>1583の続き
なお、哲学は中国語でも哲学ですが、明治時代に日本から移入されたものです。
http://www.philosophy.gr.jp/contents/seminar/materialism/001.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6
従って
>そんなものが、仏典、釈、論、日蓮の遺文に載るはずがありません。
という1582での犀角独歩さんのご指摘は的を得ています。時系列的に有り得ないということです。それが常識なのです。
1585
:
団栗
:2006/06/15(木) 18:24:47
私は、なぜ皆さんが「哲学」を否定して西大寺さんの議論を封鎖するのか分かりません。
以下ウキペディアより
定義
哲学(は、前提や問題点の明確化、概念の厳密化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な主題について論じる、学問の一種。 また、そのような思考を通じて形成される立場も哲学と呼ばれる。(ソクラテスの哲学、など)
歴史的には、19世紀までのヨーロッパにおいては神学以外のあらゆる学問に対して哲学という名称が与えられていた。(たとえばニュートンもガリレオも自然科学者ではなく自然哲学者であった)今日のような狭義の哲学という学問領域が成立したのは、19世紀中頃、哲学者ヴントの新しい学問分類によって学問の総称の地位が哲学から科学に移行してからである。
哲学の主題
学問としての哲学で扱われる主題には真理、善、美、正義、神、存在、時間、知識、本質、同一性、理性、因果、意識、自他などといった事柄が含まれる。一般に、哲学の主題は抽象度が高い概念であることが多い。
これらの主題について論じられる事柄としては、定義(「神とは何か?」)、性質(「理性は人間にとって生与のものか?」)、複数の立場・見解の間の整理(「諸存在の本質はひとつであるとする立場と、諸存在の本質は多様であるとする立場の主な争点は何か?」)などがある。そして、頭の中で、言葉なくして思考し、言葉を表出させることである。
1586
:
団栗
:2006/06/15(木) 18:40:31
>「哲学」という言葉は近代、西周によって造語された言葉ですから、そんなものが、仏典、釈、論、日蓮の遺文に載るはずがありません。
皆さんは何に固執されているのでしょうか、何か勘違いされているではないでしょうか。「哲学」という言葉が、仏典や遺文に使われたかどうかを問題にしているのではないと思います。
仏典や遺文は、哲学を説いているかを問題にしているのです。上記の「哲学の主題」からすれば、仏典や遺文が哲学を含蓄しているのは明らかではないでしょうか。
1588
:
管理者
:2006/06/15(木) 19:11:33
団栗さん
>西大寺さんの議論を封鎖
管理者は、西大寺さんの書き込みが、当掲示板のルールに抵触している事を指摘しました。ルールを西大寺さんが今後も守られないなら、書き込みをお断わりするのは、管理者の責務であると考えております。
ただ、「哲学」という言葉を、魔女狩りのように、否定しているのでは、決して有りません。議論を進めるために、「哲学」という言葉を西大寺さんが、どのような意味で用いておられるのかを一字三礼さんがお聞きになっているにも拘らず、全く、その問いかけを無視して、ご自分の持論を述べるのであれば、当掲示板のルールに抵触しますよ、と警告しているのに過ぎません。西大寺さんに置かれては、用いられているところの「哲学」という言葉の定義を一字三礼さんの求めに応じてお答え戴ければ、対話が成立し、当掲示板のルールに抵触している、という点は解消されるわけです。管理者はまず、この一点を西大寺さんにお願いしているわけです。ご理解賜りたく存じます。
当掲示板では、ルールに抵触しない限りにおいて、誰人もその発言は担保されており、誰人もその発言を封鎖する事は出来ません。もし、理由無く他人の発言を封鎖すれば、当掲示板のルールに抵触しますので、封鎖した人が却って、削除乃至は書き込み停止の処分対象なります。誤解なきように願います。
1589
:
管理者
:2006/06/15(木) 19:28:12
訂正
上記の管理者の発言において、哲学の定義を一字三礼さんが求めている、と書きましたが、乾闥婆さんの間違いでした。謹んで一字三礼さん、乾闥婆さんにお詫びするとともに、訂正いたします。
1590
:
団栗
:2006/06/15(木) 19:49:33
管理人さんには、公平な立場をお願いします。西大寺さんは誰が読んでも通用の「哲学」より問いかけをされているであって、何ゆえに「西大寺オリジナル哲学」を詰問する必要があるのでしょうか。この経緯は、ただ当掲示板の常連の方が哲学について述べたことを否定する目的であるが故に感じられます。
なぜならば、私が上記に引用したように通用的な哲学の定義・主題によって対話を進めることには何の問題も感じられないからです。
1591
:
管理者
:2006/06/15(木) 20:04:39
団栗さん
>管理人さんには、公平な立場をお願いします。
どこが公平でないのか、ご指摘ください。管理者はルールに従って運営するのみです。
>何ゆえに「西大寺オリジナル哲学」を詰問
そのよう意図は全くありません。哲学という言葉には、色々な意味を含みますから、どの意味合いで哲学という言葉を用いておられるのか、お聞きしているのみです。そのお答えが、辞書通りでも何ら差し支えません。定義をはっきりさせたところから、議論を再開させれば良いわけです。ただそれだけです。
1592
:
顕正居士
:2006/06/15(木) 20:24:12
西大寺氏の投稿は粗雑粗暴であらしとみなされて仕方ないですが、
大乗経は応身釈尊の説ではないこと、法華教学は仏教哲学の一派であることはその通りですね。
これらの議論は戒壇本尊とは無関係ですから、適切なスレッドに移動するのがよいとおもいます。
1593
:
管理者
:2006/06/15(木) 20:37:53
顕正居士さん
>適切なスレッドに移動するのがよい
ご指摘ありがとうございます。1540レス以降の議論を「現代人が納得できる日蓮教学」スレッドに引き継ぎます。
ご参加の皆様
当スレッドの、1540レス以降の議論は「現代人が納得できる日蓮教学」スレッドにて、引き続き議論戴きたく、よろしくお願いいたします。
1594
:
犀角独歩
:2006/06/16(金) 10:39:41
こちらのほうも、やや整理します。
ここ数日の一連の遣り取りは
ひきこもりさんの「大御本尊が偽作であったならば、もう駄目ですね。もう唱題する気が起きません」(1519)
という点に問答名人さんが「戒壇板曼荼羅が偽物でも、日蓮聖人の教えまでが偽物という事ではない」、また、彰往考来さんも、それに賛同された(1525)という経緯がまずありました。
これに対して、わたしは「日蓮の間違い」として指摘したわけです。(1537)
これは科学的な見地から、鎌倉時代の人であった日蓮には情報のないことによる誤謬ですから当の本人に責任を負わすことは酷でしょう。しかし、日蓮の本尊と教義の土台は鎌倉時代に通用しても、現代には通用しない、さて、どうするのかという点で、わたしは指摘したわけです。ここから、この議論は、顕正居士さんがご提案くださったとおり『現代人が納得できる日蓮教学』の話題へとなっていきました。よって、この点は、そちらに譲ります。
さて、当スレのテーマは『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』ですが、この彫刻の真偽は、日蓮とは関係ありませんが、石山門下教学とは密接な関係を有しています。その教義的な側面は他に譲ることとして、整理すれば、ここ数年の議論で明確になったとおり、この本尊は偽作であるということです。そして、偽作を偽作であると主張することは、何ら批判されることでもないと言うことです。
仮に、その主張によって、その彫刻を信じる個人が信仰をする気がなくなり、大量脱会者が出ることは、誠にけっこうなことであるとわたしは思います。それは真実、事実への目覚めだからです。
しかし、その彫刻本尊を捨て去ることで「自殺者が出る」というのは、これはこの彫刻本尊の真偽議論とは、まったく別のことです。精神科、心療内科、もしくは宗教病理学、あるいはPMCSといった病理科学の範疇であり、ここで扱う問題ではありません。そのような危険のある方は、ここでの議論に参加するより、いち早く専門医の診療を受けることをお薦めします。衷心よりお見舞いも申し上げます。
しかしながら、「自殺者が出る」危険性があるから、偽作論は非であるという論法は成り立ちませんし、そのようなことで、ここ数年の議論が中断される謂われもありません。
鬱、もしくは鬱傾向にある方は、刺激の強い議論に参加するより、まずは治療に専念され、その限りではない方々とは、ここ半世紀の、最大宗教詐欺とも言える彫刻本尊の実態を更に暴いてまいりたいと考えます。
1595
:
独学徒
:2006/06/16(金) 22:27:42
>1594
犀角独歩さんのご提案に、全面的に賛同いたします。
話は若干ずれますが、偽物を偽物と言えないで、何が創価(価値創造)か、何が正信(正しき信)かと言いたくなります。
彼らの石山批判など、所詮は信徒を手放さないためにライバルの悪口を言っているだけだと思います。
当然、日蓮の教えも完璧ではなく、むしろ犀角独歩さんご指摘の通り、現代の眼から判断すれば欠陥は多々あると思います。
さらには熱原法難を美談化し、その精神論を金銭受領の手段とし、信徒に対し家族や財産をなげうってまで組織活動・宗教活動に打ち込むことが、なにかいいことのようなイメージを作ることは洗脳以外のなにものでもありません。
夢から覚めてみれば、今まで以上に家族が大切になり、仕事にも打ち込めます。
個人的には、日蓮の教え、また冨士の教学を、学問として探求する分にはロマンはある思います。
日蓮と弟子達の曼荼羅にも、芸術性と不思議な魅力を感じます。信仰心も感じます。
しかし、信仰を命がけで実践するような時代ではないと考えます。
今の時代、信仰を命がけで実践するのは、それこそテロリストと勘違いされます。
真蹟遺文に基づく純正日蓮教学の探求と、日蓮自身が気づき得なかった仏教の真実を究明することが、正法を伝えんとした日蓮及び歴代の正師に対する、本当の報恩だと思います。
犀角独歩さんの仏教再考運動が、日蓮が道善房の教えのまま実践をせずとも、日蓮自身が正義と思った道を進むことを以って報恩にかえたことを思えば、まさに富士門流信徒の生き方として本当の意味での報恩の実践であろうと思うわけです。
少なくとも私は、真実に近づくことができ、本当に良かったと思っています。
1596
:
犀角独歩
:2006/06/17(土) 06:49:35
独学徒さん
ご賛同、有り難うございます。
> 夢から覚めてみれば、今まで以上に家族が大切になり、仕事にも打ち込めます
本当に善かったですね。
わたしも、この信念体系を抜けて、気付いたことは、ただの一度も自分のために生きていなかったことでした。自分のために信仰をしているつもりが、組織のため、「先生のため」「御法主上人猊下のため」「日蓮大聖人のため」となっており、実は家族も、そのための存在だと思い込んでいた節がありました。社会で成功するのも、自分が幸せになるのも、組織・指導者と教えの正しさを証明するためといった具合で、組織、指導者、教義、教祖、あるいは法が、本来主体であるはずの自分に、取って代わっていた実態に気付き、愕然としました。
当掲示板にも、組織や、指導者、もしくは自分の信念体系のために、その代弁者になって感情的になるような人々をよく見かけますが、このように主体を奪われることを、社会心理学で「代理状態」といい、戦争に兵士を駆り立てる心理的メカニズムと同様である気付くのに半世紀近くを要しました。
真実に気付かれた独学徒さんに敬意を表すると共、惜しみない賛辞を送るものです。
参【代理状態】権威組織にはいった個人は、自分自身を自分の目的のために行動しているのではなく、他人の要望を実行している代理人と見なすようになる。ひとたび個人が自分の行動をこの観点から考えるようになると、彼の行動および内的機能様式に深い変化が起こる。この変化はきわめてはっきりしているので、個人は、この態度の変化によって、ヒエラルキーに組込まれる前にいた状態とは別の【状態】におかれたのだと言うことができよう。わたしはこの状態を“代理状態”(agentic state)と呼 ぶことにする。それは、個人が自分自身を他人の要望を遂行する代理人と見なしている状態である。この用語は、“自主性”、すなわち、個人が自分自身を自分の意志で行動している見なしている状態と対比して用いられるよう。(『服従の心理』(河出書房新社)スタンリー・ミルグラム P178)
1597
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/19(月) 12:23:46
>犀角独歩さん
スレッド1529-1530,1538-1539でのお問い合わせについて回答いたします。
まず、おさらいです。私のスレッド1526での投稿はスレッド1524の貴投稿で私が抱いた疑問点から発しています。
>1524 昭和後期の『宗教年鑑』を見れば、日蓮正宗創価学会は1650万人信徒を自称・・・それがいまでは学会は1000万票が獲得できない・・・実際の創価学会の活動者数は300万人を割っていると・・・要は日蓮正宗創価学会は分裂し、そのうえで、東京都の人口に匹敵する脱会者を出した
に関してまして、1526で申し上げたかったことは東京都の人口に匹敵する脱会者の数値根拠が
1650万人−300万人=1350万人≒東京都の人口に匹敵する脱会者の数
ということであれば、それぞれの数字の母集団が異なるので、この計算は成り立ちませんよ、ということです。つまり、私の1526での投稿は
①昭和後期の会員数は1650万人である
②現在の実態は300万人である
③よって東京都の人口に匹敵する脱会者を出した
というロジックは成り立たないということをご指摘したかっただけです。少なくともスレッド1524で使用されている根拠数字は1650万と300万の2つであり、もうひとつ学会は1000万票が獲得できないという表現があります。
しかしながら、貴スレッド1539での投稿を拝読しますと、上記式や上記ロジックではないようです。スレッド1539での内容を仮に式に表わすならば、
1650万人−800万人=850万人≒東京都の人口に匹敵する脱会者の数
もしくは
3000万人−1650万人=1450万人≒東京都の人口に匹敵する脱会者の数
というようなことでしょうか。(よく調べていないのですが東京都の人口は1200万人くらいでしょうか)この式であれば、各々の数字の持つ信頼度(つまりいいかげんさ)は同じ程度と考えられますので、ロジックとしては成り立つでしょう。しかし、このような式はあまり意味を持ちません。出処の数字自体が信頼度を有していないからです。しかし、どう計算しても〝東京都の人口に匹敵する脱会者の数〟が出てくるのは面白いところではあります。なお、蛇足ですが私であれば
1650万人−300万人x2=1050万人≒東京都の人口に匹敵する脱会者の数
とします。2は補正係数です。活動家数の倍は名簿上いるダロウということです。片方の数字に補正係数をいれることにより、信頼度のレベルというか尺度をもう片方の数字にあわせる努力をしています。仮に補正係数を2.67としますと
1650万人−300万人x2.67=1650万人−800万人=850万人≒東京都の人口に匹敵する脱会者の数 となりますが、2.67の根拠はなく800万人に合わせただけの数字の遊びです。でも3倍弱という補正係数はあたらずといえども遠からじではないかと思ったりします。現実ばなれした数字ではないでしょう。でも所詮は数字の遊びにすぎない議論です。
1598
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/19(月) 12:24:54
1597の続きです。
こんな数字の遊びよりも重要なことは、正確な数字は不明ながら、東京都の人口に匹敵する数の脱会者を出したということでしょう。スレッド1529で犀角独歩さんは、
>東京都人口に匹敵する人数というのはあながち外れた数であるとは思いません。
とされています。私もこれを否定するものではありませんし、数字を下方修正せよと主張するつもりもありません。東京都の人口に匹敵する脱会者の人たちすべてが被害者といえるかどうかわかりませんが、程度の差こそあれ、〝被害者〟ということになろうかと思います。そうではない人はむしろ例外でしょう。
>1538実際の被害を考えるとき、それを無意味として捨て去ることはできません
>1539実態がわからないから被害がないということは言えません・・・統計として不確かだから、言えないと片づけること・・・被害者を黙殺する行為
私がスレッド1536で実体がわからないといったのは、何人の人が退会されたのか正確な実数がわからないという意味です。改めて自分の文章を読んでみると、確かに〝実体〟というと〝被害がわからない〟ととられてもしかたありませんが、そういう意味ではありません。退会された人の実数が800万人なのか1500万人なのか不明ですということです。
誤解を招く表現でしたのでスレッド1536での投稿を
誤:実体
正:実数
と遅ばせながら訂正いたします。
被害者ということですが、退会した人だけが被害者ではないでしょう。現在入会している人も被害者の仲間入りです。活動している人もそうですし、事実上退会していますが名簿上だけ残っている人など色々ですが、多かれ少なかれ被害はあった(今もあるか?)ことは否定できません。少なくとも正本堂に御供養したわけですし、戒壇本尊を蓮祖のご真筆と思っていたわけですから被害者ということの変わりありません。被害者であるということになると現在創価学会に所属している人からは反論もあるでしょう。ただ反論内容をここで書くとそれは特定教団の布教のための宣伝になってしまう恐れがありますので、例示はいたしませんが、一言だけいうなら、何某かのメリットがあるから、よいところがあるから、信仰を続けていると思っています。もちろん被害者ではなく加害者も混じっていますのでややこしいところです。
そして被害者という意味では創価学会に入退会した人だけでなく、外の人でも被害を受けた人はいるでしょう。例示するなら、つぶやきスレッド2のスレッド1852で犀角独歩さんが
>「昔はよかった」と、他宗の人を交えたところで呟いたら、「俺たちは迷惑していたんだ」とぼやかれました(笑)
と書かれていますように他宗の方も別の意味で被害者であったわけです。
1599
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/19(月) 12:25:29
1598の続きです。
>> 日蓮の教え
>1539 基礎資料が虚構であった上に成り立つ教えもまた、信頼できない
というご主張は原則的には正しいと考えます。偽文書をベースに立てたロジックは誤りであるからです。
しかしながら、しっくりとこないのでもう少し掘り下げてみます。
>1539 旧約聖書に書かれる天地創造は、当時の科学知識で書かれたものであるから間違いとは言えないのでしょうか・・・太陽は地球の周りを回っていますか
ここで、ロジックの整理をします。
①太陽は地球の周りをまわっていない(地球が太陽の周りをまわっている)
②旧訳聖書でいう天地創造は間違いである。なぜなら天地創造では太陽が地球の周りをまわっているとするから
これは正しいと考えます。では、
①法華経は西暦前100年から西暦後150年の間に創作されたものである
②日蓮は、法華経は釈迦50年の説法、最後、8箇年の説であると信じていた
③だから日蓮の教えは間違いである
で③が言えるかどうか。検討しやすいように③の〝教え〟を〝本尊〟に用語変換してみます。
まず、上記ロジックから、
〝日蓮が、法華経は釈迦50年の説法、最後、8箇年の説であると信じていたというのは間違いである〟というのは言えます。しかし、〝だから日蓮の本尊は間違いである〟
といえるかどうかということです。
ウィキペディアの〝帰納〟の項には、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E7%B4%8D
帰納法が間違う有名な例として、「ビールには水が入っている」、「ウィスキーにも水が入っている」、「ブランデーにも水が入っている」、よって「水を飲むと酔っ払う」と紹介されています。
〝水〟ではなく、〝アルコール〟であればこのロジックは間違っていないでしょう。でも〝水〟とするなら間違っています。事実ではなく、ロジックが間違っています。
1600
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/19(月) 12:26:06
1599の続きです。
この種のロジックは技術屋が警戒する議論なのです。実際の例を紹介しましょう。
①日本酒には防腐剤としてサリチル酸メチルが使われている
②サリチル酸メチルは有毒である。
③試しにサリチル酸メチルを金魚鉢に入れるとたちまち金魚が死んでしまった
④よってサリチル酸メチルの入っている日本酒は飲むべきではない
このロジックは表面上は正しいのですが実はトリックがあります。実はサリチル酸メチルは水に溶けずアルコールに溶けます。そのため③の実験をするためには、そのまま金魚鉢にサリチル酸メチルを入れても溶けないので、アルコールに溶かしたものを入れるわけです。
そうするとたちまち金魚が死ぬわけでサリチル酸メチルが危険と相成るわけです。でも金魚はアルコールに弱いので、上記ロジックは詭弁、間違いということなのです。ではここでサリチル酸メチルをアルコールに代えてみましょう。
①日本酒には防腐剤としてアルコールが入っている
②アルコールは有毒である
③試しにアルコールを金魚鉢に入れるとたちまち金魚が死んでしまった
④よって日本酒は飲むべきではない
⑤
どうでしょうか。アルコールが危険ということまで否定しませんが、③でもってすべてダメというのは飛躍しています。ここでいえるのはアルコールを金魚に与えると死んでしまうということだけでしょう。
このような議論を常日頃やっている私には、上記の法華経のロジックでもって日蓮の教えが誤り、本尊が間違いというにはどこか論理の飛躍があるような気がします。上記アルコールの論理と似通っていると思うのは私だけなのでしょうか?
〝日蓮が、法華経は釈迦50年の説法、最後、8箇年の説であると信じていたというのは間違いである〟というのが上記では言えるだけなのではありませんか。本尊が間違っているかどうか、教えが間違っているかどうかは別のアプローチが必要なのではありませんか?
1601
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/19(月) 12:26:39
1600の続きです。
もちろん蓮祖には他にも間違いはあります。犀角独歩さんが、1530,1537で指摘された内容がそのものズバリでしょう。
>1530 妙楽絶対主義に立っているわけですし、天台も踏襲しています。また、法華経が釈迦が説いたものであるしていますし、自分が生きた時代を末法だといったことでも間違いだらけ
という点でしょう。私は妙楽の教義など難しいことは解らないのですが蓮祖に間違いがあることは理解しています。蓮祖は御本仏であるから絶対間違いはないということはないのです。私はすでに蓮祖の御本尊における誤り(誤記)について、当掲示板の「蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について」のスレッド715-720に紹介しています。
ただ、私はこれらの誤りの存在があったとしてもそれで〝日蓮の教えは誤り〟とはいえないと考えますし、〝日蓮の教えは誤り〟とするなら、それこそ日蓮とは別れるべきです。
さきに〝竜門御書〟を例示しましたが、再説します。「上野殿御返事」(『日蓮大聖人御書全集』1560頁)に「唐土に竜門と申すたき(滝)あり・・・ふなと申すいを(魚)のり(登)りぬれば・りう(竜)となり候・・・・」とあるのは当時の科学知識で書かれたものです。ここから「登竜門」という言葉があることはご存知のとおりです。ですが、このお話は間違いです。滝を登りきった鮒が竜になるわけではありません。ですがこのお話が間違いであるなら、この御書でいう蓮祖の教え、例えば「ほとけ(仏)になるみち(道)・これに劣るべからず」(1560頁)も間違いでしょうか?違うでしょう。お話はあくまで当時の常識で書かれているわけで、「極めて困難である」ということを説明しているのに過ぎないものです。
では、何が信じるにたるものなのでしょうか?それは、いみじくも犀角独歩さん自身が、
>1537 日蓮は鎌倉という時代において、本人ができる限りの情報収集と思惟によって、その教学と本尊、そして修行を確立していったわけです。この日蓮の姿勢は、当時出来る最大限の努力であり、そして、その思惟も行動も、わたしは善意に基づいたものであると信じます。わたしは、その日蓮の方法論と善意の行動を信仰しています
とおっしゃっていることにつきるのでしょう。
1602
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/19(月) 12:27:08
1601の続きです。
犀角独歩さんのいう〝その日蓮の方法論〟とは何だったのでしょうか。私は漫荼羅本尊であると考えています。
私はその漫荼羅本尊を誤りではないと信じているのですが、それがスレッド1539で
>基礎資料の真偽を度外視して、ということにしか・・・なっていない
とご指摘された由縁であろうと考えます。この点はそれが経験とか体験といったものによるとしても素直に漫荼羅本尊を誤りではないと信じているロジックに飛躍があることを認めざるを得ません。
本年4月、池上本門寺の霊宝殿で蓮祖のご真筆本尊を拝観しました。ものすごい迫力で迫ってくるものがありました。翌月、同じ池上本門寺の霊宝殿で蓮祖のご真筆ではないと思われる本尊を拝観しました。できる限り先入観なしで拝観しようと心がけたのですが、迫ってくるものが全くありませんでした。あの場に居合わせた他の方の感想も大同小異であったと思います。この差はいったい何なのでしょうか?同じ現象は書画骨董にもありますが名画や名工の作品でホンモノは迫ってくるものがあるのです。ことさら蓮祖の御本尊は興味深いもので、とうとう私のライフワークになってしまいました。
科学は絶対なものではありません。まして解らないことが意外に多いものです。例えば、生物は自然発生しないというのが科学の常識です。それを細菌学的に証明したのがパスツールであったと記憶しています。肉汁を放置しますと虫が湧きますが、これは肉汁に入った虫の卵が孵化したもので、決して自然発生したものではありません。しかし、今、存在している生命体の祖先はどうでしょうか、少なくとも地球発生時には生命体はいませんでした。長い進化の中で自然発生したのでしょうか?科学は明確な答えを提示していません。科学は進み、ヒトのDNAの解析に成功するなど目覚しい進歩がありますが、仮にヒトのDNAを化学的に合成できたとしても死体の肉と同じで命が宿ることではないのです。
700年前の宗祖の歯が生きていると主張する教団がありますがナンセンスでしょう。もし歯が生きているというであれば、積極的に公開して分析し人類の長寿のために役立てればよいわけだし、もし現在の科学で証明できず、まか不思議ならば現在の科学では説明できないとして、その教団にひれ伏せばよいわけです。でもそうであれば私は蓮祖に問うてみたいです。「日蓮さん。肉体はとっくに滅んでいるのに、何もするわけではなく歯だけ生きていてなんになるの?そんな不思議な力があるなら出し惜しみしないで身体全体を生かせばいいじゃない。もっとほかに使い道があるでしょ。」
自分自身の存在理由、死後についてなどにも明確な答えは自然科学からはないのです。
1603
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/06/19(月) 12:27:35
1602の続きです。
もっとも“神”の分野に近づいている技術もあります。クローン技術などそうでしょう。哺乳類はオスとメスから子が生まれるという常識は否定されるに到りました。メスだけからクローン牛など子が産まれるようになったわけです。この技術は不妊治療などの応用できると考えられる反面、倫理的に問題があるためヒトにはすぐには解禁できないでしょう。何が言いたいかというと、哺乳類はオスとメスから子が生まれるという常識で成り立っていた少し前の生物学は誤りなのかということです。当時の人はクローン技術などない状態で生物学を形成していたわけですが、ほとんど大半の生物学は間違っていなくて、ある一部の修正でもって対応でき生物学の体系がくずれることはないということでしょう。
では物事すべてそうかというとそうでもありません。適切ではないかもしれませんがあえて例示するなら、北朝鮮による拉致はなかったというのが一部の人の主張でした。拉致があったということが明確に証明できなかったからです。しかしいまや拉致の存在は当事者が認める形で証明されました。では拉致以外のことで過去に北朝鮮が主張していたことは信用できるのかというと、そうではないでしょう。私は全く信用していません。拉致でも北の主張は矛盾だらけです。このケースではもともとの北の情報が作為に基づくニセ情報であったがために、そのような情報を発する機関の他の情報も押しなべて知るべしということなのです。
卑近な例をもうひとつ。会社に新入社員が採用されて入社してきます。ところが、Aという学校出身のB君の出来が悪い。よくこれだけでA校はダメだ、レベルが低いということがあります。でもA校の他の生徒のできが悪いかどうかこれだけでは解らないはずなのです。こういう現象を〝同一視反応〟といい、この結果だけで決定するのはいかがなものかということです。でもA校から来る生徒、次から次から問題児であれば、A校はダメなのでしょうね。統計学的に判断するには検体が最低20以上(20人以上)必要ですが、会社ではそこまで待てないので、他の人の評判などを基に判断することになります。ただA校が出来の悪い生徒を優先的に特定の会社に就職させているとすれば、スクリーニングされているわけで、その場合は別の判断が必要です。会社としてはスクリーニングする以上、A校からの採用を遠慮するということになるでしょう。
以上をもってスレッド1529-1530,1538-1539でのお問い合わせについての回答とします。
彰往考来
1604
:
犀角独歩
:2006/06/19(月) 16:35:03
彰往考来さん
昨日、長岡に行き、柏崎で一泊していま帰ってきました。
モバイル環境を整えていったのですが、泊まったホテルの位置では、接続できず、いま拝読しました。というわけで、本日は疲労困憊で、要点のみ、記させていただきます。
まず、脱会者が云々のことですが、これはなにより、わたしが言いたかったポイントは、このスレッドで彫刻本尊を偽物であると記すと大領脱会者と自殺者が出るという投稿に対してでした。要するに、そんな脱会者はとっくに出ているよ。概算だけれど、1650万人という発表、現在の実数からみて東京都に匹敵する人数とみるのも強ち外れていないのではないか、また、創価学会の論調では舎衛の三億で3000万人が指示していると言い(これは嘘でしょうね)、宗教年鑑で1650万人といい(これも嘘でしょう)、そして現在は800万人(これまた、嘘でしょうが)、この数字はわたしが言ったのではなく、創価学会が言った数字です。ですから、創価学会の公式発表を使ってみると、東京都の人口に匹敵する会員数減があるということです。ロジックが云々、その数字が信頼できる出来ないという話ではなく、嘘っぱちの数字で自分たちの大きさを誇ろうとしていたのが、実際は東京都の人口に匹敵する数が減っていることになってしまっているとも言ったのです。
帰納法の間違いといった話ではありません。
> 所詮は数字の遊びにすぎない議論です。
そうです。その数字の遊びに過ぎないことを創価学会はやっていると言うことです。
ですから、議論をすることに目的があったのではなく、彫刻本尊が偽物であるというと大量脱会者が出るという点につき、もうとっくに出ているということに議論の趣旨があったわけです。ですから、わたしからすれば、趣旨がずれたところで、重箱の隅を突っつかれたという印象しかないわけです。
> 被害者…退会した人だけが被害者ではない…現在入会している人も被害者の仲間入り…加害者も混じって…他宗の方も別の意味で被害者
これはまったく仰るとおりです。
> ③ だから日蓮の教えは間違いである
> で③が言えるかどうか。検討しやすいように③の〝教え〟を〝本尊〟に用語変換
この変換は恣意的ですね。
そもそも、わたしは漫荼羅を、原則的に本尊であると思っていません。
何より、日蓮が漫荼羅を拝んでいた証拠がないと主張しているわけです。
しかし、このように変換したうえで、漫荼羅を本尊という彰往考来さんが、それが間違いかどうかという質問を立てているわけですから、では聞きますが、‘本尊’に書かれている「仏滅後二千二百三十余年」は合っているんですか。間違っていませんか。
この一点を採っても、この漫荼羅に書かれていることは間違っているとは言えるでしょう。言えませんか、まさか?
> 事実ではなく、ロジックが間違っています。
帰納法など持ち出すまでもなく、以上のように書かれていることが間違っています。
> 日蓮の教えが誤り、本尊が間違いというにはどこか論理の飛躍がある
そうでしょうか。わたしからすれば、ここに彰往考来さんが書かれていることのほうが飛躍、短絡があると映じます。だって、日蓮の時代は仏滅後二千二百三十余年ではないわけですし、法華経は釈尊が説いたものでないわけです。
わたしが理系ではないから、彰往考来さんのような気の利いた例は引けませんが、たとえば、うどんの汁を作るのに、「これは砂糖である。砂糖はしょっぱいものだ」といって塩の代わりに砂糖を入れたうどんつゆはしょっぱくなりますか。ならないでしょう。
> 上記アルコールの論理と似通っていると思うのは私だけなのでしょうか?
ええ、少なくてもわたしは思いません。
> 本尊が間違っているかどうか、教えが間違っているかどうかは別のアプローチが必要なのではありませんか?
これは彰往考来さんの恣意的変換です。
日蓮の本尊観は台学の本迹論から迹門を簡び、本門本尊をその理論を使って確定したものでした。久遠五百塵点成道本門教主釈尊です。これは漫荼羅ではありません。また、この論理展開を、台学から考えた日蓮の思惟は尤もだと思います。ただし、この点で、彰往考来さんとわたしは同じ本尊観で議論していないわけですよ。これは議論の基礎が違っています。
1605
:
犀角独歩
:2006/06/19(月) 16:36:40
―1604からつづく―
わたしからすると、基礎データを間違えた計算は無意味であるという上記の東京都人口脱会者数に疑問を投げかける彰往考来さんが、何故こんなことを言うのか甚だ不思議です。以下のような相関になっていませんか。
誤った統監数:脱会者数
誤った経釈解釈:誤った教え
基礎データが実数でなければ、その結果は無意味だというわけですから、基礎資料が間違って認識して出来上がった教義・本尊は、無意味だというのであれば、論理は一貫しますが、ところが彰往考来さんはこの点で一貫していません。理系である彰往考来さんが、こんなことを記すことは摩訶不思議です。
> 私はこれらの誤りの存在があったとしてもそれで〝日蓮の教えは誤り〟とはいえないと考えますし、〝日蓮の教えは誤り〟とするなら、それこそ日蓮とは別れるべきです。
そんなことは、わたしの勝手ですよ。なんでこのようなロジックになるのでしょうかね。先には法華経をやめて阿含経をやれで、今度は日蓮と別れるべきと、どうして、皆さん、人の信仰を勝手にそうやって決めつけますかね。
わたしは先に鰯の頭も信心で、鰯の頭を信じる信教の自由も、個人の人権に関わるから守られなくてはならない。しかし、この信じることと、教えが真偽はまるで別の問題です。鰯の頭を拝んだって功徳の体験を得た主張する人がいても、「ああ、そう感じるんだ」という話であるわけです。しかし、その鰯頭教の人が「鰯の頭こそ、正しい本尊だ。何故ならば、わたしが拝んで結果が出たからだ」と主張したら、「おいおい」と言わざるを得ません。
どうも、このような場所で議論をしていると、正しい本尊を拝むと正しい体験がある、正しい体験ができたということは本尊が正しいことだという論法で考える習慣を植え付けられていると観察できます。
本尊の真偽と、その人が得たという体験は、実は因果関係はないでしょう。
あるのは、その体験を得た人が、その本尊を、どれだけ信じていたかどうか、どれだけて、真剣にやってみたかどうかということのほうです。
先にも記したとおり、わたしは日蓮は基礎データは間違えた。しかし、真実の究明しよう、善意で行動しよう、民衆と国土を救いたいという気持ちは間違っていない、わたしは、その日蓮を信仰していると言っているのです。つまり、教えが間違っていても、その精神性と事実究明という姿勢は信仰に価すると言っているのです。
それが漫荼羅を本尊と思い、日蓮が確定した唱題という行をやるという方法論は、採ってもいいと思います。大いにやってみるべきです。わたしは唱題も読経も好きですし、やれば、やってよかったといつも思います。しかしだからといって、法華経は釈迦が説いたものだと思いませんし、日蓮の時代が釈迦滅後2000〜2500年の時代だと思いません。
人を恨んだり、憎んだりする悪心を棄てよう、不軽菩薩として描かれたような心になりたい、人を慈しめる自分になりたい、世のため、人のためになりたい、事実を求めつづけようという日蓮のコンセプトをわたしは尊いと思います。その思いを漫荼羅や、仏像に、お題目という行で重ねているということです。ただし、日蓮と、現代人は基礎データが違う、でも、日蓮の善意と信念、その思考法は棄てがたい、さてどうしようかという話をしているのが、『現代人が納得できる日蓮教学』です。
> 科学は絶対なものではありません
まあ、よく引き合いに出される言葉ですが、わたしはいつもこう答えることにしています。「そうですね。しかし、あなたがしている信仰だって、科学ですら絶対ではないわけですから、絶対なものとは言えないでしょう。まして、あなたが感じた個人的な体験が、絶対を証明する基準とは言えないでしょう」
なお、霊宝殿で見た漫荼羅の真筆の持つ迫力は、わたしたちが漢字墨筆の精神風土に育ったから感じるものだと思います。世界に出て、この点で方向の転換を余儀なくされた藤井日達師でしょう。このお弟子である行明沙門もインド人に漫荼羅を見せたら、「なにこれ??」という調子で、まるで‘ウけなかった’という実体験を語ってくれました。人気があったのは、寧ろ、唱題だったそうです。それもドンツクドンドンの太鼓をつければ、尚更、よかったということでしたよ。
まあ、こう言っては何ですが、今回のご投稿は彰往考来さんらしからぬものでしたね。
長くなりますから、この辺にしましょうか。
1606
:
乾闥婆
:2006/06/19(月) 19:53:42
犀角独歩さん。彰往考来さん。横から失礼いたします。
蓮祖が釈尊一代の説法として五時教判を「事実」と認識しており、四十余年未顕真実をも「事実」として認識しており、仏滅後二千二百三十余年の末法であると同時代を認識していた以上、その教説が事実誤認の上に成り立っていることは明らかであり、そうであればその教えが誤りであることは当然の帰結であると思います。蓮祖はそれらが「事実」であると思えばこそ、他宗を激しく攻撃したのであり、国家諫暁したのであり、法華経を強く宣揚したのです。それらが事実でないとすれば、それらの行為の根拠はなくなります。法華経の宣揚にしても、そのあり方はまったく違うものになるはずです。法華経至上主義となって表われることはないはずです。
そのような事実を知った上で、たとえば曼荼羅を本尊とするのでもよいのですが、曼荼羅に向かって唱題をする、という行為の意味とはなんなのでしょうか。「南無妙法蓮華経」と唱えることの意味とはなんなのでしょうか。
唱題行の、正当性の根拠は、蓮祖の時代にあっても、論理立てて説明できるものではないと思います。結局のところそこには飛躍があり、多くの経・論からの引用で自説を展開する蓮祖にして、最後は文の底に沈めた「南無妙法蓮華経」と言ってしまいます。それはもはや「事実」認識ではありません。蓮祖の主観、直感のようなもの、宗教的な幻視のようなものでしょうか。では文底秘沈の「南無妙法蓮華経」は「鰯の頭」なのかというと、私はそこに蓮祖の法華経に生きた証を見、その題目へ共感することは、「鰯の頭」を信じることと同じではないと考えます。
しかし蓮祖は法華経を身をもって読んだにしても、その出発点には事実誤認があります。そのような事実誤認がなければ蓮祖は法華経を身をもって読むことはなかったでしょう。そうだとしたら「南無妙法蓮華経」とはなんなのでしょうか。曼荼羅とはなんなのでしょうか。犀角独歩さんは「それが漫荼羅を本尊と思い、日蓮が確定した唱題という行をやるという方法論は、採ってもいいと思います。大いにやってみるべきです。わたしは唱題も読経も好きですし、やれば、やってよかったといつも思います」とおっしゃられています。しかし私はいつも脱力してしまうのです。曼荼羅に向かい題目を唱える、しかしそれらの形態は事実誤認によって成立しているという想念が頭をよぎる、声が出なくなり、頭を抱えて蹲る。そんなことの繰り返しです。彰往考来さんは「〝日蓮の教えは誤り〟とするなら、それこそ日蓮とは別れるべきです」といわれます。そのとおりだと思うのですが、別れられません。蓮祖の教えは事実誤認に基づいた誤った教説であると考えているのに、蓮祖と別れることはできないのです。蓮祖の教えを肯定することもできないし、決別することもできないのです。
犀角独歩さんへの彰往考来さんの返事を、このような状態にある私は、状況打開への契機になりはしないかと期待して待っておりましたので、つい失礼ながら横から発言させてもらいました。
1607
:
犀角独歩
:2006/06/19(月) 20:03:50
1606 乾闥婆さん、こんばんは。
実にわたしの心の琴線に触れるご投稿です。
ですが、先に記したとおり、本日は疲労困憊で、就寝前に閲覧したところでした。追って、レスさせていただく所存です。
1608
:
一字三礼
:2006/06/19(月) 22:38:10
中世人にとっては、伝承と史実と多くの教訓譚が綯交ぜになったものが歴史です。現代人のいう歴史とはカテゴリー自体が違うのではないでしょうか。
また、天台五時判は、その名の通り‘教相判釈’ですから、「華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃」とは天台の比較文献によった見解であり、それはそのまま歴史認識と考えることはできません。
日蓮聖人が五時判を論証する時に用いるのは歴史書ではなく、経典です。
例えば、「守護国家論」には、何故「華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃」という順序になるか、が詳しく解説されておりますが、量が多いので少し引用します。
「問て云く、方等部の諸経の後に何の経を説き給ふや。答て云く、般若経なり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、涅槃経に云く『方等より般若を出す』。
問て云く、般若経の後には何の経を説き給ふや。答て云く、無量義経なり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、仁王経に云く『二十九年中』。無量義経に云く『四十余年』。」
無量義経の『四十余年』と同様の年数が法華経にも記されております。
「世尊、如来太子たりし時釈の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たまえり。是れより已来始めて四十余年を過ぎたり。」(従地涌出品第十五)
法華経が釈尊御晩年、最後の数年の説法であると言うことは、法華経の主張です。何故、最後の数年に説法の年代を設定したのか、については法華経の成立史やその教説から考察するべき事柄であり、これをそのまま史実に当てはめ、歴史的観点からに云々する事柄ではないでしょう。
日蓮聖人は、仏者の立場から経典や先師天台大師の見解を是としたのであって、それを歴史的に誤りとするのはどうでしょうか。
また、日蓮聖人の末法の年代が誤りというのであれば、正しい末法とはいつから始まるのでしょうか。
「世尊、後の五百歳濁悪世の中に於て」(普賢菩薩勧発品第二十八)
とありますが、正確な末法を特定する為には、何を基準とすればよいのでしょうか。
1609
:
乾闥婆
:2006/06/20(火) 01:37:50
一字三礼さん。
>中世人にとっては、伝承と史実と多くの教訓譚が綯交ぜになったものが歴史です。現代人のいう歴史とはカテゴリー自体が違うのではないでしょうか。
>また、天台五時判は、その名の通り‘教相判釈’ですから、「華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃」とは天台の比較文献によった見解であり、それはそのまま歴史認識と考えることはできません。
もちろん中世と現代では概念の範疇は違うと思います。しかしそうであったとしても天台五時の教相判釈を蓮祖聖人がどのように受け止めたのか、が問われているのではないでしょうか。いくつかの教相判釈があり、それらはどれも相応に正しいけれど、天台の五時判が一番よさそうだからそれを支持してみました、といったものではないと思います。ただ蓮祖の好みにあった<選択>をした、というわけではないと思うのです。ですから「守護国家論」において、さかんに経典による論証を行い、「大部の経大概是の如し。此れより已外、諸の大小乗経は次第不定也。或は阿含経より已後に華厳経を説き、法華経より已後に方等般若を説く。皆義類を以て之を収めて一処に置くべし。」と多少の例外はあってもおおよそはこうであろう、と詰めてゆくのではないでしょうか。蓮祖が天台五時判を論証する時に歴史書ではなく経典を用いるのは仏者として当然であると思いますし、また当時の歴史書の中に教典の成立順序をまさに<歴史認識>として説明しているものがあったのでしょうか。私はあまりその辺りに詳しい者ではありませんが、結局のところ、五時判の正当性を主張しようとしていることには変わりはないのだと思います。
>法華経が釈尊御晩年、最後の数年の説法であると言うことは、法華経の主張です。何故、最後の数年に説法の年代を設定したのか、については法華経の成立史やその教説から考察するべき事柄であり、これをそのまま史実に当てはめ、歴史的観点からに云々する事柄ではないでしょう。
>日蓮聖人は、仏者の立場から経典や先師天台大師の見解を是としたのであって、それを歴史的に誤りとするのはどうでしょうか。
しかし蓮祖は四十余年未顕真実を取り上げ、法華最勝を主張されているわけです。「史実」「歴史的観点」という言葉が現代のカテゴリーに属するのであれば、そういう言葉を使わなくてもいのですが、四十余年未顕真実とは時間の概念であり、当時もそうであろうと思います。蓮祖はそういう時系列に立って、法華最勝を主張されたことにはなんら変わりはないのではないでしょうか。その蓮祖の立たれた時系列の認識が現在明らかになっている事実と合致しない、ということに変わりはありません。そもそも釈尊一代の説法ではないわけです。
>また、日蓮聖人の末法の年代が誤りというのであれば、正しい末法とはいつから始まるのでしょうか。
仏滅後の年代は明らかな間違いであり、「正しい末法」「正確な末法」についてはそのようなものは特にないというほかないと思うのですが、どうでしょうか。大事なことは蓮祖ご自身の生きられた、その世相を「末法」と感受する、またそれに対処しようとする、その精神にあるのだと思います。
1610
:
顕正居士
:2006/06/20(火) 02:45:05
天台五時判について
天台教判の主内容は蔵・通・別・円の四教判です。五時判も最初華厳の会座を聴聞することが
できなかった劣機の人達、すなわち仏弟子(声聞)のために蔵→通→別→円の順序で段階的に
理解させたことですから、内容は四教判なのです。そして仏弟子は最終的に純円の法華経で
理解できたから、釈尊(ビルシャナ仏)の悟りそのままの華厳経と異なり、開顕の円教であると
します。
*華厳経は釈尊が実際の説法をする以前の自受法楽を描いた経、あるいはビルシャナ仏が
アカニダ天宮で説いた経です。ですから史実の仏弟子は当然、聴聞できなかったのです。
したがって五時判は仏教思想の論理的展開を釈尊一代に仮構した説です。論理的な順序
(通の五時)が内容だから、釈尊一代に仮構していても、時間的な順序(別の五時)を強調する
のは諦観の『天台四教儀』から流入した謬説だというのが、智旭(藕益大師)著『教観綱宗』の
批判です。
智旭は日蓮より幾世紀も後の人ですから、日蓮が別の五時にはまっていても仕方ないでしょうが、
湛然流(山外流)は「部教混乱」(四教判と五時判の混乱)だと指摘した証真は日蓮以前の人です
から、日蓮の天台理解には当時の学問レベルでも大いに問題がありました。
仏滅年代については中国天台宗のデタラメに日本人はみな気付かなかったから、日蓮を責める
のは無理でしょう。
1611
:
今川元真
:2006/06/20(火) 06:29:18
●三身→五時・経典本尊の雑乱を整理。●本尊・末法の様相に対応。●「法華経を解いた」のは意を汲み取る事を肝要の大事とした。●学説の一派の思い込みでも、学問の整理整頓は是か非か。●直説から考えれば、妙法蓮華経はどう捉えれば良いのか。●[諸行無常十界互具→一念三千因果倶時→妙法蓮華→真実開顕]●自分が騙されたから他人を騙して良い訳が無いと言うなら、学問の要点だけを取り出して活用するしかない。
1612
:
犀角独歩
:2006/06/20(火) 06:45:00
一字三礼さん、わたしは乾闥婆さんの疑問は尤もだと思います。
> 日蓮聖人は、仏者の立場から経典や先師天台大師の見解を是としたのであって、それを歴史的に誤りとするのはどうでしょうか。
歴史的な誤りではないでしょう。教義としての誤りです。
当時(鎌倉)の認識で組み立てられたからこそ、誤りなのでしょう。
日蓮はたびたび、「仏定めて」と言って経典を説明します。これは歴史の誤りではなく、一切経典を仏説であるとした当時の見解ですが、それを鵜呑みにすることは、個人の誤りに属します。
わたしたちが、石山圏という世界で「本門戒壇の大御本尊は絶対真実である」と信じていたのは、その世界では当然のことであっても、結局、虚偽であったのと同様です。事実を究明しようとするのに、誤認を庇うことはナンセンスです。
> …正しい末法とはいつから始まるのでしょうか。
この質問もナンセンスだと思います。
日蓮がいう末法とは大集經と以下、普賢品を折衷して査定されたもので、そもそも大集經自体、後世の創作であるわけですから、これを仏説として扱った時点で誤りがあります。当時はそうだったから日蓮本人の誤りとは言えないというロジックは無意味です。中世に太陽は地球の周りを回っていると人々が信じていたのは世間一般の通念であったから、その責任を負わせるのは酷であるというのみです。責任問題を言うのではなく、合っているのか・誤っているのか、そのどちらかかという話です。結局のところ、間違っていた事実は動きません。
また、仮に法華経を典拠とするとき、寿量本仏は「娑婆世界…常住此説法」のわけで、この宣言を八箇年の法華経で宣言した形になっています。「我此土安穏」ともあります。つまり、末法思想と寿量本仏に整合性はありません。
> 「世尊、後の五百歳濁悪世の中に於て」(普賢菩薩勧発品第二十八)
この文は後五百歳であって、五五百歳(2000〜2500)ではないわけです。
つまり、この文は大集經と折衷しない限り末法思想にはなり得ないということです。ただし、「若し後の世の後の五百歳濁悪世の中」などという言い回しをして、本来、同品が説かれた後の50年(500年)後のことであったものを意味深な言い回しをして、先延ばしをした羅什の底意にもその責任はあるのかも知れません。
また、同品が言うところは五百歳を特定したうえで「此の人は久しからずして当に道場に詣して諸の摩衆を破し、阿耨多羅三藐三菩提を得、法輪を転じ法鼓を撃ち法螺を吹き法雨を雨らすべし」であって、実際のところ、勧持、不軽と同列に扱われた末世観との整合性もないわけです。
> 正確な末法を特定する為には、何を基準とすればよいのでしょうか。
先に記したとおり、わたしは、そもそも末法思想そのものがナンセンスだと思います。
1610の顕正居士さんのご教示は大いに参考になりました。
しかし、
> 日蓮を責めるのは無理
皆さんもわたしが記したことをこのようにお思いになっているのかも知れませんが、わたしは日蓮を責め立てる意図はありません。むしろ、その善意と探求心は信仰の値すると言っているぐらいです。ただ、そうであるけれど、仏説と日蓮が考えたことは間違っていたといっているのみです。責任問題を論じているわけではありません。事実誤認をしている点を指摘しているのに過ぎません。
また、そのような誤認を放置して、日蓮が正しいということはナンセンスだと考えるのみです。
1613
:
管理者
:2006/06/20(火) 07:22:21
>1161 今川元真さん
今川さんの投稿を以前より拝見致しておりますが、メモ、或いは、走り書きとも取れるような書き込み方法であると存じます。当掲示板は、対話を重んじる事を書き込みの基本原則と致しておりますので、少しこの基本原則から外れるように思っております。
ご参加の方から、今川さんの投稿の仕方だと、誰も応答できないのではないか、という指摘がなされています。出来ますれば、対話を前提として、対話を重んじた書き込みに変えていただけないかと存じます。特に、議論をするためのスレッドに於いては、そのように御改善をお願いいたしたく存じます。
1614
:
犀角独歩
:2006/06/20(火) 07:31:33
乾闥婆さん
『現代人が納得できる日蓮教学』797に移動しました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/797
1615
:
今川元真
:2006/06/20(火) 12:06:33
管理者さん、私の書き込みが対話に適していない事はお詫びします。ですが、私は特定の人宛ての書き込みでは無いので解り辛いもしくは的外れな場合は指摘して頂ければと思っています。此の掲示板でなくても指摘された事はありますが同じ土俵でないと対話も途切れ途切れになると思います。なるべく努力します。
1616
:
今川元真
:2006/06/20(火) 12:51:11
【経典の記述をそっくり其儘受け入れられるか】●直説→直接話したor受け継いだ教え→宗教用語的絶対見解or鎌倉時代的相対見解、●今川元真(北伝仏教成仏得道+末法様相鎌倉時代応用≒普遍基礎)、犀角独歩(武士の世に起こった日蓮宗派に限界を見た気がした)●日蓮から受け継ぐのは、法華一乗の心or平和社会への志or末法の様相を呈した鎌倉時代に出来た社会哲学(意訳・創価哲学?・誉めれば血色良くなり楽観して前進する)●国家社会に例えると軍事費削減すれば福利厚生・教育学問に使用できる。いろいろ考えていろいろ浮かんでくる事を書いているので粗齬破綻をきたしているなら削除してもらえば良いと思います。解らない語句の使い方で書いていると自分では思ってないのです。
1617
:
一字三礼
:2006/06/20(火) 17:36:26
乾闥婆さん
> いくつかの教相判釈があり、それらはどれも相応に正しいけれど、天台の五時判が一番よさそうだからそれを支持してみました、といったものではないと思います。
いえ、そんな感じだったのではないでしょうか、もしくは一番理屈が通っていると考えたのかもしれませんね。
> 四十余年未顕真実とは時間の概念であり、当時もそうであろうと思います。蓮祖はそういう時系列に立って、法華最勝を主張されたことにはなんら変わりはないのではないでしょうか。
それは違います。
「四十余年未顕真実」とは「無量義経」に出てくる経文のです。経典に説かれる事柄を日蓮聖人が現実と捉えていたと考えるのはナンセンスであり、意味がありません。
「時に釈迦牟尼仏、所分身の諸仏を容受せんと欲するが故に、八方に各更に二百万億那由他の国を変じて、皆清浄ならしめたもう。地獄・餓鬼・畜生及び阿修羅あることなし。又諸の天人を移して他土に置く。所化の国亦瑠璃を以て地とし宝樹荘厳せり。」(見宝塔品第十一)
これは、法華経の釈尊の仏土を顕す経文で、現実的にはありえようもない娑婆浄土ですね。これを現実にインドに存在すると考えられたでしょうか。
本当に日蓮聖人が法華経が全て事実であり、現実に起こったことと把握したのであれば、日蓮聖人はインドの霊鷲山に向かわれたのではないですか。「常在霊鷲山」は法華経の中心、寿量品のご金言ですから。
ところがそんなことはなさらなかった(あたりまえですが)。日蓮聖人は霊山浄土を自己の内面、乃至は滅後に求められた。これは法華経を事実として認識していたのではなく、内面的に把握していたからでしょう
。
法華経典に従えば、たぶん鎌倉時代の当時であっても霊鷲山にいけば、まだ地涌菩薩が十方分身諸仏に礼拝しているところを見るのに十分に間に合うでしょう、なんせ五十小劫も続くそうですから(これは冗談です)。
「行の時は梵天左に在り、帝釈右に侍べり、四衆八部後に聳い金剛前に導びき、八万法蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ。是くの如き仏陀、何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや。」(観心本尊抄)
「四大声聞の領解に云く「無上宝聚不求自得」云云。我等が己心の声聞界なり」(観心本尊抄)
「経に云く「我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず、復上の数に倍せり」等云云。我等が己心の菩薩等なり。」(観心本尊抄)
日蓮聖人は法華経のみならず、一切経を衆生の己心のことを考えておられたのではないでしょうか。これは顕正居士さんが仰るように、仏典は報身如来の説と考えられたからでしょう。
> 仏滅後の年代は明らかな間違い
北伝の仏滅年代のことですね。
‘明らかな間違い’とまで仰るのでしたら正確な仏滅年を教えてください。100年も幅のある仮説はいりませんから、正確な年代をお願いします。
経典というものは、象徴的に、時にはドラマティックに表現することが多々あります。それを現実と直接対比すれば、とんでもない話になってしまします。たとえば、法華経の序品では仏が眉間から光を放ちますが「現代医学の観点から、仏といえども人間のおでこの白髪から光が出るわけが無い。だからこの経は間違いだ」とか「それを信じている人も間違っている」など言うのでは議論にもならないでしょう。
犀角独歩さん
> 一切経典を仏説であるとした当時の見解ですが、それを鵜呑みにすることは、個人の誤りに属します。
そうでもないでしょう。偽経の存在は鎌倉時代でも知られていたそうですから。
仰りたいことは大乗は仏説ではない、ということなのですか。
1618
:
犀角独歩
:2006/06/20(火) 19:52:28
一字三礼さん
『 現代人が納得できる日蓮教学』798に移動しました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/798
1619
:
ひきこもり
:2006/06/27(火) 14:28:19
結局御尊は、南無妙法蓮華経と唱える生命の中にあるわけです。創価は唱題根本にしていけば、
何も鬱ぐことも、落ち込むこともないと思いました。さぁ10時間唱題をやりましょう。
1620
:
ひきこもり
:2006/06/27(火) 14:29:48
>1619
誤)御尊
正)御本尊
1621
:
真実探求者102
:2006/06/30(金) 20:20:33
、、横からすみませんが、。 クルクルと変化しました様な「本尊」に対して、何も疑問の感覚もお持ち合わせがないようでしょうか、、? この点には不思議、、?、、イヤ、恐ろしさも視野になりましょうか、?
1622
:
ひきこもり
:2006/07/01(土) 13:13:13
犀角独歩さんは凄い人ですね(涙)。また池田先生みたいに強い人です。私は戒壇の大御本尊を
否定された独歩さんのレスには何も反論できませんでした。一度ノイローゼになりましたが、や
はり唱題をするにつれて、また少年時代、青年時代の生命力が蘇って来ました。
私は中学生から大学生の時まで東京池袋の常在寺によく行きました。学校の帰りに常在寺に行き、
唱題しました。戸田先生の葬儀の寺院でもある古刹ですから。昭和40年代前半までは常在寺の
御本尊は日精上人のものでした。後半に寺院が改築された後、日達上人の御本尊になったようで
す。
日精上人の御本尊でも大歓喜が得られたのです。ましてや大御本尊ではです。御本尊は信じる当
人の生命の中にあり、外には無いと言うのが日蓮大聖人のお言葉です。
私は創価ですけれども、未活です。個人主義なのです。しかしそれに疑問を感じ始めて来ました。
私は怒りっぽいので、若い時には創価の活動者としてそれを抑えていましたが、今は未活であるた
め、その悪い性格を爆発させてしまう恐れが出て来ました。こういうことが犯罪に繋がるのですね。
大御本尊はともあれ、私はまた朝晩の勤行唱題をするようになって、生き生きとしてきました。問
題は毎朝「聖教新聞」をきちんと読むかどうかにあると思います。
1623
:
真実探求者118
:2006/07/01(土) 21:12:02
、、またまた失礼します、。 、、ああだら、、こうだら、、御託を述べた最後には「、、聖教新聞の熟読、、?、、」、、に力点を集中でしょうか、? アノ手この手の、「、ダマシの技術、」、には、サスガ、、?、でしょうか、? コンナ子供ダマシでも、見破れない方も居るのでしょうか、? 本当に不思議でしょうか、??
1624
:
真実知求者
:2006/07/01(土) 21:57:53
ゴメンします。 ゴモットモです。 S会の回し者、?、かも、? 一見、疑問が浮上して動揺したフリをしながら、チャッカリと「宣伝」だけは主張したいようです、ネ、。 次のHPもご参考にはなります、けど、。
http://www.forum21.jp/
1625
:
犀角独歩
:2006/07/02(日) 07:36:18
ひきこもりさん
> 戒壇の大御本尊を否定…一度ノイローゼになりました
そうでしたか。そして、唱題によって立ち上がったということですか。
> 日精上人の御本尊でも大歓喜が得られた
学会の方で日精をよく言う人は珍しいですね。
> 御本尊は信じる当人の生命の中にあり、外には無いと言うのが日蓮大聖人のお言葉です。
「抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。…我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は、地獄其人の心の内に候…仏と申事も我等心の内にをはします」(重須殿女房御返事)
生命ではなく、「身の内」「心の内」です。
> 怒りっぽい…犯罪に繋がる
まあ、そこまで極端に考えることはないと思います。
> 朝晩の勤行唱題…「聖教新聞」をきちんと読む
この新聞だけを読んでも、学会のことしかわからないでしょう。
情報と知識はできるだけ、間口を広げたほうが事実に近づけるでしょうね。
1626
:
きゃからばあ
:2006/07/11(火) 10:38:10
ここの掲示板でも板御本尊は偽物と書き込まれ、川辺メモについても前猊下の発言が取り上げられ、それにもかかわらず大石寺としては、メモの発言に対して反論をするだけで、板御本尊そのものが本物であるとの証明をまったく示されていない。
私個人にも大石寺を離脱した僧侶ではあるが、2名の方に直接「あれは偽物です」といわれた。たとえ離脱したとはいえ元大石寺の僧侶であり、どちらも達師の弟子である。
現在、私の立場は法華講である。
なぜ本山は板漫荼羅が本物だという証明をしないのだろうか?
せめて板漫荼羅と同じ木といわれている最初仏の鑑定だけでもすればいいのにと思ってしまう。
ならば法華講の立場で、川辺メモを参考として、「偽物の疑いがある」とし、さらにそれを本物として内拝させ御供養を集めていることを「詐欺の疑い」として告訴できるのだろうか?
しかしそのようなことをすると破門になるのだろうか?
法華講とは僧侶ではなく、ただの信者なのに破門があるのだろうか?
僧侶の弟子になりたくて入ったのではなく、板御本尊を信じて法華講になったはず。
いずれにしても板御本尊が本物との証明がなされないなら、信者の立場として大石寺を詐欺の疑いで告訴したい。
しかし残念ながら私は法律に詳しくない。
どなたかアドバイスをお願いします。
1627
:
犀角独歩
:2006/07/11(火) 11:37:19
きゃからばあさん
当然のこととして、わたしも同様のことを考えてきました。
この手のことは、松本さんの裁判も参考になるかもしれませんが、要は、具体的にどのような訴えを起こすかという点に焦点があると思います。
方法を熟考したいと考えます。なお、
> 法華講とは僧侶ではなく、ただの信者なのに破門があるのだろうか?
現に池田氏をはじめとする創価学会、顕正会も破門になっていますね。
1628
:
きゃからばあ
:2006/07/11(火) 12:58:10
独歩さん
アドバイスありがとうございます。
>要は、具体的にどのような訴えを起こすかという点に焦点があると思います。
周囲の人にもアドバイスを頂き、また同じ思いの法華講の方々にもご協力を得て、焦点を明確にしたいと思います。
破門の件ですが、よく住職に「信者さんは御本尊さまのお客だから…」といわれました。
そのお客を破門するとは情けないですね。
むしろ過去の僧侶の不祥事(買春等々)を、本山として管理者として、きちんとお客に詫びて欲しいです。
1629
:
犀角独歩
:2006/07/11(火) 22:44:58
きゃからばあさん
本日、上記の件、お詳しい方から、ややご意見を伺ってきました。
「難しい」ということでした。が、「では、やめた」という話でもないので、さらに考えてみたいと思います。この手について、うってつけの弁護士さんがいます。手の内を見せるわけにはいかないので、追ってメールでご連絡します。
信者が御本尊のお客ですか。石山とその末寺と、そこの専従職員のためのお客さんの間違いでしょうね。
1630
:
きゃからばあ
:2006/07/11(火) 23:13:21
独歩さん
>この手について、うってつけの弁護士さんがいます。手の内を見せるわけにはいかないので、追ってメールでご連絡します。
何卒、よろしくお願いします。
1631
:
犀角独歩
:2006/07/11(火) 23:27:24
きゃからばあさん
そうそう。わたしのメーラー、やられてしまい、アドレス帳がパーになりました。
空のメールでけっこうですから1通、送信してください。
そのアドレスに返信させていただきます。
saikakudoppo@rio.odn.ne.jp
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