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「広宣流布、本門の戒壇」の解釈又は定義について
59
:
犀角独歩
:2002/10/09(水) 19:48
―58からつづく―
> 伊藤瑞叡立正大教授…
ですから、これは解釈であって原意ではないでしょう。
学者先生が何を言ったから正しいとは限りませんでしょう。
もちろん、どのように解釈し、自分たちに当て嵌めるかは、それは勝手です。
しかし、私が問題にしているのは解釈ではなくて原意です。
ここを取り違えないでください。原意と解釈を同列に並べて、原意はたしかにそうであるけれど、こっちの解釈のほうがいいなどという話をしているわけではありません。
そもそも原意と違う解釈など、何の意味があるのでしょうか。
> 「見宝塔品」の教勅が「正法五百年の次の五百年間」の弘通を命じているだけで、遠い将来世の弘通を募っていないとは云えないでしょう。
そんなことは私は一言も言っていませんが。誤解されておりませんか。
> その遠い将来世に渡って広宣流布すべきであるというのが、法華経全体に流れる真意でしょう。
これは、その通りであると思いますが。私はその点に何等異論を記しておりません。
> 「薬王菩薩本事品」に「正法五百年の次の五百年の期間において広宣流布すべし」という原意あっても、その真意は「正法五百年の次の五百年の期間」だけの広宣流布を望んでいるだけでなく、遠い将来世に渡って広宣流布すべきであるという事が真意であると読むべきだと思います。
どのように読むかは、それは読者の勝手でしょう。
しかし、問題にしているのは原意です。
> ゆえに「そんなことからも、この「50(500)年」は末法の始めの500年とはまったく無関係であると私は思います。」と云う犀角独歩さんの見解には首肯できません。
私は川蝉さんの原意と解釈のうち、「解釈のほうを優先する」、その読み方が納得できないわけです。解釈であればなんとでもいえるわけです。
たとえば創価学会は「自分たちは仏意仏勅の団体である」というのです。日蓮は本仏であるというのです。板漫荼羅は生きた日蓮であるというのです。そう解釈するのは勝手です。この解釈者はもちろん石山・寛師です。しかし、これが正しいかどうか、それは解釈によっては決するべきではありませんでしょう。厳正に原意を見るしかないことです。私が、ここの議論で解釈論争を避けるのは、そのような理由です。
> 「薬王菩薩本事品」を広宣流布することは、事実上「法華経を広宣流布すべし」ということです。
このように断定できるのは解釈だけでしょう。
そのような自覚で法華経を信奉され、弘通されるのはご勝手です。しかし、それを恰も原意である如く記すべきではないというのが、私の言わんとすることです。
> その法華経の中に、上行等が弘通を誓っている…
ここからはまるで私の立てた問題定義とは全然関係のないことを論じられていますね。
私が言っていることはそんなことではありません。何で薬王品の50年(500年)が仏滅後2000年から2500年を指したことになるのかという点です。
どうしてなると川蝉さんはお考えになるか、それはまた解釈に拠るわけでしょう。結局、法華経の原文・原意からまったくそんなことは言えないわけです。
それとも法華経のなかにインド応誕の釈尊の滅後2000年から2500年の内に広宣流布と書かれているとでも仰るわけですか。
原意と解釈、さてどちらが真実か、私は解釈に拠らず、原意を見ることによって実像というパンドラの箱を開けてみようと思うのです。
この点では川蝉さんとは、交わる点は何もないかもしれませんね。
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