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井戸端すれっど「山門前」
73
:
犀角独歩
:2002/06/07(金) 07:11
モモさん:
> 「御内拝の実感」については主観的にはどう思われますか。
すばらしく、そして、感動的です。罪障消滅したという実感がありました。たぶん、自分が参列した宗教典礼のなかで、あれほど、胸に迫るものは他に類例がないでしょう。しかし、感動を与えてくれたものが真であり、正であるというのは短絡です。
感動が教義の是非を定めるものではないはずです。罪障消滅をしに登山をする、しかし、本当に罪障消滅をしているのでしょうか。功徳を積んでいるのでしょうか。そういう実感で“その気になっている”だけではないのかと反省したみたわけです。
広宣流布を祈る、世界平和を祈る、他の人のことを祈る…、しかし、祈るだけです。祈るだけで「世界平和を考え、貢献している」と本気で考えている烏合の集団に成り下がっているのが、今の石山とその周辺グループでしょう。
祈るだけで何ら動かない、富士門信徒は自己陶酔で自己満足しているのに過ぎないと私には映じます。そして、それが過去の自分の姿であったわけです。
聖人は『八風抄』に
賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり。をを心は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。
もちろん、私は賢人ではありませんが、八風の喜怒哀楽に心を揺るがさないように努めることが聖人の教えであると考えています。
モモさんが日蓮本仏、板曼荼羅信仰を容易に捨てられない気持ちは、私にも充分にわかります。しかし、私は、こう考え直してみたのです。
「もし、日蓮本仏論が聖人の教えでなかったとしたら、私は聖人の名の下に聖人に背いているのだ。
もし、聖人の教えが久遠成道の釈尊を本尊とするものであるとすれば、私は聖人の教えに背いているのだ」
そのときに私の脳裏をかすめた御書の一節が
日蓮を用ひぬるともあしくうやま(敬)はヾ国亡ぶべし
でした。
日蓮本仏論は信の領域ではありません。教理の一面です。ですから、その教理の発生が聖人に由来するのであれば、それを採るもよいでしょう。しかし、聖人に由来しないものであるとすれば、それを採るべきではないというのが私の主張です。
残念ながら、明らかに日蓮本仏論は有師に確立され、寛師によって荘厳された後天的な虚構の教理です。それはまじめに資料を読み込んでいけば、容易に理解できることです。
しかし、この容易さを困難にしているのは「疑うことは謗法だ、疑うと地獄に堕ちる」という刷り込まれた恐怖心です。ですから、日蓮本仏論、もっと言えば、自分が所属している団体、指導者を疑おうとするとき、途端にスイッチがオフになるように心理的に制御されている自分自身に先ず気がつかなければ、前に進むことは出来ません。この制御する心理プラグラムを『マインド・コントロールの恐怖』を記したスティーヴン・ハッサン氏は“思考停止の技術”と呼んでいます。
さらに、こうも記しています。
「恐怖症も人々の選択の自由を奪う。メンバーは、グループの安全圏を離れると自分は破滅してしまうのだと本気で信じる。自分が霊的、知的、情緒的に成長する道はほかにないと考える。このマインド・コントロールの手法によって、彼らは事実上奴隷にされてしまっているのである」
「マインドコントロールは、露骨な物理的虐待は、ほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な植え込み効果をつくりだす。本人は、直接おどされるのではないが、だまされ、操作されて、決められたとおりに選択をしてしまう」
特に「決められたとおりに選択をしてしまう」のに、自分で選択したと思い込もうとしている姿を、実は私はモモさんにも見るわけです。
自分が強盛な信心と思っているものの実態が何であるのか、自己弁明、自己陶酔を越えて、その正体を凝視する勇気を持つことが大切であろうかと思います。
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