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素朴な疑問

1024犀角独歩:2003/11/27(木) 15:08

―1023からつづく―

また、このような菩薩道は、なにもわたしがここに記すまでもなく、日本仏教のなかでもかつて営々と培われ実践されたことでした。この点については『創価学会の功績を考える』のスレッドで、『現代宗教研究』第37巻掲載の『日蓮宗のビハーラ活動 ― その理念と意義』を紹介しました。また、このような活動は他教団でも広く認識、実践されているところです。

> 菩薩の道で、蓄財を禁止することは、基本中の基本

この点はお言葉を返すようで恐縮ですが、少し違うと思うのですよ。
シャキャムニの教団では、一切の生産活動が禁止され、蓄財ももちろん禁止されていました。その後、シャキャムニが没し、100年ほど経てバイシャリーで起きた分裂の時点で、金銭で供養を受け取る改変が起こります。菩薩思想は、こちらの流れで、在家実践家、それも裕福な人々が、その蓄財を持っていかに仏教を実践しようかとした動向に関わるのだと思います。

ただし、アネモネさんが菩薩の蓄財を戒めるのはやや意味が違うかも知れませんね。
仏法名目で財貨を募り、それを着服する横領詐欺行為を糾弾してこのことと拝察いたします。

わたしは、この点についても厳しい論及をしてきました。
かつて記した拙書のなかで

「神仏に仕えるはずの集団と人間が莫大な布施・献金を着服する。これを中間搾取といわずして、ほかになんと言えばよいのであろうか。それら集団と指導者は、神仏と信者の中間に立ってすべてを持ち去るのである」(拙書『あなたは違う方向に歩いている』前書)

> 法の修行とは、何のために行うことなのでしょう。

これは先にみかんさんが記したとおりであろうかと存じます。
シャキャムニの行法の目的は滅苦であったろうと思います。

> 修行とは、自分の為の行…それとも他者の為の行

初期仏教教団は己の滅苦を目的とした自利に即したものであったろうと思います。
その後、勃興するいわゆる大乗運動とその菩薩精神は、そこに新たに利他の側面を添加したものであったとわたしは思います。
菩薩道はジャータカに見られるものの、それはシャキャムニと遡源できるものではないと思えます。後世の新たな展開であったのでしょう。けれど、人類の秀でた精神活動である菩薩道が、仮にシャキャムニに由来するものでなくとも採用すべきであるというのが、わたしの考えです。

> 折伏の名を借りた組織勧誘は、弘法という菩薩行に解釈されていること、
> これが法の歪曲であるならば、ことは深刻だと思いますね。

ええ、仰るとおり、わたしも「歪曲」であると考えます。


> 本尊…「象徴の病」

この点から考えるべきであると思います。
また、この視点からの批正に絶えられない本尊論であれば、もはや、今後の社会では通用しないものとなっていくことでしょう。

> お釈迦さまの直説…本尊…使われていなかった…自灯明、法灯明

「本尊」語は先にも何度か記しましたが、そもそも天台教説にすら現れません。
先に福田さんが「無仏の時代は法を本尊」ということを記されていました。この考えは、天台の教説とは本尊語の使用で違い、蓮師の教説でも寿量仏観で違うとは思います。しかし、シャキャムニの遺言からすれば、何も間違っていません。シャキャムニは自身が仏陀(覚者)である自覚はあったでしょうが、自身を崇めさせたり拝ませたりする考えは元よりなかったでしょう。アネモネさんがここに記されるとおり、自らを灯明とし、法(ダルマ)を灯明として、歩むことを遺言されたのであろうと拝察します。


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