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井戸端すれっど「山門前」

67無徳:2002/06/06(木) 00:13
独歩さん今晩は:

>無徳さんをはじめ、本仏論者の論法というのは、「歴史を逆読みしている」と
>思うのです。

>まずはじめに日蓮本仏という大前提が植えられ、そこから、逆に日蓮に戻って
>考えていくというやり方です。ですから、当初に日蓮本仏が、いわば固定観念
>として植わった段階ですべて読もうとするので、すべてその説明であると感じ
>取ってしまうのではないでしょうか。

 それはどうでしょうか?逆に独歩さんは日蓮本仏否定という固定観念に囚われ
ている可能性はないでしょうか?

 おそらく独歩さんは日蓮御坊の真筆とされる御書の内容に照らしてどこから見
ても日蓮本仏とは読む事は出来ないとされるのでしょうが、日蓮正宗内において
は多くの御僧侶や信徒達が日蓮本仏を信じて止まない訳ですがその全てが固定観
念に囚われているせいでしょうか?また歴史を逆さ読みしているのでしょうか?

 ここで、以前、ニフティ−の「仏教思想法」フォーラムにおいて論議したもの
の援用ですみませんが、私が日蓮本仏論の立場を採る由縁を若干述べてみたいと
思います。

 『道心』と言う小冊子の第4号において花野充道氏が「宗教とは、相対者とし
ての有限性の自覚に立った人間が、「絶対」との関わり合いによって、人間存在を
意義づけようとするものである。その場合「絶対」には、二種の概念を認めるこ
とができる。一つには「絶対者」としての人格的な概念であり、あと一つは「絶
対」としての非人格的な概念である。仏教の用語を借りて言えば、前者は「仏」で
あり、後者は「法」に当たる。」と述べています。

しかし、花野氏とて日蓮御坊を一神教的な意味合いでの絶対者として日蓮御坊を
見ているわけではないと思いますが、花野氏のように「仏」を絶対者としての視点
で論ずることは誤解を生む可能性があります。

 ただ、私も信仰とは自己の心的領域(己心)に、ある絶対なるものを措定(定立)
することによって、相対的で有限なる自己を反省するためもものとも言えるのでは
ないかとは思います。
 
 ただし、私が述べた絶対的なるものも一神教的な「神」のように我々から超絶し
た絶対者ではなく、あくまで、相対的で有限なる自己を反省するための対照となり、
衆生が「己心」に「信」を確立するために感応道交すべき対象としての、南無妙法
蓮華経(法)でありそれを「本尊」として顕された日蓮御坊を仏として仰ぐことは
信仰の発露としても、また理路としても自然な事柄と思えるからです。

 さらに、日蓮仏法を絶対・相対というような対照的概念で捉えるのでなく、それ
らをも絶した「絶待妙」という規範にのっとて理解し信ずるのであれば、日蓮御坊
を「本仏」と仰ぎ信ずるのもまた不自然なことではないように思われるのですが如
何なものでしょう?。

おそらく独歩さんから見れば勝手なる解釈と思われることでしょうが、所詮「信」
を基とする宗教にあっては客観的真理など在り様が無く、天台本覚論のように常に
「即」や「不二」なる概念に支えられた「信」をメルクマールとしてのみ成立する
のが仏教的真理観とも言える様に思います。

 もっとも、独歩さんは仏教においては「真理」というような概念が妥当すること
に否定的でしたよね、真理を真如と捉え返す事が出来得れば許容範囲でしょうか?
長くなりましたので今日はこのくらいにしておきます。 無徳


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