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「広宣流布、本門の戒壇」の解釈又は定義について
48
:
顕正居士
:2002/10/06(日) 20:03
広宣流布
末法の始めの五百歳に上行菩薩が出現し、寿量品を中心にした法華経がその
五百歳の中に南閻浮提に広く宣べ伝えらるであろう、が日蓮の基本的の信念
であったでしょう。
「我が滅度の後、後の五百歳の中に、広宣流布」は釈尊から500年後の法華経
の作者が仏に仮託して云い、法華経が作成された時を指す。日蓮は五番目の
五百歳と解釈するが、趣旨は同じく日蓮の時代を指す。日蓮は基本的には
上行菩薩の先駆者であると称するが、彼の時代に広宣流布の基いが出来れば、
上行菩薩自身と云ってもよいであろう。それは彼が法嗣を決めなかった理由
でもあるだろう。最澄ではなく義真が初代の天台座主になったように、高弟
の誰かに期待したのだろう。広宣流布の基いはその範囲の時間と考えられる。
日蓮によれば、彼をさかのぼって三国に三師がある。釈尊は在世にマガダ国王
の帰依を受け、智者大師も然り、最澄のみ滅後に、義真に戒壇勅許、天台座主
補任があった。広宣流布とは教法が権威的に流布することであり、そんなこと
は時間がかかってなるものでない。幾百年経過してなるのは王朝文学のような
社会文化の結実である。日蓮宗は実際に広宣流布し、16世紀には日本の人口の
半分が信者であった。しかし、彼らは門徒間闘争に明け暮れ、建設性を有せず
腐敗堕落し、日本の独立と安全を脅威する勢力であったので、信長公、秀吉公
によって邪教とみなされるに至った。
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