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井戸端すれっど「山門前」
57
:
犀角独歩
:2002/06/04(火) 11:14
―56からつづく―
> 日蓮本仏論が天台本仏論の焼き直しとする独歩さんの理解には、私としては納得できないものがあります。先にも書きましたが日蓮御坊を本仏と観る立場はあくまで「信」に属することであり客観的には論じ切れるものとは思われません。
信の面については前項に記したとおりです。
なお、「日蓮本仏論が天台本仏論の焼き直し」と論じたのは、私ではありません。唯早坂鳳城師です
日蓮本仏論が信の領域であるといえばそれまでですが、早坂師が指摘しているような類似性を寛師教学がもっている以上、これはもはや信の領域とは言えず教理的側面に踏み込んでいるでしょう。
すでに御覧いただいていると思いますが、私のサイトにアップしてある同師の文章は非常に説得性のあるものです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/hayasaka_001.html
> 御坊自らが末法の正主(本仏)とも取れる言説…法華取要抄
私はこの文が日蓮本仏を示すものであるとはまったく思えません。記されている字句どおりではないでしょうか。
法華経の地涌菩薩への結要付属は滅後末法の弘教を勧めるものであり、故に本仏久遠五百塵点成道の釈尊を本尊と立て、法華経を弘宣することを説いているわけです。また、神力品の末尾には
日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く
斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し
無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん
是の故に智あらん者 此の功徳の利を聞いて
我が滅度の後に於て 斯の経を受持すべし
是の人仏道に於て 決定して疑あることなけん
と地涌菩薩の弘教を宣べる段で、「人」と記される以上、この弘教と受持の対象は人、すなわち菩薩・凡夫であることは明確ですから、同抄の記述となるわけでしょう。そして、その法華経を身読し説の如く弘めているのは、自分日蓮しかいないという自負の宣言ではないでしょうか。これしかし、本仏としての宣言であるわけはありません。なぜならば、法華経は久遠釈尊を中心に据えた教典であって、その初発心の弟子を地涌菩薩とし、その弟子が滅後・末の世に法華経を弘めることを記した教典であるからです。地涌菩薩が本仏というわけでも、のちに出現する人を仏であるという趣旨でもありません。
なぜ、この記述が日蓮本仏を示す文などといえるのでしょうか。
これはつまり、日蓮本仏論という思想的系譜に身を置くために、それが固定観念になって、そのようにしか映じないものと思えるわけです。正方向の歴史読み、留意されてください。
あと数点。
まず、弟子の相伝書を真書と見るか否かという点ですが、私はその書が記された背景を加味すべきであると思います。殊に江戸時代は寺檀制度が確立され、天奏どころか、他宗折伏すら覚束ないご時世であったわけですね。このような状況下、自山顕彰のための教学を横行したわけです。檀林教学も勃興するわけで、時代性を帯びた天台学の影響を各山、大いに受けることになります。これしかし、直接、聖人に由来することではありません。けれど、貫主が語ることであれば聖人の言も同じという風潮が時代は許したいたわけです。このようなものを真筆と見做して良いか、私は賛成しかねるわけです。
血脉両抄の講義などで言われるところですが、石山本には歴代の書き込みが多くあるといいます。そして、「歴代の書き込みも聖人の言として扱う」という説明を石山僧から受けたとき、私は奇異なことと感じたわけです。この根拠は言わずと知れた「代々の聖人悉く日蓮」という相伝に依るわけでした。しかし、石山歴代の書物には他山の影響を少なからず看取できる以上、直ちに聖人の言として扱えないではないか、というのが私の意見です。
もう一点。無徳さんは「聖人が仮に仏であっても、自らを仏というわけがない」と記していますが、果たしてそうでしょうか。仏は常に自らの劫国名号を宣べ覚りを開いたことを宣言するのではありませんか。また、八相を以て仏であることを示すのではないでしょうか。
以上、長くなりました。しかし、やはり、語り尽くせません。
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