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「広宣流布、本門の戒壇」の解釈又は定義について
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:
犀角独歩
:2002/10/07(月) 18:21
川蝉さん
ご丁寧なご説明、有り難うございます。
私の文章がまずいこともありますが、基本的に私が考えていることと違っていないことを記されてお出でなのであろうと拝察しました。
聖人は妙法蓮華経と本尊を、広く宣べ流布したから、ご自身が説かれた末法の始め500年を成就したというのが私の考えです。その先駆けのお一人であらせられた。その意味での聖人が広宣流布したと記したわけです。
ただ、聖人が述べただけでは、終わってしまいますから、その後、永遠に弟子達が広く宣べ流布しなければその法灯は消えてしまう、その点を私は「無令断絶」に見るわけです。
ですから、仰るとおり、広宣流布は常に現在進行形であろうと思います。
第一、人間の寿命など100年を越えません。つまり、100年すれば人はすっかり入れ替わってしまいます。仮に日本国一同に題目を唱えたとしても100年ということになりますものね。これは国王が法華経を持(たも)って同じことですね。事檀が建立されても、同じことが言えるわけですね。まさに「伝持の人無ければ猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」ですね。
ところで、私がこの日蓮教説に限ったあとに、さらに展開の段階で問おうと思った文章を川蝉さんが引いてくださいました。
岩波、岩本師訳「最後の時・最後の折り・最後の五十年の経過している間に、このジャンブ=ドブィーパに行われて、消滅しないように」
この「五十年」を川蝉さんは、どのような解釈されてお出でですか。
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