したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

井戸端すれっど「山門前」

58犀角独歩:2002/06/04(火) 12:28

モモさん:

> 「御内拝の実感とはカルトの心理技術だ」

これはまったく違います。個人的リアリティと事実は別であると言いたいのです。
どんなに感動・感激を与えるものであっても、その個人的な心理は、事実を説明することにはならないということです。

残念ながら、人間は偽物であっても、虚構であっても感動を得るものです。そのもっとも顕著な例が小説であり、テレビであり、映画でしょう。

板曼荼羅、あるいは日蓮本仏論の真偽を論ずるのに個人的リアリティは尺度にならないと言う意味です。

> 私は宗教と科学は次元が違うので同列に扱うことはできず、宗教を科学で証明することはできないと考えます。

これも私の言葉を取り違えています。
私がここで科学というのは事実認定の方法を言っているわけです。
板曼荼羅が本物であるというのであれば、科学的に計測してみればわかると言った類の話です。
また、祖書学、教学史と言った仏教学も科学ですから、そこに個人的リアリティのような感情論は持ち込まず、厳正な事実の積み重ねで解を求めていくべきであると言っているのです。

> 物理学でいう質量とエネルギーの等価性、粒子の波動性、量子力学における位置と運動量の関係などは仏教の色心不二の考えに通ずるものがあると思います。また法界は色心にわたり地水火風空からなる、とする考え方も古代ギリシアの哲学と通じております。マクロは宇宙の仕組みからミクロは粒子の仕組みまで「地水火風空」という考えと通じると思います。太陽系から隣の恒星まで数光年、その間はまさしく「空」ですね。また硬い固体も原子レベルでみれば原子核同士の間の空間は何もない真空でしょう。そのような実相が不可思議だから妙法というのでしょう。

以上のことはまったく私は賛同しません。これは失礼ながら、池田さんの『科学と宗教』『宇宙と生命を語る』に記された内容と大同小異です。仏教はこのような考えとは無縁のものであると私は考えています。

> 「不二の尊体」とは能化文書によるやや不適切な表現であると私は考えてます。

表現が不適切であると言うより、考えが不適切なのでしょう。
これは現宗門の当然の認識ですから、聖人の祖意に戻って欲しいと切望しているのです。

> 日蓮聖人が上行菩薩である文証として次のように挙げられると思います。

さんざん、論じてきたところです。お馴染みの資料で、既にコメントも記してきましたが、たぶん、お読みになっていないのでしょうから、整理して記します。

> 「此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決(くけつ)せし相承(そうじょう)なり。今日蓮が所行は霊鷲山(りょうじゅせん)の稟承に介爾(けに)計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり。」(三大秘法抄)

真偽未決の代表的な一書ですね。伊藤師がコンピュータ解析で真書と断定したことを鬼の首を取ったように論じられますが、私はこの書は偽書であると思います。
近年では正信会の山上師が貴重な発言をし、私はその研究姿勢に頭を下げました。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/ssk_sandaihiho_001.html

この書が、どうしても真筆といえるのでしょうか。

> 「後五百歳の時、上行菩薩、世に出現して始めて之を弘宣す」(立正安国会「御本尊集」第十六番・文永十一年十二月・通称「万年救護御本尊」の讃文)

この点についても、既に詳細に論じてきたつもりです。
この文中の「上行菩薩」が、どうして聖人を指すと言えるのでしょうか。

> 「日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御座候聖人を、」(頼基陳状・建治三年六月)

これは興師の代筆なのであって、聖人の真筆であるとはただちに言えないでしょう。
しかし、興師の考えの中に既に日蓮上行論が澎湃としていたのは事実であろうかと思います。この点は私も認めます。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板