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素朴な疑問

1054アネモネ:2003/11/30(日) 13:26
(つづき)
話を預言書に戻しますと、その旧約聖書イザヤ書の中にやがて救い主が到来すると言うメシヤ預言が記されているわけです。参考までにその一節をあげると、
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
とあるわけです。

しかし、ユダヤ教の預言者がいうところの救世主が誰であるかは、いわゆる近親憎悪のはじまる大きな分かれ目といえるかもしれません。
ユダヤの預言者が記す救世主とは、は恐らくイスラエルの民(ユダヤ人)を救う救世主を意味しているわけですから、ユダヤ教の祭司に批判的だったイエスを救世主とするわけなにはいかないのは当然ですね。イエスが救世主であっては都合が悪いわけで、だからこそイエスを法廷に引きずり出して処刑させたわけです。ですから、ユダヤ教の立場に立てば、イエスを救世主とみなさない以上、救世主の降誕の聖書の預言は、今日も尚待たれているということになるわけでしょうね。

余談になりますが、戦争と一言でいうと、武器をもってドンパチするのが戦争だと思いがちですが、実はそればかりではないといえるでしょう。たとえば、拉致やテロも戦争のひとつの手段ですし、スパイ活動も情報戦というひとつの手段ですし、そしてさらには思想戦という高等戦術もあります。
欧米列強は、世界中の資源と領土を制覇しようと、侵略の急先鋒として宣教師を送り込み一般人の思想懐柔をしてきたという見方が出来るわけです。キリスト教布教を巧みに利用した思想戦という側面において私は、イエスのことは今でも好きですが、キリスト教への思いは複雑です。同じように、布教の使命ということが強調される教えに対して、警戒してしまいます。
常に人々の純粋な信仰心や信念、そして善意が、大きな力、いわば権力に利用されるわけですが、戦争に利用された善意は、もはや善行といえるものではないでしょう。善意が悪行に利用されないように警戒することのほうが、善行といえるのではないかと思うものです。そのためには自分がしっかりしなければならないわれですから、布教や弘法がどうあるべきかということを、その考えを人に委ねたりせず、個々の信仰者が自ら常に自問自答してみる必要があると思いますね。この掲示板が、そのための意見交換の場である要素を持ち続けてほしいなと願います。


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