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井戸端すれっど「山門前」
92
:
犀角独歩
:2002/06/10(月) 08:06
一字三礼さん:
> 末法は基本的には無仏というより、「雖近而不見」の時代
そうであると思います。
仏を見るか否かは各人の徳に係る問題であるというのが寿量品の意義であると思います。ところが仏は薄徳の人には見えない、故に仏像に刻み、その尊崇を促すことが必要である、必要であるけれど、それを為すのは地涌菩薩の使命であるというのが本尊抄の意義でしょう。もちろん、仏像を立てるのは教主を闡明にし、此の経を弘めるために他ならないのでしょう。また、聖人は此の経を久遠から見る故に、釈尊在世の様子を記した法華経教典ではなく、主題の五字を採り、それを宣べるために曼荼羅と図示したのであろう思うわけです。
仏が今まさに在す前提で考えるのか、そうでないのか、が一つの分かれ道になっています。仏がいない前提で新しい仏を考えるなどというのは逸脱も甚だしい、もっと言えば薄徳の議論であると思うわけです。
> 題目のとらえ方によって違った解釈がうまれて来る…
これはまさに仰るとおりですね。
私は日蓮と仏教を考えてきて、一つ気が付いたことは論を極まれば極まるほど主客転倒が起きているということです。本覚思想、恵心流口伝には特にこの傾向を見るわけです。
諸解釈というのは時代を経るごとに複雑化し、煩雑となり、そして難解になっていきます。学問的には後代ほど煩瑣な構築を為すようになる。すると恰もあとのもののほうが“上”であるという思いが生じることになるわけです。具体的にいえば、法華経より止観のほうが上であるといった具合です。それがさらに止観より御書のほうが上だとなり、となると、釈尊より天台が上だ、天台より日蓮が上だとなっていくのでしょう。しかし、これはまったく誤った解釈ですね。
日蓮>天台>釈尊、曼陀羅>止観>法華経
この誤った考えにとらえられると、解釈は糸の切れた凧の如くです。どうにでもいうことが出来ることになります。しかし、解釈の根本は法華経です。ですから、法華経の説相に違反する解釈は己義荘厳の虚言として退けなければならないはずです。思い返せば、以上が私の思惟の基礎です。
我本行菩薩道・我実成仏というのに、即座開悟といえば説相の相違するでしょう。
寿量品に常住此説法というのに、新しい仏を立てるなど、途方もない冒涜となるでしょう。
天台は法華経に忠実であり、聖人は法華経・天台に忠実であることは学ぶほどにわかることです。
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