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井戸端すれっど「山門前」

59犀角独歩:2002/06/04(火) 12:28

―58からつづく―

> (「本尊と曼荼羅」34 名前: 川蝉 投稿日: 2002/04/09(火) 16:55 より)

この川蝉さんの書き込みを引っ張ってきたスレッドでは私も管見を種々述べています。私の記したところは目にも留まっていないことは残念なことです。こちらのスレッドで私に問いかけている大半はここで既に記していました。

> 結要付嘱の意義は釈尊から大聖人に妙法の法体を還している、と大石寺は教えていると思います。

「還している」?、具体的な資料をお示しください。

> 私は御本尊は色心不二の法体というイメージを持つ

初めて聞く説です。一生成仏抄の引用はこの根拠になり得ていません。
もう少し詳しく説明いただけませんか。

> 文字即実相、実相即妙法というのですから御本尊の主題の御文字を法体と拝すことができると考えられます。

なぜ、こんなことが言えるのでしょうか。該当の御書は文字通り「文字即実相」「実相即妙法」まではわかりますが、なんで、その「文字を法体と拝する」と考えられるのでしょうか。論理が飛躍しています。

また、一生成仏抄は真跡を存しません。真筆のように扱われる根拠は何でしょうか。
さらに、もう一点、一生成仏抄は建長7年34歳の御作であるとされる書です。聖人が曼荼羅を図示されるようになるのは文永9年以降51歳の御時からです。実に17年もあとのことです。17年前の書が、何故、曼荼羅の説明になっているというわけでしょうか。

> あと「文字通り曼荼羅」とはどういう意味でしょうか。

辞典で説明するのは余り好きではありませんが、聖人真跡中に曼荼羅の説明は見いだせないので、まずこれを引きます。

〔仏〕〔梵 maala〕画面に諸仏を描いた図形や象徴的に表した記号を特定の形式で配置し、悟りの世界や仏の教えを示した図絵。

概ね、記されているところは外れていないと思います。しかしながら、聖人は

此の五字の大曼荼羅(まんだら)を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん

と記され、ご自身の曼荼羅を五字の曼荼羅、すなわち妙法蓮華経の曼荼羅であると仰せになられているわけです。つまり、ここでは曼荼羅の原語、マントラの意味である「真言」の意味(真言宗の真言ということではない)で示されておいでなのであろうと拝察します。

> そもそも曼荼羅とはいかなる意味でしょうか。

前項に記す如くであると私は拝察します。少なくても法本尊などという珍妙なお考えは聖人にあるべくもなく、故に「人法一箇で戒壇の大御本尊が生身の日蓮」であるなどという考えは片鱗も窺えない点を論じたかったのです。

> 唯受一人の相伝がなければ誰が御本尊を書写するのでしょう。相伝を認めないということであればだれでも御本尊を顕わしていいのでしょうか。

唯授一人の血脈などということは上古にその確証を見いだせないもので、私はまるで信用しておりません。

第一、唯授一人でなければ御本尊を書写していけないとはいかなる証拠を以て言われるのでしょうか。石山の中古ですら、有師は『化儀抄』に

一、漫荼羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし

と記しております。

> そういえば宮沢賢治氏の「雨にも負けず」の手帳の中に曼荼羅がありました。私は何かで見たことがあり、「謗法だ!」とそのときは思ったのですが、きっと法華経への信仰の発露として書かずにはいられなかったのでしょうと今では思っています。

この点については、私はまったく同意見です。


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