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井戸端すれっど「山門前」

56犀角独歩:2002/06/04(火) 11:13

無徳さん:

31に記されることは既に過去に論じ合い結論が出なかったことですね。
また、これを議論すると長くなるでしょう。
ただ、少し私の考えを整理して書いておきます。

> 御書の真偽に関して真偽未決とされているものは、その道の専門家と言うべき方々
が研究探査しても現在時点では真偽ともに確たる証拠がない故に未決

まったく、これは仰るとおりでしょう。
ただ、本仏論者と私が違うのはその偽書・未決書の扱い方です。
本仏論者は未決書を真書として論の中に組み込む、私は組み込まない差です。どちらが誠実であるのか、私は組み込まないことが誠実であると考えるので、その方法を採ります。また、日蓮の祖書研究において基準とするべきは現存真筆なのであって、それ以外に基準とするべきものは何もないと私は考えます。

無徳さんをはじめ、本仏論者の論法というのは、「歴史を逆読みしている」と思うのです。

まずはじめに日蓮本仏という大前提が植えられ、そこから、逆に日蓮に戻って考えていくというやり方です。ですから、当初に日蓮本仏が、いわば固定観念として植わった段階ですべて読もうとするので、すべてその説明であると感じ取ってしまうのではないでしょうか。

私は歴史は正方向に読まないと取り違えると思うわけです。
聖人の確実な真筆というもの、また、その後の資料を、成立年代を加味して読み進めていくと、実際には日蓮本仏という考えはなかなか出てこないわけです。ようやくとその片鱗が滅後100年ぐらいに見られ、確定化されるのは450年後となります。

また、日蓮本仏という考えは本仏・迹仏論と言うより、祖師信仰に分類される一面があります。しかし、この傾向は聖人に見られません。祖師信仰の濫觴は確かに興師に見られますが、しかし、興師はあくまで本師釈迦如来という聖人の説を踏襲していました。やはり、明確になるのは有師であり、確定は寛師でしょう。過去から順番に資料を読んでいくと、このようになります。


> 御書の内容から中古天台本覚論的である故を持って偽書と決めつける方もいますが、
日蓮仏法は本覚論的理解なくしては画竜点睛を欠く

これは二つの考えが立て分けられていませんでしょう。本覚論と中古天台本覚思想(恵心流口伝法門)とは鎌倉期辺りを境にして別のものと考えるべきではないでしょうか。さらにまた、私は天台大師と妙楽大師の相違をも加味すべきであると考えています。

聖人に本覚思想の影響がないわけはなく、また、密教、念仏の影響もあると私は思っています。ただ、聖人の思想的な系譜は晩年になればなるほど、それらの影響から脱化され、純天台的な傾向を示すようになっていったと私は考えています。

ただ、これと中古天台の影響とは別のことです。簡略に申し上げれば、聖人在世に成立していないものが入り交じった文書が真書として扱われて入れば疑義を挟むと言うことではないでしょうか。このなかで私は聖人在世に『秘密荘厳論』は成立していなかったのではないのか、あるいは成立していても聖人はご存じなかったのではないのか、またご存じであっても依用されなかったのではないのか、と考えるわけです。理由は真筆御書に同書の引用も、思想的影響も見られないからです。久遠元初自受用報身如来、無作三身、一身即三身というタームがまったく聖人の真筆に見られないわけです。

> 「日蓮本仏論」といったあくまで「信」に属する事柄を、客観的に証拠を持って論ずることは出来得ない

信の領域のことであれば、それは何でもありでしょうし、個人的な考えですから、言ってみれば「勝手」であると私も思います。「鰯の頭も信心」でしょう。
ただ、日蓮本仏を無徳さんにしろ、あるいは菊水護国さんも信の領域でとらえようとすることは、私は善意的であると思います。

しかし、石山における日蓮本仏論は、はたして信の領域でしょうか。それを唯授一人の相伝と鼓舞し、教理的に組み立てていませんか。その代表が寛師です。私がここの掲示板で論じているのは、その教理面です。日蓮本仏以外を認めず、日蓮を菩薩と見做しても堕獄の業であるとまで豪語するわけです。

組み立てられた教理から「信」を進めている以上、その教理の是非を問わざるを得ないことになるということです。


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