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井戸端すれっど「山門前」

71犀角独歩:2002/06/06(木) 18:36

無徳さん:

記しても、聞き入れていただくこともないでしょうから、無駄とは思いますが、取りあえず、問いかけられたことにはお応えしておきます。

> 逆に独歩さんは日蓮本仏否定という固定観念に囚われている可能性はないでしょうか?

ええ、これはまったくありません。私は40年間、日蓮本仏論者であったのです。それを翻す勇気は並大抵のものではありませんでした。自分で納得いく答えに、自力で到達した結論を記すばかりです。もちろん、信の領域だ、証拠は示せないなどと逃げ口上は一切しない論理の組み立てぐらいは出来ているつもりです。聞く耳を持たない人には伝わらないだけでしょう。

それにしても、私は誠実に記したつもりです。こんな切り返しで応じられることを残念に思います。

> 日蓮正宗内においては多くの御僧侶や信徒達が日蓮本仏を信じて止まない訳ですがその全てが固定観念に囚われているせいでしょうか?また歴史を逆さ読みしているのでしょうか?

そのとおりであると思います。寛師の言に随うばかりのことでしょう。
まして、「多くの」というところでも、顕正会を合わせても数百万のことでしょう。翻って釈迦本仏を信じる人々は幾ばくぞや、まさに井の中の蛙が大海を見ざるという印象しか受けません。

なお、無徳さんは絶待妙の意味を取り違えていませんか。ちゃんと原文から読んでいるのでしょうか。絶待妙は妙を解するものであって、日蓮本仏を論ずるものであるはずはありません。

花野師の言はまるで話になりません。

けれど、無徳さんが「信仰とは自己の心的領域(己心)に、ある絶対なるものを措定(定立)することによって、相対的で有限なる自己を反省するためもものとも言えるのでは
ないかとは思います」と言われる点には、やや賛同します。しかし、結論は違います。この定立するものを聖人は久遠五百塵点成道本門教主釈尊と本尊を取り定められたのでしょう。

> 「真理」というような概念が妥当することに否定的でしたよね、真理を真如と捉え返す事が出来得れば許容範囲でしょうか?

いえ、許容範囲外です。第一、真理と真如はまったく発生も意味も違うでしょう。
現代語の絶対も仏教の絶対と違っているはずです。なにか、67の記述はは西洋思弁と仏教が混濁として区別されていないと感じるものです。

まあ、これ以上、続けても時間の無駄です。今回はこれくらいで終わりにしましょう。


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