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「広宣流布、本門の戒壇」の解釈又は定義について

65犀角独歩:2002/10/10(木) 11:22

先に簡単に整理すると、達師は

a) 身延の本堂には戒壇之漫荼羅が安置されていた
b) 以前は御影堂に戒壇之漫荼羅は安置されていた
c) 客殿の後ろに広宣流布の暁までしまっておく
d) 信徒から願い出があれば御開扉(開帳)する

と、こんな調子で言うことは変わってきています。

a の如く身延本堂に安置されていたというのであれば、秘蔵厳護でも何でもない。
b の如くで、a に同様。けれど、御影堂は信・不信を問わず参詣できた。
c は広宣流布まで見せない(d の意は含むと思われる)
d は信徒なら見せる

という変遷が見られます。では、どれが正解と見るべきなのか。

a の身延本堂安置の本尊が戒壇之漫荼羅であったとしたら、まさにその場所こそ、戒壇堂であったことになるわけです。なぜならば、本堂といい、戒壇之漫荼羅が安置されているからです。

ところで、ここでは30人、多いときで60人の僧俗が寝食を共にされていたわけです。この状況は秘蔵厳護とは言わないでしょう。しかも秘蔵厳護するはずの本尊を本堂に安置するのは、そもそも現石山義と隔たっています。

次に、江戸時代には御影堂にあって誰でも参拝できた。ところがそのあとに御宝蔵にしまわれて、願いがないと見せないと変遷したことが窺えます。この時期はどうやら江戸時代のことのようですが、なんで、こんな措置が執られたのか。たぶん、この段階で用意された理屈が「広宣流布の暁まで秘蔵厳護」ということなのでしょう。さて、この理由は何であったのでしょうか。

また、この時代までの通日蓮門下教学では戒壇論は理壇・事壇の議論であったわけです。簡潔に記せば、漫荼羅安置の場所は理壇、戒壇堂の建造が事壇です。

ところが、御宝蔵に戒壇之漫荼羅をしまい込んだ頃と時期はそう変わらないときにでた寛師は、この理事戒壇論を踏襲しながら、義事戒壇ということを言いだし本門戒壇の解釈を加えます。漫荼羅処住のところはいずこも義の戒壇、けれど戒壇之漫荼羅安置の場所だけが事の戒壇、それも広宣流布の暁に本門寺と改称して天原原に戒壇堂を建立するとき、そここそが事の戒壇と述べていくわけです。

(義事戒壇論を他門で私は知りません。これは単なる私の不勉強によるかも知れません。間違っていれば、ご叱正ください)

たしかにこんな意義を孕ました戒壇之漫荼羅が誰でも見られるところにあっては、なにかと権威が墜ちる殊になるのは頷けます。しかし、人によっては、この秘蔵は要するに御開帳供養を得るためのものであったとも言います。

理屈があるからそうなるのか、現実が先行して理屈がつけられたのか、この戒壇之漫荼羅の扱いの変遷は、その真議論とは別に興味のあるところです。


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