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「広宣流布、本門の戒壇」の解釈又は定義について

129犀角独歩:2009/07/19(日) 08:29:55

ここのところ、「国立戒壇」ということが話題になっていますので、いくつか整理を。

記すまでもなく、「国立戒壇」は田中智学の造語であり、いわば、その発生は日蓮宗(僧侶)でもないということです。しかし、戦前はこの影響を日蓮門下は強く受け、もちろん、大石寺もその例外ではなかったことは周知の事実です。牧口常三郎氏の確たる文献は思い出せませんが、戸田城聖氏は確実にその思想を有し、池田大作氏も戸田氏の遺志を継いで「正本堂」建立を目指した時点では、有していたでしょう。

ここのところの投稿の主張を見ると、あたかも大石寺が「国立戒壇」を目指す団体のような論調ですが、67代の日顕氏は、登座以前に『国立戒壇の誤り』を書いて、これを大石寺は、公式見解としたわけです。田中智学にはじまる国立戒壇思想を、ここに完全に捨て去りました。

では、中世、大石寺において、国立戒壇思想があったのか。そもそも、その言葉がないのに、そうした議論はナンセンスですが、敢えて記せば、当然のことながら、富士宗学要集全10巻中に「国立」の引用はただの1カ所もありません。

上古における日興の『申状』を見ても、戒壇建立を意図する文面は見いだせません。では、戒壇建立の遺志がなかったかといえば、日興の影響を受けたと目せるいくつかの文献には戒壇建立に係る記述が見いだせます。

では、日蓮に土地建物としての戒壇建立の意図があったかと言えば、これはあったでしょう。

『法華主取要抄』の草案である『取要抄』では、

雖然 伝教大師 天台所存所残一事得此之上 天台未談之迹門円頓戒壇始日本建立之 仏滅後千八百余年 月支漢土日本無レ之 第一大事秘事也

と、ここに「迹門…戒壇」というのは、自説である本門戒壇との追であることは、疑う余地はありません。

もちろん、この自問自答は

問云 天台伝教不弘通法花経乎
答云 本迹二門広与略弘通之 要一法不令流布知之

といい、『曽谷入道許(がり)御書』にいう「一大秘法」ではあるでしょうが、前文において「像法中…但以迹門為面以本門為裏」と言う以上、但以本門為面以迹門為裏ことが末法であることを意図しているのでしょう。

では、土地建物としての本門戒壇思想を日蓮が有していたか。この点については都守基一氏は

「本門の戒壇については、従来聖人自身による説明がないために、あるいは理の戒壇、即是道場の戒壇という理解も行われてきた。しかし以上の文脈による限り、本門戒壇とは伝教大師が叡山に建立した迹門円頓戒壇に続いて、末法の時代にどこかに建立されるべき事相の戒壇の意であると理解するのが自然である」(『大崎学報』第14号P121)

と結論づけていますが、わたしは、この分析に頷けます。

では、それが「国立」かどうかという点ですが、そもそも、日蓮の在世、鎌倉時代にいう「国立」ということ自体、ここのところの議論において、あまりに曖昧模糊としています。

日本史にいう「鎌倉時代」という表現は、正解とは言い難く、京都は厳として継続していたわけです。

日蓮は念仏停止(ちょうじ)の訴えを『立正安国論』をもって、武家政権の実質的な長に上申したわけですが、この時点で日蓮に、では下院弾痕流のアイディアがあったことは窺えません。

本弟子においては、たとえば日興は武家に『申状』を呈していますが、日目の上洛、所謂「天奏」は、朝廷をターゲットにしたものでしょう。

朝廷と武家、漫荼羅における図示に「天照太神」「八幡大菩薩」とあるところですが、では、日蓮の意図として事相戒壇は、このどちらを睨んでいたのか、わたしは朝廷に向いていたと思えます。根拠は小乗戒壇、迹門大乗戒壇ともにそうであったからです。となれば、、武家になした上申は、専ら、その意図は念仏停止、また、他国侵逼難難勃発における敵国調伏の祈祷を法華経をもって、日蓮が仰せつかることを目的にしたものであったというのが真蹟遺文から斟み酌れるところであろうと考えます。


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