したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

1231犀角独歩:2005/04/04(月) 13:43:54


1230の大勇者さんのご投稿、頷けるところがありました。
「教育」ですか。なるほど。教育へ転化していくのは社会一般から見れば、安全な変化ですね。しかし、教育を宗教の道具にするとなると、とたんに事情が変わります。

戸田さんが大勇者さんが記されるような内村鑑三の考えにあったとして、ならば、なんでまた、彫刻本尊やら、「御肉牙」にあんなに感動していったのでしょうか。不思議ですね。

> …本尊…偶像からの卒業…困難な道

何度も引用している文章ですが、わたしは高橋師がいう「シンボルの病」という概念に賛成です。結局のところ、シャキャムニの目指したところは、この脱却であり、今のテーマで言えば、偶像から脱却であったと思えます。

「教祖の釈迦は、現代のカルト的宗教が説くような、「私を信じなければ不幸になる。地獄におちる」式の脅しの言説は一切していない。
とはいえ仏教が輪廻思想から自由でないのは、当時のバラモン(婆羅門)や沙門(シュラマナ)たちが共有していた文化的な枠組みのなかで釈迦が生きていたからだが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できることで、したがって釈迦は秘技伝授の超能力者でも霊能者でも、ましてや「最終解脱者」でもなく、もちろん「神」のような絶対者でもなかった。しかしカリスマを求める周囲の心情はいつの時代も変りがない。死後の釈迦は次第に神格化され、俗化される。たとえば釈迦の骨がフェティッシュな崇拝の対象となったり、、釈迦の言説とされる教典それ自体が信仰の対象となったりという、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は再び回帰したのである。そこにあるのは象徴(シンボル)の病である」(『超能力と霊能者』現代の宗教8 岩波書店1997年2月5日第1刷 P215)

要は、この問題を追及していくと、学会を含む石山の有様が仏教と言えるのか?という難題まで孕むことになるのでしょう。

1232愚鈍凡夫:2005/04/04(月) 14:33:49

それにしても、お札の束が現世利益をもたらしてくれるのは事実ですね。戸田さんの気持ちも分からないではないです。
その内、福沢諭吉の墓に詣でて現世利益を願う新興宗教が出来たりして。 (;^_^A アセアセ…

結局は、的がなければ自分の日々の信仰心を何処に向けていいのか分からない、といった事情が偶像を進化させてきたのでしょうね。

1233藤川一郎:2005/04/04(月) 18:39:54
>>1227
> 藤川一郎さん、石山義で「閉眼」がありますか?

独歩さん、本当は知ってて言ってないでしょうね(笑)?
古くなった御本尊を納めたときや、紙幅の御本尊の表装のお取り替えの時とか、板御本尊のお化粧直しとかをお寺に頼みますと、寺院の御寶前で閉眼をするじゃないですか?

1234藤川一郎:2005/04/04(月) 18:48:46
ちなみに・・・
その昔、未だ創価学会が石山内にいたころの話ですが、
ある創価学会員が引っ越すので、御本尊をお巻きしていたら、創価学会の一幹部が「勝手に巻いたらだめだよ。今から閉眼するから」と怒ったそうです。
そして、経文を読んで「ただいま閉眼が終了しました」等とやったそうです。
それを見ていた引っ越しを手伝っていた法華講員は何も言えずにいたそうです。
その方は引っ越し先まではついていかなかったそうですが、恐らくその幹部が「開眼」もしたのでしょう(笑)。

1235ファリオン:2005/04/04(月) 20:41:05
何だか、私の出る幕ではなさそうな……

ポイントとしては、愚鈍凡夫さんの「的がなければ……」だと思います。
出家された方はともかく、信者となれば、何がしかの祈る対象が無いとやりにくいのではないでしょうか。

あと、日本の場合は、神道における「依り代」の考え方も、信仰の根底として影響しているのでは、と愚考しております。
それなりの「物」を通じて、神仏の力を受ける、つまり、「物」に神仏の力が宿る訳ですね。その時点で、「物」は神仏と同等に扱われます。
このため、仏像やそれに類する物も、仏法の依り代・宗祖の魂の依り代として、考えること無しに祈りの対象になったのでは、と思います。

素人考えですが、日蓮師は、仏像を彫る・描くのと同じ意味で、先に少し書いた種字曼荼羅を参考にして、御本尊を表したのでは、と思います。
仏像と違うのは、教えの基となる仏に相当するものが「南無妙法蓮華経」であり、具象化出来ないことです。
そのため、仏像と同等の扱いをするのではないでしょうか。
ここまで来れば、「偶像崇拝」とは言えなくとも、極めて近い形になると思います。

未熟な論考ではありますが、ご批判の程、宜しくお願いします。(お手柔らかに……(^_^;)

1236かわさき:2005/04/05(火) 00:19:23
>1234、35
創価学会で開眼なんかやらないし、大石寺で閉眼なんかないですよ。

1237犀角独歩:2005/04/05(火) 17:39:39

藤川さん、わたしは石山の「閉眼」式なるものに参列した経験はありません。
こういうものがあるんですか。

しかし、言われてみれば、廃仏毀釈の折、「本門戒壇の大御本尊を閉眼し、紙幅に改めた」という話を聞いたことがあるわけで、そうなるとたしかにそんな儀式はあるのでしょうか。

1238問答迷人:2005/04/05(火) 17:52:59

>閉眼

僕が昔所属していた寺院で、ある信徒が、曼荼羅の表装部分を傷めてしまい、住職に表装直しを頼んだことが有りました。そして、表装が出来て来たとき、その信徒さん宅で開眼法要をした記憶があります。表装直しに出す前に閉眼をしたのだと思います。たしか、住職のその時の説明は「御本尊さまは、仏様だから、そのまま表装直しに出すことは出来ない。一旦、魂を抜いて、紙にしてから表具屋さんに出すんだ」との説明だったように記憶しています。

1239犀角独歩:2005/04/05(火) 17:55:59

ファリオンさん:

> 依り代

このお考えは「なるほど」と納得しました。
ご承知かどうか存じ上げませんが、富士は修験道の地であり、興師もその強い影響を受けているというのが共通した認識です。また、日本型の仏教は言うまでもなく神仏習合であり、その相互の影響は言うまでもないことですね。

彫刻本尊に蓮師の魂が宿るという石山の考えも、言われてみればたしかに「依り代」と考えるとすんなりと理解できます。また、唯授一人血脈相承は「法水写瓶(ほっすいしゃびょう)」と言われるところも、この解釈は当てはまりますね。

1240犀角独歩:2005/04/05(火) 18:12:42

問答さん、有り難うございます。

しかし、改めて考えてみますと、魂というのは、およそ仏教からはかけ離れていると感じます。

蓮師は、「魂魄」という語彙は使用されていましたが、「たましい」は「神」と書く場合も多く、今日的な言葉で言えば「精神」と言ったところでしょうか。

開眼:閉眼=入魂:脱魂という関係は、後天的であり、必ずしもイコールの関係と思えません。

問答さんが漫荼羅を「唱題の方軌を指し示した」と仰る考えには、唱題という点ではまだ未決ながら、所表であるという点では賛同します。図された内容から極意を窺うというとこでしょうか。しかし、印刷本尊に仏魂が具えるのが開眼で、脱くのが閉眼というのは、どうも土俗信仰のような風体ですね。

そもそも、読経唱題をし、なにか呪い・観念みたいなことをするのかどうか知りませんが、それによって、開眼:閉眼=入魂:脱魂というのは、わたしのような不信心者からすれば、形式としか映じません。

蓮師の教説を窺い見ると、仏像の御前に法華経典を具えることによって開眼とするわけですね。真跡遺文ではありませんが『経王御前御返事』には「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経也。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経」とあるわけです。

要は仏像御前に具える法華経典、また、題目の五字七字そのものが「魂」であるわけですね。それから、魂を脱くというのは、論理矛盾を来しているとわたしには思えます。

問答さんは、この点は、どのようにお考えになられるでしょうか。

1241問答迷人:2005/04/05(火) 18:22:28

返却曼荼羅の閉眼

同じ住職の話ですが、(たしか、この老僧は大阪の蓮華寺にゆかりの方だったと記憶しています)、「信徒が返却した御本尊は一機一縁の本尊なので、返却した時点で信心の血脈が切れるから、唯の紙に戻るんだ」と言っていました。お寺の受付机の引き出しの中には、しばしば返却本尊が無造作にゴロゴロと放り込んであり、『こんな酷い扱いをするなんて、この住職はきっと信心が無いんだ』と思ったものでした。そして、この答えは、僕がこの事を住職に何時か問い詰めてやろうと心に期していて、機会が有った時に質問した時の住職の答えでした。

その時は、何か拍子抜けしたというか、はぐらかされたと言うか、複雑な気持ちになりましたね。

1242問答迷人:2005/04/05(火) 18:33:57

犀角独歩さん

>題目の五字七字そのものが「魂」であるわけですね。それから、魂を脱くというのは、論理矛盾を来しているとわたしには思えます。

全く以って賛同します。恐らく、曼荼羅=仏様=仏像としたところから、そのような可笑しげな展開になってしまったのだと思います。以前、僕は、曼荼羅=仏像という捉え方をしていましたが、今はその捉え方には拘らない事にしました。曼荼羅は曼荼羅でよいではないか、無理やり仏像だと決め付ける必要もないし、無理がある様に思ったからです。

日蓮正宗では、曼荼羅を生身の日蓮大聖人と拝する訳ですから、何かしら理屈をつけて、開眼。閉眼をやらないと、格好がつかないんだと思います。ただ、それだけのことだと。

1243犀角独歩:2005/04/05(火) 19:01:57

当時、石山の坊さんを僧宝と仰ぎ、平身低頭していたわたしは、いつもながら、問答さんの天晴れなお話を伺い、驚かされます。

「返却した時点で信心の血脈が切れるから、唯の紙に戻る」、こんな考えのでしょうか。いやはや。

これは換言すれば、「漫荼羅本尊と雖も、信心の(血脈の)ない人にとっては、ただの紙」という意味になります。要するに、信心していないものにとって、漫荼羅はただの紙切れだから、破っても何しても罰は当たらないという意味になりませんか。わたしは別段、それでもかまいませんが、しかし、これでは、石山の漫荼羅信仰を根底から覆しかねない気がします。

1244問答迷人:2005/04/05(火) 19:55:43

>石山の漫荼羅信仰を根底から覆しかねない

ほんとですね。この老僧、本当は石山義を信用してなかったのだと今にして思います。

それから、この老僧、『六巻抄を勉強会で希望者に教えてほしい』とお願いいたとき、「六巻抄か、あれは本宗の坊さんでもごくわずかのものしか講義を聴いたことがないんだよ。相伝書みたいなものなんだ」と言いながら赤茶けた何十年も前の講義を受けたときのノートを出してきて、「ほら、ここにこう書いてあるだろ、これは日淳上人の講義じゃ」と得意そうに話してくれました。『本因初住の文底とは、「我実成仏以来」の文底だ』と。それは、「我本行菩薩道ではないですか。三重秘伝抄にはそう書いてありますよ。ご住職、それはいくら日準上人の講義だと言っても戴けませんよ」と即座に反論したら、「オカシイなぁ、もう一度調べてみるわ」と言って、その日はそれっきり。後日、「君の言っていたのが正しい様だ、ノートにもそう書いてあったよ。六巻抄とか、宗学はわしはどうも好きになれん。やっぱり、勉強会は「法華経の成立史」でやるよ。」でした。

1245問答迷人:2005/04/05(火) 19:59:06

訂正です。

× 我実成仏以来

○ 我実成仏已来

1246問答迷人:2005/04/05(火) 20:00:29

もう一つ訂正です

× 日準上人の講義

○ 日淳上人の講義

1247顕正居士:2005/04/05(火) 20:29:58
開眼や閉眼。魂入れや魂抜き。これはどの宗派にもありますよ。
本尊だけでなく位牌、数珠、墓、仏壇まで。言い方やどこまで
広げるかなどは少しずつ違うようですが。しかしだいたいは習慣的、
儀礼的、商売的なもので教義的なものではないでしょう。
御本尊とはどなたかの御本尊ですから、返却したらただの紙と
いうのはもっともでしょう。どんな貴重な仏像、仏画、曼荼羅でも
古物商の店舗にある時はただの美術品あるいは歴史資料です。

1248犀角独歩:2005/04/05(火) 21:16:38

>1247

顕正居士さんが記されるところは、一般的にはもっともご見解なのだと思います。
ところが、これに駄目出ししてきたのが学会的な信仰でした。

また、たとえば蓮師がご自身が図示した漫荼羅が信仰から離れれば、ただの紙、という考えはもっていなかったであろう、これはまた、興師もしかりであったのではないのかという筋からの議論でした。

1249問答迷人:2005/04/05(火) 21:35:31

僕が創価学会で聞いた所の『草木成仏』について

学会で教わったことは、『草から出来た紙幅御本尊も、木で出来た板御本尊も、御本仏日蓮大聖人が筆を取って御本尊を認められ、刻まれたら、即座にその紙や木の全体が仏様の当体となる。これを草木成仏と言うと。そして、その仏様を拝むことによって我々は即身成仏のご利益に与かる』と。

『草にも木にも成り給える寿量品の釈尊なり」というのが、基本的な考え方でした。「御本尊様は、紙や木で有りながら、そのままのお姿で仏様の当体なのだ」と。

ここからは、お寺に返却したら、唯の紙、という考えはなかなか出て来ないのではないかと思います。

1250犀角独歩:2005/04/05(火) 21:38:42

問答さん、ちょっと、読み流して、いま気付いたのですが

> 勉強会は「法華経の成立史」

こんなことをやったら、法華経は紀元前100年から紀元後150年頃までに成立したことを説明しなければならず、お釈迦様が説いたものではないと言わなければならなくなりますね。もはや、寛師どころの騒ぎではないわけですが、「日蓮正宗末寺法華講」の勉強会として成り立ったわけでしょうか。興味があります。少しお話いただけませんでしょうか。

1251問答迷人:2005/04/05(火) 21:51:03

>「日蓮正宗末寺法華講」の勉強会として成り立ったわけでしょうか。

そうですね、ほとんどの人は、「こんなの信心とどういう関係が有るのか、もっと、信心の糧になるような講義が聞きたい」という意見でした。それで、僕は仕方なく「六巻抄の勉強会」を住職にお願いしたわけでした。

「信心と学問とは別だよ、だけど、教学だけではだめなんだよ、日蓮正宗の中で仏教学を勉強しているのが少なすぎる。幅広く仏教学を学んで、その上で宗学を捉えなくては、世間に通用する宗門にならないよ」というのが口癖でしたね。だから、「ワシの話は面白くないかもしれないが、仏教学の最先端の話をしているんだよ。聞いておいて損はないよ」とも言ってましたね。あんまり詳しく書くと、この老僧が誰なのか、宗務院は判ってしまうから、このあたりにしておきます。

1252犀角独歩:2005/04/05(火) 22:07:31

問答さん、有り難うございました。
そうですね。あまりお尋ねしてはいけませんでした。

しかし、「信心と学問とは別」とは、よく言ったものです。
そうなると、石山の「一信二行三学」、何より(わたしは偽書濃厚と考える)『諸法実相抄』は灰燼に等しいことになりますね(笑)

蓮師に、こんなことを言ったら、即刻、破門でしょう。「時代が変わった」「原理主義は駄目」では成り立たないのが、石山の信行学の関係であろうと思います。

1253顕正居士:2005/04/05(火) 22:18:25
仏像、仏画、曼荼羅という物体自体に何か神秘な力があるのではなく、どなたかが自分の本尊と
した時にはじめて本尊となるのでなければ、魂入れも魂抜きも必要でないでしょう。
創価学会の場合、御本尊送りというのが魂入れ=開眼法要ですね。日蓮正宗の信徒団体だった
頃にもこれに坊さんを呼ぶことはあまりなかったでしょう。それにはいろいろ理由があったでしょう。
そして魂抜き=閉眼法要はもう脱会するよというケースがほとんどで、そもそも行われなかったと
おもいます。そういう特殊事情から物体自体に神秘な力があるというような雰囲気が生じたのでは
ありませんか。草木成仏は仏の姿を作ればそれが仏というのではなくて、開眼は法華経でなくては
ならないという話だったとおもうのですが。

1254問答迷人:2005/04/05(火) 22:18:47

まぁ、この住職のお陰で、五時八教が成り立たない事は、当時から知っていました。この老僧、人情味のある方で、しかも本音で物を言う方でしたから、法華経が釈尊の金口でないことは、法華経の譬えに現われる時代背景を通して口すっぱく説明を受けましたよ。

まぁ、日蓮正宗の末寺住職としては、不適任な部分も有ったかと思います。堀上人がそうであったように。

1255犀角独歩:2005/04/05(火) 22:22:18

今さらながら、顕正居士さんのご説明を承り、石山・学会型の漫荼羅本尊の在り方というのは奇妙なものであるという思いに駆られました。

わかって黙っているのが、坊さんだということは、問答さんのご紹介も含めて、世間も同じ。そうなると、常に馬鹿を見るのは信者ばかりということになるのでしょうか。

1256問答迷人:2005/04/05(火) 22:23:51

顕正居士さん

>開眼は法華経でなくてはならないという話だったとおもうのですが。

ところが、蓮師の字像曼荼羅の場合は、すでに「南無妙法蓮華経」と認められていますから、すでに開眼されている、という意味合いがあるのではないかと思います。だから、認めた途端に仏様だと。そんな風に教えられていたように思います。

1257犀角独歩:2005/04/05(火) 22:32:41

問答さん、錯綜させているようで恐縮ですが、わたしは漫荼羅の用途、もっと言えば、首題書写(塔婆を典型として)の意義はは、そもそも、この開眼に、あったと思うわけなんです。

この考えは、そして、蓮師に遡れるのではないのかと。
また、この意義は、唱題も同じであろうとも思います。

1258犀角独歩:2005/04/05(火) 22:40:24

自己レスです。
「錯綜」というのは三つ巴のようにしてややこしくしているという意味です。

1259問答迷人:2005/04/05(火) 22:51:34

>この意義は、唱題も同じであろうとも思います。

『「南無妙法蓮華経」と唱える事が、開眼に他ならない』という意味でしょうか。それは、唱える人の即身成仏を意図していると言われるなら、そのお説に大賛成。まさに唱題とは、そのような意義を持つものであると思っています。『唱題成仏』ですね。

1260犀角独歩:2005/04/06(水) 09:38:56

真偽未決ながら、『新池御書』の「南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、天然と三十二相八十種好を備ふるなり。如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」という点と一致するのだと思います。

また、この点は『法華経題目抄』の「法華経の意をもしらず、義理をもあぢはゝずして、只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて、一日に一返、一月乃至一年十年一期生の間に只一返なんど唱へても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかず、つひに不退の位にいたるべしや。答へて云はく、しかるべき」という蓮師の考えと一致しているように思えます。

これは唱題面です。では、漫荼羅その他に首題を書く意義はどのような点であったのか、というのが、いま問題にしている点ですね。

『法蓮抄』に「天台の云はく「稽首妙法蓮華経、一帙八軸四七品、六万九千三八四、一々文々是真仏、真仏説法利衆生」…一々の文字変じて日輪となり、日輪変じて釈迦如来」、『祈祷抄』の「此の経の文字は即釈迦如来の御魂」という点で、蓮師の文字、取り分け、法華教典の文字に対する考えが窺えます。

また草木成仏口決(真偽未決)に「口決に云はく「草にも木にも成る仏なり」云云。此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり」などという点で垣間見られわけですが、確実な資料で追うとき、どうでしょうか。

いずれにしても、草木を仏像に刻み、あるいは経文を書き付け、首題を書くことによって草木の成仏があるという考えが蓮師にあったと思えます。この根拠とするところは『本尊抄』に見られる「観門の難信難解…木画の二像に於ては、外典内典共に之を許して本尊と為す、其の義に於ては天台一家より出でたれども、草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃み奉ること無益」というところから窺えます。

さらに「開眼」という点で蓮師の考えを窺うと

『木絵二像開眼の事』に「木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入る」
『四条金吾釈迦仏供養事』に「木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし」

と見えます。また、真跡から探る限り、この開眼の事の起こりは真言家にあるようで、それに対して蓮師は法華経による開眼を主張したのが上記と考えられます。

では、漫荼羅を開眼したのか?という疑問が生じますが、この点を窺う資料を、わたしは知りません。むしろ、先に記したとおり、首題を書き付ける事自体、蓮師は開眼と考えていたのではないのかと想像するところです。それが結局のところ、複製(形木、印刷、古美術)と言った蓮師が予想しなかった事態が生じ、以降、漫荼羅本尊にも開眼をするという展開になったのではないでしょうか。

有師は「判形は有るべからず、本寺住持の所作に限る」といい、亨師の文献を見ると「此の判形こそ真仮の分るゝ所にして猶俗法の如し、宗祖の御書中所々に判形云云の事あり・思ふべし・中にも大曼荼羅には殊に判形を尊ぶこと唯一絶対の尊境」とも記しています。
このことはまた、日蓮門下一般で同様のようで、売店などで買った漫荼羅本尊は檀家寺住職に持参し、裏書きをし、自分の名と住職法号・花押をなして、開眼とするといった具合です。

取り敢えず、整理まで。(申し上げるまでもないですが、以上のことをわたしが、信仰していると言うことではありません。あくまで資料から垣間見られる原義を探ったばかりです)

1261えばら:2005/04/06(水) 12:03:04
>1260
読んで気づきましたが、法華経とその題目は、言ってみれば開眼の道具ということになります。そうなると、法華経=題目(マンダラ)を開眼するというのは、なんだかへんなことになるわけでしょうか。
あと、学会は、開眼なんか言わず、全部、信心で合理化されています。だからといって、返却されたご本尊をただの紙とは見ないとおもいます。

1262三学無縁:2005/04/06(水) 13:19:59
亡くなった老僧からむかし聞いた話は
「江戸時代などは末寺住職書写のお漫荼羅は開眼閉眼をしたが、歴代書写のお漫荼羅はそのまま仏様なのだから坊さんが開眼だの閉眼だのする道理はなかった」
というものでした。参考まで。

1263犀角独歩:2005/04/07(木) 00:02:26

> 1261

えばらさん、はじめましてでよろしいのでしょうか。
概ね、ご意見に賛同します。

1264犀角独歩:2005/04/07(木) 14:20:32

開眼と文字漫荼羅、どうも、腑に落ちなかったのですが、理由がわかりました。

かいげん【開眼】
(名)スル
(1)仏像や仏画像を新しく作り、最後に眼を入れて仏の霊を迎えること。また、その儀式。入眼(じゆがん)。(三省堂提供「大辞林 第二版」)

そもそも、開眼供養というのは、仏像を作り、その眼の部分に墨などで眼を書き込む法要を言うからでした。ダルマに眼を書くというのもその延長にあるのでしょう。こんな儀式が起源であれば、文字漫荼羅に開眼供は、単なる転用、焼き直し以外の何ものでもなく、しっくりと合わさるわけはありませんでした。

1265愚鈍凡夫:2005/04/07(木) 14:49:50

横レス失礼します。
蓮祖の真蹟遺文を見る限りでは、「開眼」は木像・画像についてのみ述べられていますよね。
「曼陀羅」「御本尊」の両方の言葉が記されている「新尼御前御返事」にも「開眼」は出てきません。
木画二像の開眼は「法華経に限るべし」というのが蓮祖の主張ですから、法華経の主題を中央に掲げる蓮祖漫荼羅に「開眼」は相応しくないように思います。敢えて「開眼」というならば、蓮祖が図顕した時点で「開眼」されているという解釈は成り立ちませんか。

1266犀角独歩:2005/04/07(木) 15:19:56

愚鈍凡夫さん、わたしもそう思います。
蓮師が言う開眼は、どうも仏像御前に法華経典を置き、梵音声に代えるという趣旨のように思えます。その首題を図す漫荼羅ですね。

宝前に経箱に法華経典を入れて置くのは古来から習わしですね。(いまの石山寺院は空箱だそうですが)
つまり、蓮師の言う開眼と脈絡を同じくしています。
御影像なんかは体内に文字漫荼羅が奉納されていて、これが入魂の意味なんだろうと思えます。(書き入れる開眼をするかどうかは知りません)
以前、「御影像といえども、像を拝むのには抵抗がある」と、石山の坊さんに言ったら、教えてくれた話です。分骨された遺骨が入る場合もありますね。ただ、これは厳格に言えば、入魂で、この段階ではまだ、目は閉じている。宮殿に安置して、眼を書き入れて開かせるのとは、また別の儀式だろうと思えます。

まあ、以上の話は、要するにファリオンさんの偶像崇拝という観点から、わたしが返却されたとしても、「漫荼羅=日蓮=仏」というのが学会その他の信者の考えであるのに、坊さんのほうは返却された段階でただの紙(それも閉眼なしで)というのは、何とも乱暴な意見であろうという議論の展開でした。

一機一縁、それも「仮本尊」の扱いぐらいにとやかくいうほどのことではないと、果たして坊さんが言うかどうか知りませんが、少なくとも信者は、それが一機一縁だろうが、仮本尊であろうが、命懸けで祈り守ってきた尊体であるわけでしょう。そこに齟齬が生じるわけですね。

「さして重要でもない信者に与えている印刷は仮物で、返却されれば、ただの紙」、そんな口上で、信者が納得すると思ったら、大きな間違いだというのが、わたしが言いたいことです。

1267愚鈍凡夫:2005/04/07(木) 16:24:03

犀角独歩さん、どうもです。
蓮祖漫荼羅は、すべて一機一縁だと思うのですが、その観点からすると、石山の主張は変ですね。蓮祖曼陀羅といえど、ただの紙に書いた漫荼羅であって、「御本尊」ではないという主張になってしまいます。
「戒壇之本尊」に固執せずに、いっそのこと「同一理に支えられている漫荼羅の仏力法力は等しい」といってしまえば妙な言い訳をせずに済むし、楽になるのに・・・・・。
でも、それはそれで、「日蓮宗と何処が違うんだ! 謗法与同ではないか!!」と法華講が謀反を起こしそうですしね。

ただ、現存する蓮祖漫荼羅の1紙〜28紙までのバリエーションが何を意味するのか未だに悩みの種ですが。 (〜ヘ〜;)ウーン

> 「さして重要でもない信者に与えている印刷は仮物で、返却されれば、ただの紙」、そんな口上で、信者が納得すると思ったら、大きな間違いだというのが、わたしが言いたいことです。

医療関係者のように、あまりに多くを見過ぎると、事務的な無感覚さが身に付くということでしょうかね・・・・・。

1268犀角独歩:2005/04/07(木) 18:51:38

愚鈍凡夫さん、1267のご投稿、実に納得。

> 蓮祖漫荼羅は、すべて一機一縁

これはたしかにそのとおりですね。結局のところ、分類しようとしたら、ほぼ皆違っていたわけですから。だいたいからして、印刷で同一相貌のものを大量生産して、何が一機一縁なのでしょうかね。一機一縁だったら、蓮祖御筆の如く、授与者ごとに違ってしかべきですから。

> …同一理に支え…

これは浅井円道師の言ですよね。
Libraさんの十八番でしたね。

http://page.freett.com/Libra0000/099.html

1269犀角独歩:2005/04/10(日) 21:16:39

久保川法章著『宗務院配布の謀書を読んで』を読み返していたら、「開眼」に関する記述がありました。

「寛永9年の御堂造営の際、開眼供養の当主並に願主は日精上人であり(棟札)法主として之に当っておられていたことは明かである」(『清流を求めて』P39)
という昭和43年5月10日の宗務院広報が引文されていました。

余計なことを記せば、しかし、この久保川氏の諸説というのは、わたしからすれば実に珍妙に感じます。

たとえば同書に「本宗の本尊は久遠元初の自受用身…無始無終の仏身であり、境智冥合の大智大慈を合せ備えた当体…一閻浮提総与…この御本尊は凡願に写らぬ…秘するところに本来の意義」(同P43)という。

元初を「がんじょ」、さらに当初(そのかみ)などといい、種々言葉を使うけれど、「初」とは「はじまり」ということであり、どのように言い繕っても「無始」は意味しない。この点を、石山では『総勘文抄』を引用しながら、まだ「無始」というのは、いったい、どうなっているのかと思うわけです。

この事情は、『本尊抄』の「無始古仏」と『総勘文抄』の「五百塵天劫の当初凡夫にて御座せし時、我身は地水火風空なりと知て即座に悟を門き給ひき」との整合性を考えた故でしょう。

さらに「凡眼」に写らないというけれど、実際に板に彫られた文字が写らないわけはありません。善意に解釈して言葉を補えば、言いたいことは自受用身という当体は写らないというところでしょうか。また、物体であるから、そのうち無くなるともいうわけですが、それは当然のこととして、であれば、写らないのであれば、何も造立必要は何もないわけです。

さらに言えば、「秘するところに本来の意義」があるそうですが、そうなれば「総与」にはまったく当たらないことになります。

始まりがあるといって無始であるといい、写らないが本尊図示、秘するけれど総与、この二律背反を繰り返すロジックを繰り返しを、わたしは文章のトリックとみます。

1270大勇者:2005/04/11(月) 16:53:34
開眼、閉眼の話と大石寺板曼荼羅の偽作説に関連して、質問させてもらってよろいいでしょうか?
有師物語聴聞抄佳跡上を読んでいてちょっと疑問に思ったのですが、
「死人に覆うて葬ける」と言う処・・・これは当時(興師〜有師)の信徒一般の風潮として有得たことなのでしょうか?
紙幅の一機一縁の御本尊を死者と一緒に埋葬するという行為は心情として、それ程不自然ではないような気もします。この際に板に写しておき、彫刻後もう一度開眼するのも有得そうな気がするのですがどうでしょう。塔婆や位牌に似たような意義になりますか。
若しかしたらこの場合に、脇書の年号は命日とか翌日などに書き換えられたことも考えられるのではないでしょうか?
根拠の薄い想像からの質問で心苦しいですが。。。
「富士一跡門徒存知の事」
上の如く一同に此の本尊を忽緒し奉るの間或は曼荼羅なりと云って死人を覆うて葬る輩も有り、或は又沽却する族も有り、此くの如く軽賎する間多分は以て失せ畢んぬ。P1606

「有師物語聴聞抄佳跡上」
又大聖人御筆漫荼羅をもつて死人に覆うて葬ける輩之有り故に御筆の本尊を写し形木彫して之を授与す今光長寺に在るなり、故に富士門徒存知の事に云く御筆の本尊を以て形木に彫り不審の輩に之を授与し軽賤に非るの由諸方に其の聞えあり、所謂日向日頂日春等なり云云、日春形木彫の初なり云云。

1271大勇者:2005/04/11(月) 20:02:46
つづき
「未来本尊」と呼ばれるもののがあったらしいですが、開眼してから入れるのでしょうか?
それとも閉眼してからでしょうか?
ウーン、なんか不思議ですね。

1272犀角独歩:2005/04/12(火) 10:03:33

> 「死人に覆うて葬ける」…有得たことなのでしょうか?

有り得たので文献に載るのでしょうね。

> 御本尊を死者と一緒に埋葬…不自然ではない

これは要するに首題他を記した札が、どんな用途であったのかという点で議論されるべきでしょう。
『富士一跡門徒存知事』の記述は、蓮師御筆がこんな形で損なわれることを憤っているわけですね。しかし、たぶん蓮師は塔婆を書いていたと思われますが、それは残っていません。墓所で風化した末、処分されたからでしょう。しかし、それを興師が怒ったはずはありません。護本尊は小さく畳んで懐中に入れて持ち歩いたそのうちぼろぼろになったでしょう。それを怒る記事も伝わりませんね。
要は記されたものがどんな用途であったのかということでしょう。

> 「未来本尊」

寛師も書いた所謂導師漫荼羅の形木本尊を棺、骨壺に入れるものでしたか。そのような用途でしょう。
棟上本尊というものもあります。板に書かれた本尊です。家を新築し、上棟式の時、屋根裏に打ち付けます。古い学会員で家を建てた人であれば、みな行っていたでしょう。
これを「仏壇に安置しないで屋根裏に置くなんて、とんでもない」というのでしょうか。本来、そんな用途で考案されたものでしょう。

わたしからすれば、今の創価学会の一枚刷りラミネート加工したペラペラビニールの本尊や、まして、携帯本尊は、未来本尊やら棟上本尊以上に異常なものと映じます。しかし、今や石山から独立した学会がどんなことを考案しようが勝手気ままなことです。いわば学会流。ただし、それが「日蓮大聖人の精神に叶う」などと言えば、大笑いするだけです。

同じように、未来本尊、棟上本尊はもちろんのこと、仏本尊として漫荼羅を仏壇に安置することまで、わたしは蓮師には遡れないと考えています。すべては滅後の弟子の考案工夫、わたし流に言えば、「改変」であったのでしょう。それが善いか・悪いかの判断を蓮師に求めないのであれば、あとは自分が所属する集団・指導者の打ち出しに追従するばかりと言ったところでしょうね。

1273 ◆tsQRBnY96M:2005/05/29(日) 18:47:11
おや、このスレは止まっているのかな。

1274 ◆tsQRBnY96M:2005/05/29(日) 18:50:12
開眼供養を、世間の常識で測ってはいけない。

達磨に目を入れるのと同じレベルで論じるものではない。

1275管理者:2005/05/29(日) 20:12:33

◆tsQRBnY96M さん

ここは、議論のためのスレッドです。貴方の考えの結論だけ書いても、実りは無いと思います。主張をされるのなら、その主張の根拠を示されると良いと思います。根拠を示さずに結論だけ書いても、掲示板の参加者には「独善」としか映らないと思います。前向きに議論をお願いしたいです。

1276小心者:2005/06/16(木) 21:50:37
1274 さん、、ごもっとも、。  だるまに目を入れる、、??、、同じレベル、、?? 
も御存在のようです、、ネ、??  しからば、、べつの面も御存在をば、、御確信の御言葉、、かと、、存じます、?bそれにしましても、、ずいぶんと、御肩を怒らして、、ては、、御ざいませんでしょうか、?
 小生は、、このような、、力で圧殺する、、ような言動に因りまして、、自殺寸前まで余儀なく、、された、、者の一人、、です、。
 前向きな御提言を、、?? お願いします、。

1277きゃからばあ:2005/06/17(金) 16:53:36

独歩さんのブログに、中尾尭さんのことが記載されていました。
そこで以前、国立博物館の『大日蓮展』で記念講演をされたことを思い出しました。
当日、私は一番前の列のド真ん中の席に座っていましたら、開演前に壇上から降りてこられ、とてもやさしい笑顔で語りかけて下さいました。
そして、私が持参してきた本『ご真蹟にふれる』(中尾尭著)にサインをお願いしたら、筆にて御署名してくださり、とても良い思い出となりました。
いつの日にかもう一度、講演を聴いてみたいと思っていましたが、独歩さんが聞かれたと知り、うらやましく思います。

さて、当時も感じていましたが、この『ご真蹟にふれる』の中にも紹介されている岡宮の長光寺の大漫荼羅ですが、28枚継ぎで、高さは243.9cmであります。
大石寺では、その1年後に板漫荼羅が建立されたとしていますが、高さは約144cmであります。
もし後世に、そして本門の戒壇に安置するなら、長光寺の大漫荼羅より、なぜ小さいのでしょうか?
どうしても大勢に拝ませようとした気がしないのですが?

1278犀角独歩:2005/06/18(土) 08:34:35

きゃからばあさん、お久しぶりですね。

中尾師の講義は、ここのところ、毎月のように聴講する機会があり、そのたびに、「おぉ」と思う話が聞けます。上杉清文師が所長、渋澤光紀師が事務局を務める福神企画の賜物です。元々は三学無縁師の紹介でお会いしたのですが、師二人の人間性にも、いつも学ぶところがあります。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/21732903.html
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/25499393.html

今回は、かなり貴重なデータ、並びに写真も拝見でき、漫荼羅調査、補修の実際に、ほんの少しながら触れることができ、たいへんに勉強になりました。また、正確に2分の1に縮尺され、軸装された、通称「臨滅度本尊」が奉懸された講義は、なかなか圧巻でした。

漫荼羅の鑑別でもっとも重点が置かれているのが、紙質であり、その繊維組成写真も見ることができました。「日蓮聖人のお漫荼羅は国宝のように扱う」とは、中尾師の言ですが、このような鄭重な姿勢が後世に蓮師遺物をよりよく伝えるものとなっているのだろうと思います。

やや余談ですが、当日、日蓮真筆と言われる御妙判断片を持ち込んだ方があり、講義終了後、公開でその鑑定を行われました。中尾師は「なんでも鑑定団みたいですね」と冗談を言いながら、箱の開け・閉め、古文書の扱い、保管の仕方まで懇切に説明されながら、一目で、古文書を読み上げ、書の題名も言い(特定を避けるためにここには記しません)「これは複製です。ただし、複製だからといって駄目だということではありませんよ。複製には複製の意味があります」と、心優しいフォローもしながら、軸を巻き箱にしまわれるまでの一部始終を拝見しました。これまた、実に貴重な経験となりました。

中尾師の講義からは離れますが、光長寺蔵第58大漫荼羅の縁起は石山の、当時の彫刻本尊(御前立本尊?)の相貌を伝える『当家所門流継図之事』(宗全史伝旧記部1-P153)に載るようです。また、れんさんのお叱りを受けそうですが、この全書を手元に置いていないために、いまは確認していません。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/057.html

また、この大漫荼羅にはいくつか特記するところが多く、山中師『御本尊目録』(P98)を手がかりに古文書を散策すると楽しいだろうと思います。それにしても同じ光長寺蔵第65大漫荼羅は大きさはその半分ながら、讃文が全同でありながら、しかし、授与者が違うというのは、まさに山中師が「一奇」と嘆じた追体験をする気分になります。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/065.html

実に243.9×124.9センチもある大幅の、それも紙幅直筆の大漫荼羅、板に彫ったレプリカとは比すべくくもありませんね。直筆と彫刻、さらにパッチワークと臨模作為の彫刻作品と、真筆は違います。
ま、そんなことはきゃからばあさんに今さら申し上げることでもありません。

1279きゃからばあ:2005/06/18(土) 09:04:18

独歩さん、おはようございます。
中尾尭さんのお人柄が浮かんできます。
御本尊や御遺文などの真筆を、直接手に取られ、さらにスラスラとその古文書を読んでしまう素晴らしさに、心からあこがれてしまいます。
これはすべての宗派の僧侶と呼ばれる方々には、ぜひ見習って欲しいものです。

ところで板漫荼羅ですが、チョウナで削ったようなザラザラした面に、直接、筆でしたためた場合、紙のように滑らかに筆が進まないように思えるのですが、どうなのでしょうか?

1280犀角独歩:2005/06/18(土) 09:25:17

きゃからばあさん、おはようございます。

> 板漫荼羅…チョウナで削った…ザラザラした面…直接、筆でしたためた場合、紙のように滑らかに筆が進まないように思える

まったくそのとおりではないでしょうか。
また、そんなことは製作工程からして考えられないでしょうね。
文字原図は紙に記し、それ自体が複製できるものでなければ、制作は不可能でしょう。
削れば、直ちに文字は消えてしまうわけですから、その位置を原図を当てながら、何度も確認し、時にはさらに書き写し、進めていくのが彫刻の作業でしょう。
近代石山やら、顕正会のアナウンスでは、当初から漆塗りであったとするのか、金箔文字であったような論調のようですが、そのような彫刻の制作過程は、もっと複雑でしょう。漆が乗るようにするためには下地を整えるわけですし、板書したものを彫って、漆を掛けて金箔も張れる、そんなことは、無理な話であると、わたしには思えます。

もっとも石山の彫刻は禅師授与漫荼羅の文字を使い、その他、不動・愛染などは、熊田本の写真で見ても明らかな他筆、きゃからばあさんが立てた疑問は、どだい、当てはまらないものであると思います。

1281大勇者:2005/06/18(土) 09:45:55
>1278
独歩さん。 どうもです。
光長寺蔵第58大漫荼羅について、概出でなければ、教えて頂きたいのですが・・・

「熱原の信徒の為に持ち寄った紙に筆した」というのは伝説の類でしょうか?
以前から気になっていたのですが、調べようがなかったもので・・・質問させて下さい。
お願いします。

1282きゃからばあ:2005/06/18(土) 09:58:43

もうひとつお伺いします。
板漫荼羅の下の脇書「右 為現当二世造立如件 / 本門戒壇之願主弥四郎国重 / 法華講敬白 / 弘安二年十月十二日」について。
日付を見れば、太歳の無いこと、月日が2行であること、などから興師の文字であると思われますが、「右 為現当二世造立如件」の「右」とはどういう意味なのでしょうか?
もしかして板漫荼羅の右側に何か別のものがあり、それを指しているのでしょうか?
そしてその何かを証明する御本尊として板漫荼羅が作られたのでしょうか?
しかし現実として大石寺にそんな話がないことから、意味の無い想像であることは間違いないですが…。

1283犀角独歩:2005/06/18(土) 10:47:58

大勇者さん

> 熱原の信徒の為に持ち寄った紙に筆

恐縮ながら、わたしは、この点は、資料を何も確認していません。
追って、では調べてみます。

ただ、ご投稿を拝見して、「持ち寄った紙」というのは、実にヒントになりました。
中尾師は、漫荼羅料紙は、揮毫を望む側が紙を供給した点を挙げていました。
この説と併せると、光長寺大漫荼羅が28紙の、それも大小様々な紙を継いだということは1枚1枚普請者が異なっており、その総意で漫荼羅図示を願ったということもあるのだろうかと想像を逞しくしました。尤も是はわたしの勝手な憶測です。

この大漫荼羅に関して、山中師が挙げている資料は以下のとおりです。

『見聞愚案記』3巻18丁
『当家諸門流継図之事』宗学全書史伝旧記部第1 P153
『本化高祖年譜』19丁・47丁
『高祖年譜攷異』中巻14丁・下巻39丁

残念ながら近代デジタルライブラリーにはいずれも所蔵されていないようでした。
http://kindai.ndl.go.jp/index.html

1284犀角独歩:2005/06/18(土) 10:48:24

きゃからばあさん

> 右

この1文字については、三学無縁さんともかなり議論したことです。
果たして、文章を書き出す慣用語として置かれた冒頭語なのか、あるいは、右に文章、もしくは記名があるのか、結論が出ません。

いずれにしてもこの文は「造立如件」で始まり「敬白(敬って白(もう)す」で終わるわけですから、彫刻を作った願主の言葉であることは間違いありません。これが蓮師が記したとすれば、蓮師は檀那に敬って白すと下位から述べたことになるからです。こんな筈はなく他の大漫荼羅にあるとおり、授与という上位からの図示に決まっています。

仮に何か文章があるとすれば、彫刻者(仏師)の名前ではないのかと考えても見ました。つまり、依頼をされた彫刻の造立は、このようにできました。本門戒壇の願主である弥四郎国重・法華講衆等に敬って白(もう)し上げます。そして、その名前は消え去った…。けれど、こうなると、弥四郎国重に尊称が記されないわけはないので、こうも言えないだろうと思えます。

三学無縁さんは「この文章もどこかから持ってきて張り付けたのではないのか。その際、右の字もそのままになったのでないのか」と想像を述べていました。

なお、日付の「大歳」を欠く書き方は、たしかに興師の在り方です。そのことから、流伝のとおり、わたしもこの字は興師であろうと想像してきましたが、しかし、単に興師の書き方を倣っただけの他筆とも考えられますね。

1285きゃからばあ:2005/06/18(土) 15:14:00

独歩さんへ。

>三学無縁さんは「この文章もどこかから持ってきて張り付けたのではないのか。その際、右の字もそのままになったのでないのか」と想像を述べていました。

もし、偽物を作る場合、いかにも不自然な文字は、製作時に消すと思われますがいかがでしょうか?
とはいえ、「右」の一文字で本物と証明する武器にはなりませんが…。

それと気になる点がもうひとつ。
以前、御開扉で板漫荼羅を拝見したとき、花押の右側に小さな文字を確認しました。ただ小さすぎて判読できませんでしたが、独歩さんは何かご存知でしょうか?

とにかく、オフ会でさらに詳しくお伺いしようと思いますので、よろしくお願いします。

1286犀角独歩:2005/06/19(日) 08:03:22

きゃからばあさん:

> いかにも不自然な文字は、製作時に消す

なるほど。しかし、憶測でものを言えば、これが何かの文書の転載であった場合、「右」の字を消すと字配りがアンバランスになれば、そのまま残す、また、特別な意義があったとすれば残すことになるかも知れません。もちろん、これは憶測に過ぎませんが。

まあ、わたしは善意に考えて、「右〜敬白」という慣用文の冒頭語であると、いちおうは思っています。

いずれにしても「敬白」とある以上、蓮師の文であるはずはなく、「本門戒壇願主」と言うも、国主ではなく、また、「本門戒壇」と記されているから言って、本門本尊というわけでもないわけですから、石山のアナウンスは、伝承以上の意味は持たないでしょう。まして、彫刻であれば、真筆云々と論じることはナンセンスと言うほかありません。

まあ、詳しくはオフ会でお話したいと思います。

1287彰往考来(しょうおうこうらい):2005/06/21(火) 07:13:46

>1281大勇者さん、1283犀角独歩さん

第五七番御本尊について「当家諸門流繼圖之事」(『』日蓮宗宗学全書 第18巻 史伝旧記部(1)、昭和43年第3版(初版昭和34年)、山喜房仏書林、153頁)には「二十八枚續ノ大漫荼羅之事、 二十八人ノ檀那衆一枚宛白紙ヲ持参シ奉リ御本尊ヲ所望申ス、而ニ大聖人ノ仰セニ只一軸ニ有テ然可、即二十八枚ヲ一幅ニ御書ス」とあります。

また第五七番御本尊についての『本化高祖年譜』及び『本化高祖年譜攷異』の記載については『棲神 第65号』(平成5年、身延山短期大学会)の上田本昌師による「日蓮聖人後期の曼荼羅について(1)」と題する論文の32頁にある記載を以下引用します。引用にあたって、レ点と一二点は書き下し文にし、引用文献は文中に記載しました。

「次に十一月二十一日付けの大曼荼羅が沼津市岡宮の光長寺に所蔵されている。丈が二四三糎、幅が一二四糎という最大の御本尊で、第五七番目に当っている。「優婆塞 藤太夫 日長」に授与されたもので、左下の花押のそばに小文字で記されている。大小二十八枚の紙をつなぎ合せたこの大曼荼羅は、首題と四天王が紙幅一杯に大書されており、諸仏諸尊は首題に比較して細字である。この優婆塞藤太夫日長なる人物が、如何なる人であったかは不詳であるが、伝承によると「古く甲州南都留群小立村妙法寺に護持せられたもので、同村の渡部藤太夫に授与したもう」(『御本尊集目録』87頁)といわれている。従ってこの曼荼羅の授与者は小立村の住人ということになろうか。『高祖年譜』によると、弘安三年十一月の項に「二十一日二十八紙ヲ接テ本尊ヲ筆メ、渡部藤太夫ニ授ク。」(『高祖年譜』四七)とあり、『攷異』では渡部藤太夫について、「法名日長、甲州鶴郡小立村ノ人、子孫今尚蕃昌ス」(『高祖年譜攷異』下三九)と記している。この弘安三年については「あきらかに訛伝である」(引用者注:原文には引用文献の記載がないが、『御本尊集目録』87頁に同記載がある)とされている。「元年」を「三年」と見あやまったものと考えられる。また『年譜』によると、文永六年の項の中に、聖人が法華経の全帙を書し、「以テ富嶽ノ半嶺ニ瘞ミ以テ後世流布ノ之苗根ト為ス、世経嵩ト名ク、環路小立村ヲ過ル本尊乞者二十八人、乃チ書シテ而授焉、」(『高祖年譜』一九)とあり更に『攷異』では、この本尊に関して「文永六年木立ニテ本尊ヲ求ル者、二十八人各一紙ヲ供ス、大士接テ一幅ヲ為書ス焉、是ヲ岡ノ宮大曼荼羅ト称スト」(『高祖年譜攷異』中一四)とあり、「後弘安三年十一月廿一日初廿八幅ヲ火テ墨ト為以新ニ廿八紙ヲ接テ一幅ト為、以本尊ヲ書廿八人ニ代テ以渡部藤太夫ナル者ニ与、健岡宮ニ如キ寺主ニ問ニ土人ノ語ノ如シ、而ニ本尊ヲ火コト信難、恐ハ忘伝カ耶、」(とも伝えられている。いずれにしても二十八紙に図顕されたという大曼荼羅であるため、それにまつわる由来も生れていったものと考えられるが、渡部藤太夫とその人にまつわる人々が、共に聖人の信徒として存在していたことは間違いないものといえよう。尚、「藤太夫の斉藤兵衛」なる者もいて、信仰は相続されていったものの如くである。但しこの御本尊が如何なる由来によって岡宮へ伝えられていったかについては不詳である。(後略))

「当家諸門流繼圖之事」、『本化高祖年譜』及び『本化高祖年譜攷異』には大勇者さんが1281でおっしゃっている「熱原の信徒の為に持ち寄った紙に筆した」というような記載はありません。伝説の類でしょうか。紙を持ち寄ったという記載はありましたが熱原ではありません。

彰往考来(しょうおうこうらい)

1288犀角独歩:2005/06/21(火) 09:22:20

彰往考来さん、有り難うございました。

調べる手間が省けました。
やはり、紙の持ち寄りという想像だけは合っていたわけですか。なるほど。
しかし、2メートル以上もある大漫荼羅、その用途は、判然としませんね。
何であったのでしょうか。

1289大勇者:2005/06/22(水) 00:21:31
彰往考来さん、犀角独歩さん

有難うございます。

もう一つ気に掛かる事があります。愚問かも知れませんが・・・
此の曼荼羅の愛染についてなのですが、L字型に筆が運ばれ、その下に隙間が開いている様に見えます。
この写真でも、やはり隙間が見えます。
http://www.spy.or.jp/SINPOU/108/032renge.htm

紙の凹凸に依るものなのでしょうか、御意見を御聞かせ頂ければと思います。

1290パンナコッタ:2005/06/22(水) 00:38:23
第五十七番の正面画像は
http://www.lbis.jp/gohonzon/057.htm

ちょっと愛染に隙間がある見たいですね。

1291犀角独歩:2005/06/22(水) 09:59:29

大勇者さん
パンナコッタさん

第57大漫荼羅の輪郭を妙法寺サイトの写真を正面に加工して重ねてみました。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/no57daimandara.JPG

1292きゃからばあ:2005/06/22(水) 10:49:02

大勇者さん、パンナコッタさん
こんにちは。

もし間違っていたらゴメンナサイ。
漫荼羅の右の梵字は不動明王だったような…?
隙間とは、左の梵字のことですか?

1293パンナコッタ:2005/06/22(水) 11:17:58
左側の梵字です。 β みたいな棒と ち みたいな上の部分の間のことです。

1294きゃからばあ:2005/06/22(水) 16:12:13

パンナコッタさんへ。

確認できました。ありがとうございました。

1295彰往考来(しょうおうこうらい):2005/06/23(木) 21:14:07

>1289大勇者さん

貴1289でのご質問は、当スレッドの内容とは異なると思いますので、「蓮祖及び門下の曼荼羅について」のスレッドに私見を投稿しました。

彰往考来

1296犀角独歩:2005/06/30(木) 15:52:23

いま、三学無縁さんにお会いし、正本堂建立時、彫刻本尊が奉安殿から正本堂に移る際の記録写真を見せてもらいました。

蓮台に乗った彫刻本尊は間違いなく板で、半丸太ではありませんでした。
正本堂に入れられた彫刻は、板だったのです。
いったい、細井さんのあの説法は何であったのでしょうか。

1297れん:2005/06/30(木) 17:44:48
犀角独歩さん、彫刻は達師の云う半丸太ではなく板だったのですか!法主であった達師が石山における信仰の根幹に係わるモノである彫刻について「事実」と相違することを言っていたことは、ただただ理解に苦しむのみです。話は変わりますが、摂折板の一連の投稿を拝して、折伏病は学会をはじめとする石山系の宿痾と思いきや、さにあらずして広く蓮師門下の中に根深く存在していたということを改めて思い知らされました感じです。私自身、蓮師の真蹟を読んで思うことは、弘安の晩年は観心本尊抄に記した賢王折伏(ネハン経に基づく折伏)を捨て去り、ただただ「不軽菩薩の利益」(真蹟・諫暁八幡抄第四十六紙末尾)に徹し、門下にもそれを遺命した如くに見えます。「不軽菩薩の利益」は独歩さんが示された如く摂受に属するのであり、後世の如く「不軽菩薩の利益」を折伏に配するのは間違いと思います。また、このような蓮師“門下”の折伏観の理解の根底には顕正居士さんが示された如く、フビライによる元冠が失敗におわった歴史上の事実の影響によるところが大きいと思いました。

1298問答迷人:2005/06/30(木) 18:24:31

犀角独歩さん

>蓮台に乗った彫刻本尊は間違いなく板で、半丸太ではありませんでした。

達師が嘘を言ったとは考えにくいので、正本堂に安置された彫刻本尊は、御宝蔵から奉安殿に移された歴史を持つ彫刻本尊ではなく、そのレプリカであったということでしょう。

現在も御宝蔵、或いは別の場所かも知れませんが、何処かには、半丸太の彫刻本尊が納められているのだと思います。

それにしても、大石寺は本当に妙な事をするものだと思いました。

1299犀角独歩:2005/06/30(木) 20:35:46

1297 れんさん

そうなのです。どう見ても、奉安殿から正本堂へ彫刻を運ぶ御遷座の写真は、間違いなく板でした。

不軽菩薩のこと、蓮師のこと。まったく仰せのとおりであろうと存じます。

単に「折り伏す」とするのは雑駁なのですが、折伏というのは折り伏すという結論を述べる単語であるのに対して、摂受とは摂し受容し続けるという進行形です。つまり、前者の場合、降伏、信服、もしくは斬首断罪という結論とならない限り、折伏とは言えません。それに対して、摂受は相手が、どのような段階にあってもそれを受け容れる側の延々とした進行形を意味します。この意味において、蓮師の一生を見れば、そのどちらに契当するかは一目瞭然であろうとわたしには思えます。顕正居士さんもご指摘されたとおり、蓮師的な視点からすれば、隣国賢王の折伏は、その結論を見ることはなく、しかも、蓮師の予言は外れ、蓮師に拠らず、法華経にも拠らなかった日本は亡びることはありませんでした。しかし、それでも晩年、身延に隠棲した蓮師の摂受はその最期まで信仰であったと拝察されます。


1298 問答名人さん

> 奉安殿に移された…レプリカ…何処かに…半丸太の彫刻本尊が

けっきょく、そのようなに考えざるを得ないと言うことなのでしょうか。あの細井説法で池田さんに裏側の手斧削跡を見せたと言いますが、この話はなんであったのでしょうか。

オフ会に問答さんがお出でにならないのは残念ですが、次回は、この彫刻につき、敢えて証拠を可否を問わず、どんなことが言われてきたのかを三学無縁さんによく話していただこうと思っております。
なお、彰往考来さんからは第93漫荼羅に掛かる比較研究をいただく予定となっております。このレジュメはまた送付させていただく所存です。

1300ラキ:2005/06/30(木) 21:12:24
>蓮台に乗った彫刻本尊は間違いなく板で、半丸太ではありませんでした。
驚きですが、昨夜たまたま、正信会のHPで下記の文面を見つけました。


http://nakanihon.net/nb/tozann.html

「登山について」の五、に
「大石寺九世・日有上人(祖滅一三八〜二〇一年)は、各地を旅して歩きました。
大石寺は留守がちでした。特筆すべきは、日有上人の留守中に、留守番の僧侶が大石寺を売ってしまい、帰山した日有上人が大石寺を買い戻したという事件がありました。
さらにこれは伝説ですが、戒壇本尊を略奪しようとする者があったので、日有上人は戒壇本尊の身代わりとして紫宸殿本尊を模刻し、戒壇本尊を駿東郡に避難させたという事件があったそうです。」

1301犀角独歩:2005/07/01(金) 00:52:59

正信会の登山の説明はまるで説得性がないですね。
日蓮本仏、彫刻本尊のまともな考証、批判も出来ない正信会はお話になりません。

> 戒壇本尊の身代わりとして紫宸殿本尊を模刻

この点は大いに考証すべき点があり、既にかなり語り合ってきました。
戒壇本尊の身替彫刻と詐称「紫宸殿本尊」彫刻は別物であるというのが、いちおう、石山のアナウンスではありませんでしたか。

1302ラキ:2005/07/01(金) 01:52:27
> 戒壇本尊の身代わりとして紫宸殿本尊を模刻
調べ物をしていて偶々気が付いてのですが、独歩さんの書籍を今拝読し終わり、
記載されてました。(^^;

愛染の写真で少し気になったのですが、興師が目師に授与した本尊と、愛染が似てる感じがしたのですが?
オフ会の時にでも、色々気になることがあったので、その時にでもお話します。

1303犀角独歩:2005/07/01(金) 02:00:26

ラキさん

> 興師が目師に授与した本尊と、愛染が似てる

ほお。これは、どの本尊を指すのでしょうか。

1304彰往考来(しょうおうこうらい):2005/07/01(金) 09:45:20

>1299 犀角独歩さん
>第93漫荼羅に掛かる比較研究

2日の予定はちょっと違いまして、主として禅師授与漫荼羅vs第92漫荼羅です。もちろん第93漫荼羅にも触れます。
その流れで禅師授与漫荼羅vs戒壇本尊にも触れます。

彰往考来

1305犀角独歩:2005/07/01(金) 09:53:25

第92ですか。本能寺所蔵漫荼羅のほうですね。
了解しました。勉強させていただきます。

わたしも資料が揃えば、文字の比率比較と天玉の触りは少し話させていただこうと思っています。

1306ラキ:2005/07/01(金) 12:55:16
おはようございます。

独歩さん。
> 興師が目師に授与した本尊と、愛染が似てる
>ほお。これは、どの本尊を指すのでしょうか。

石山の客殿の板曼荼羅です。
紙幅曼荼羅は、お虫払い法要のとき見れるそうです。
何故、愛染が似てると感じたかは、明日のオフ会で説明させていただきます。

1307犀角独歩:2005/07/03(日) 20:12:17

ラキさん

> 石山の客殿の板曼荼羅…紙幅曼荼羅

この紙幅は『日興上人御本尊集』(興風談所)P46に載っています。
不動はともかくとして、愛染は、彫刻本尊とその筆法を異にしています。

1308彰往考来(しょうおうこうらい):2005/07/07(木) 18:05:46

>1302 ラキさん

大客殿の板本尊は興師の正応3年10月13日の紙幅御本尊を富士大石寺第24代日永師の代に模刻したもので、全体の写真が柳澤宏道師の『石山本尊の研究』(平成9年初版、はちす文庫、14頁)に載っています。
なお、紙幅のほうは同書の42頁に写真が載っていますが、同書の写真の愛染明玉は写りが悪くて解かり難いです。すでに犀角独歩さんが1307でご指摘されていますが、興師の正応3年10月13日の御本尊(紙幅)は、『日興上人本尊集』(平成8年、興風談所)の第46頁にも載っていて、こちらの写真は『石山本尊の研究』に記載された写真より全体的にピントがズレているのですが、幸いにも愛染明玉はよく判別でき大客殿の板本尊と同じ形であると解ります。
これらの写真から判断するに、大客殿の板本尊や正応3年10月13日の紙幅御本尊の愛染明玉は戒壇本尊の愛染明玉と同じ形であるとは言えません。違う形です。

なお参考までに、『日興上人本尊集』の5頁には「諸(引用者注:能勢順道編『諸記録』)七−二九二頁によると当本尊(引用者注:興師の正応3年10月13日の御本尊)の形木が栃木信行寺に所蔵されている」とあります。

1309ラキ:2005/07/08(金) 23:57:18
ご本尊集は持ってないのです(><)
値段が高いし・・・(^^;
客殿のご本尊の愛染を似てると感じたのは、渦巻きナルトみたいクルクルが印象的だったからです。
いままで、他のを拝見した事がなかったので。

余談ですが、古書検索していたらご本尊の売りがあり、35万て値段が付いてました。

1310犀角独歩:2005/07/09(土) 08:10:19

ラキさん、1309の件、「素朴な疑問」スレに答えてしまいました。
そちらをご参照ください。

なお、「日蓮聖人のお曼陀羅」と称するものは、年がら年中、ヤフーその他のオークションに出ていますよ。
日蓮宗の坊さんの書いたものもよくあります。
以前は、神田の古書店の2階に特設会場があって、いくつか展示されていましたが、いまはないでしょうか。

1311ラキ:2005/07/09(土) 14:14:39
独歩さん。
先月私が行ったときは、展示販売はされていませんでした。
信仰の対象から、美術品になってきてる感じがして複雑な心境です。

1312彰往考来(しょうおうこうらい):2005/07/11(月) 07:11:29

>1309 ラキさん

確かに御本尊写真集などが高額なのは事実です。8万円程度するものもあります。
その中で柳澤宏道師の『石山本尊の研究』(平成9年初版、はちす文庫)は神田の東洋堂で2620円だったと思います。
これが高いかどうか議論が分かれるかもしれませんが、この程度の価格であれば手が届くでしょう。
戒壇本尊の相貌について議論するのであれば石山歴代の御本尊写真をみてから、ご自身の意見を述べられたほうがよいと思います。その意味で上述の本は手頃でしょう。最低でもこの程度の本は手元におかれたほうがいいですよ。

1313ラキ:2005/07/11(月) 13:01:30
彰往考来さん。

>柳澤宏道師の『石山本尊の研究』(平成9年初版、はちす文庫)は神田の東洋堂で2620円だったと思います。
古書店検索には、引っかかった事がないです。
ヤフーオークションで6千円ちょいで見かけましたが、売却済み。
どうしても欲しい本なら5千円ぐらいでも購入はします。
3全円前後なら、普通に購入は出来る価格ですね。
今度、神田に行った折には探してみます。

1314彰往考来(しょうおうこうらい):2005/07/11(月) 15:27:56

>1313

そういう状況ですか。東陽堂(東洋堂は誤記でした)でも売れて
しまったかもしれませんね。

1315ニセ本尊を糾弾する会:2005/07/13(水) 16:31:21
>>1298
[>蓮台に乗った彫刻本尊は間違いなく板で、半丸太ではありませんでした。]
変ですね。
わたしは、現場で運ばれるところを見ましたが、かまぼこ型でしたよ。
その写真、真上からのものではありませんか?

1316犀角独歩:2005/07/13(水) 17:31:25

どなたか存じ上げませんが、

> 現場で運ばれるところを見ましたが、かまぼこ型

どこで、どのような状態でご覧になったのでしょうか。
もう少し詳しくお聞かせ願えませんか。
「遷座」の際は、布がかぶって本体は見えない状態ですが、「かまぼこ型」というところまで、見られたとすれば、厨子から下ろしたとき、新しい厨子へ安置するときしかありません。その場に居合わせたと言うことでしょうか。

また、ご覧になったというのであれば、教えていただきたいのですが、仰る「かまぼこ型」というのは反丸太ということでしょうか。また、裏面はどんな状態でしたか。何か塗料がかかっていましたか、それとも苦の素材そのままでしたか、また、その裏には何か細工がありましたか、文字が認められましたか、詳しい情報を、ご投稿願えませんでしょうか。

> 写真、真上

いえ、ほぼ、真横です。

1317犀角独歩:2005/07/13(水) 18:02:07

【1316の訂正】

誤)反丸太
正)半丸太

誤)苦の素材
正)木の素材

1318ニセ本尊を糾弾する会:2005/07/13(水) 23:33:16
本体までは見ていませんが、遷座式に参加したとき、
板本尊を運ぶところを、目撃しただけです。

御輿の上には、板本尊を覆う木の箱がかまぼこ型をしているのが、
布を通してわかりましたよ。

1319犀角独歩:2005/07/14(木) 08:00:53

>1318

重ねての応答有り難うございます。

> 御輿…板本尊を覆う木の箱がかまぼこ型

さらに重ねて問わせてください。お答えいただければ有り難く存じます。この箱は、かまぼこを伏せた形でしたでしょうか。つまり、平面(かまぼこで言えば、板の部分)は地面を向いていたか・空を向いていたかという質問です。お応えいただければ有り難く存じます。

1320犀角独歩:2005/07/15(金) 11:23:41

いま、奉安殿から正本堂、正本堂から奉安堂への遷座の写真を見比べました。

前者は、まず、箱に入っていないようで、さらに、写真からは「かまぼこ型」を確認できませんでした。後者は、箱は真四角でした。

1321犀角独歩:2005/07/15(金) 12:05:29

> 箱は真四角

これは言葉足らずですね。天地が真四角で、縦長ということです。

1322ファリオン:2005/07/27(水) 00:59:45
話が弾んだとこで消えてしまい、誠に申し訳ありません。
PCか逝ってしまい、岩手の田舎なもんで、部品調達に時間が掛かってしまい、復旧に3ヶ月を要しました。

「偶像崇拝の観点からみた大石寺御本尊」に関しては、これから少しずつ意見を述べ、皆様の御批正に曝したいと思っております。

先頃話題に出ておりました「開眼」に関して、石山での記述が有りました。
日蓮正宗公式サイトの「創価学会員への折伏教本」第三章四節に、
「したがって、創価学会が勝手にコピーして作った『ニセ本尊』は、姿や形は日寛上人の御真筆(しんぴつ)とそっくりであっても、御法主上人の許可も開眼(かいげん)もないので、御本仏の「たましい」が込められていない偽物(にせもの)です。」
いまさらですが、「開眼」は仏像の眼を開き、御仏の魂を仏像に入れることだと思います。
石山では、御曼荼羅(御本尊)を仏像と同等に扱っているのだと思っています。

皆様の御高説を賜りたいと存じます。

1323犀角独歩:2005/07/27(水) 05:56:11

「開眼」については、過去には「本尊の開眼は誰が行うのか?」というスレッドが立ち、4年半前から論じられたテーマでした。

http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/kaigen.htm

その後、以下のスレッドで論じられてきました。
議論はやや出尽くした観があります。

・『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
・つぶやきすれっど2
・創価学会の功罪を考える
・創価学会の携帯式本尊について
・創価学会の教義は日蓮正宗と何処がどう違うか
・勤行について
・大聖人のお墓(ご遺骨)はどこにある?
・富士山本門寺について教えて下さい
・本尊と曼荼羅
・本門戒壇の大御本尊様の偽作説について
・池田教ってどんな宗教?
・現在の日蓮正宗の教義について
・生命主義、生命論について
・素朴な疑問
・顕正会って右翼団体?
・顕正会の実態を検証する

> 開眼」は仏像の眼を開き、御仏の魂を仏像に入れること

具体的にいえば、造立した仏像に実際に目を書き入れる法要のこと。
真跡遺文から「開眼」で検索すると以下のとおり

・木絵二像開眼之事「三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり」
・四條金吾釈迦仏供養事「画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし」

*開眼のテーマは、当スレで扱うより、他の適当なところで行ったほうが混乱はない気がします。

1324独学徒:2005/09/01(木) 14:16:19

>お薦めスレッド 308

犀角独歩さん今日は、スレッドをこちらに移させていただきました。

「熊田氏の『日蓮上人』にしか大御本尊の写真が出ていないということなんですけれども、熊田氏の写真というのがですね、あの由井一乗居士という方の『日蓮大聖人』という本があるんですけれども、その御影堂全景の写真のなかからの、拡大してあの本に掲載されていまして。しかも修正が加えられているということはご存知でしょうか」

はい、この発言の検証のために出向いたのですが、お薦めスレッドにて報告致しました通り、熊田氏が手を加えているかどうか、よく見えないので判断できないというところです。

お堂に関しては、とりあえず「奉安殿のようなもの」としましたが、御影堂であれば、板曼荼羅の前に御影像があるはずです。しかし御影像はどこにも見当たらず、御影の入っている宮殿も無く、中央には厨子があり板曼荼羅が写るのみです。
恐らく「御影堂全影」とは、別なお堂と間違えての発言と思われます。

そして、写真集「宗旨建立と七五〇年の法灯」に掲載された、「日蓮正宗聖典」編纂会議の写真(日昇上人を中心に御宝蔵で撮影)と、見比べますと周囲の外観はほぼ一致いたします。
したがいまして、由井幸吉氏「日蓮大聖人」に掲載された写真は、犀角独歩さんご指摘の通り「御宝蔵全影」であると思われます。

複写して持ち帰りました写真は、写真部分に標準をあわせているため、写真周囲に記された文字が全て消えてしまっています。
文字に標準をあわせ、もう一枚複写を願い出て見たのですが、著作権の関係で同じ頁を2枚複写できないそうです。
今となっては、もっとよく見てメモを取ってくればよかったと後悔しています。

1325犀角独歩:2005/09/02(金) 09:42:29

独学徒さん

返レス、有り難うございます。

どうやら、宝蔵全景で落着のようですね。

あと、彫刻本尊写真修正の件ですが、これは実際に為されていると思えます。
ただ、実際に重ねれば中央題目はほとんど一致するわけですから、なぞって明瞭にした範囲であろうと思えます。石山の若僧さんが何で修正をしたことを強調したのか、その意図は憶測の範囲は超えませんが、いうように「熊田氏のセンスで、主題と花押と、あと不動、愛染、四大天王等について修正」したというのであれば、これは“お見事に日禅授与漫荼羅そっくり”に中央の題目をなぞったことになります。おまけに不動愛染の筆の流れ、四大天玉は位置こそずれていますが、その相貌は同漫荼羅に似るわけで、先のオフ会で特にわたしが指摘したとおり、大廣目天玉の天玉は禅師授与の筆法と同じになっています。こんな離れ業を熊田氏がやってのけたというより、禅師授与漫荼羅と彫刻本尊の文字がほぼ重なること、熊田氏がなぞったことの整合性がつく説明は、要するに熊田氏は、まあ、出来る限りで、文字を強調するためにになぞった、だから、もとの彫刻本尊の文字と一致すると見るほうが当然の予測と言うことになります。この点は独学徒さんにもご同意いただけようと存じます。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/27018566.html

ただ、彫刻本尊を拡大すると、文字の線が二重になっているところもあり、また、独学徒さんがご指摘くださったように「南」字“冂”左上肩から、大毘沙門天玉に延びる光明点をなぞっていないといった点も、見受けられます。

ですから、わたしが石山・富士学林の若僧さんに言ったとおり、是非とも彫刻本尊の鮮明な写真を発表していただき、また、石山蔵の禅師授与漫荼羅も併せて発表いただき、この三体を精緻に比較検討したいと思うわけです。

1326独学徒:2005/09/02(金) 12:24:28

犀角独歩さん、今日は。

「あと、彫刻本尊写真修正の件ですが、これは実際に為されていると思えます。・・・「南」字“冂”左上肩から、大毘沙門天玉に延びる光明点をなぞっていないといった点も、見受けられます。」

なるほど、それで「南」の光明点が薄くわかりづらいのですね。

>どうやら、宝蔵全景で落着のようですね。

由井が講頭を務めた、独一本門講により出版されたといわれます、「総本山大石寺真景」にも角度の違った、全景写真が出ていました。
こちらは「御堂の宝前」と写真横に書かれています。同書では御影堂を「本堂」として紹介しており、「御宝蔵」は「御宝蔵」として紹介していました。
なんだかよくわからなくなってきました。「御堂」という名の堂が、かつてはあったのでしょうか。
それとも何かをごまかすために、偽った記載なのか。「御堂」として紹介されています堂の、外から見た建物形は御影堂そっくりに見えます。
このころ御影像が火災等でなくなっていた等の情報があれば、ごまかしも必要だったかもしれませんが、現在のところ迷路に入った状態です。

1327犀角独歩:2005/09/03(土) 12:53:15

独学徒さん

> 御影堂を「本堂」として紹介…「御堂」という名の堂が、かつてはあったのでしょうか

この「かつては」と仰るのは、幕末から明治の頃という意味での記述でしょうか。

日興跡條々事に「大石寺は御堂と云い、墓所と云い、日目之れを管領し、修理を加え
勤行を致し、広宣流布を待つべきなり」とありますね。この時点で、たしかに「御堂」という記述は見られます。

日興跡條々事を日興真筆であると考えるのは石山人ぐらいで、この信憑性は著しく低いと思えます。何より、影本(写真)すら示さずに、真偽を論じる石山の僧侶による真偽論はまったく資料としての価値を有しません。

それはともかく、この書が成立した頃、御堂と墓所はあったということになるのか?と思います。では、この御堂には一体何が安置されていたのか?という点で、納得のいく説明に出会ったことがありません。脈絡からすれば、「弘安二年の大本尊」が安置された堂であった?と読めなくもありません。

しかし、石山では日精以降、御影堂は本堂と認識されていたといって差し支えないと思います。この堂宇は正式名称は本門戒壇堂で、安置は彫刻本尊と御影であったと細井さんは記していました。
独学徒さんに説明を記せば、「釈迦に説法」のようですが、中世以降の日蓮門下寺院では本堂・御影堂が対で建立され、本堂には釈迦立像と相場が決まっていました。
造像撤廃の石山義では本堂は漫荼羅本尊、御影堂は御影像となるわけで、條々事成立の頃、本堂安置は漫荼羅本尊、ところが日精の段階では御影で、本堂の安置本尊に変遷があったことが窺われます。

ここでいう御堂は本堂か・御影堂かと考えさせられますが、由井が記述する頃であれば、やはり、御堂を本堂と考えていたのではないでしょうか。

1328独学徒:2005/09/03(土) 22:30:47

犀角独歩さん、初期の報告に漏らしてしまったことがあります。

実は由井の「日蓮大聖人」では、御影堂を本堂と紹介しています。
また「総本山大石寺真景」でも御影堂を本堂と紹介しています。

そして「総本山大石寺真景」で紹介される「御堂の宝前」は、「日蓮大聖人」の「○○○全景」を別角度から撮った写真と思われます。
また、石山・学林の学僧方は、「御影堂全景」と言っていた。

そして迷路に入ってしまったわけですが、写真集「宗旨建立と七五〇年の法灯」に掲載された、昭和6年の「大石寺境内全図」をよく見ますと、御影堂のことを「御堂」と書いていました。

また関係あるかどうかわかりませんが、能勢師の諸記録第1巻7ページに応師による、御影像に収める「腹篭御本尊」に関する記述があります。
応師の代に御衣替(御色直)があったようです。

全くの憶測ですが、件の写真は「御堂全景」であって、当時の御堂=御影堂の御影像は御色直しに出していたため、戒壇本尊が安置されていたのではないでしょうか。

これも全て私がしっかりメモを取ってくれば、何も悩むことのなかった問題であり大変恐縮です。

手にした画像関係類は今回ご紹介したもの以外にもあるのですが、次回お会いする時には全て持参しますので、是非ご覧戴きたいと思います。

1329犀角独歩:2005/09/03(土) 23:38:10

1328 独学徒さん

やはり、御堂のことは「釈迦に説法」でした(笑)

> 当時の御堂=御影堂の御影像は御色直しに出していたため、戒壇本尊が安置

ほお、これは抜きんでたご指摘ですね。なるほど。説得性があります。
一概に若僧さんの間違いとは言えないわけですね。
となると、かなり、正確な指摘であったわけですね。となれば、彫刻本尊が禅師授与漫荼羅の臨模・作為であることも先刻ご承知なのかも知れません。

> 次回お会いする時には全て持参

これは楽しみです。有り難うございます。

1330独学徒:2005/09/04(日) 19:47:26

犀角独歩さん、

>御堂のことは「釈迦に説法」でした

そんなことは御座いません、何時も一々を学ばせていただいています。
有難う御座います。

能勢師『諸記録』第1巻の御影堂に関する記録では、

一、本門戒壇本堂・・・精師・棟札
二、本尊堂・・・永師・御影堂安置『鶴』『蓮華』(曽存)
三、御堂・・・永師・御影堂経机
四、戒壇堂・・・英師・大鈴
五、御本尊堂・・・元禄年間寄進状

などの呼称がみえまして、その時々の情勢で呼称も色々だったのかと思わせるほどです。

時間がありましたら、図書館でリベンジしたいと思います。
いずれにしましても写真資料等をもとに、皆様のご意見を拝聴したいと思います。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板