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井戸端すれっど「山門前」
55
:
犀角独歩
:2002/06/04(火) 07:16
菊水護国さん:
まず、「卑下ではない」「他宗とも等しく付き合う」とのこと。立派なお考えであり、わたしのほうに誤解がありました。この点はお詫び申し上げます。
次に「偽書」について。
> 、①偽書である確たる証明は出来ないと言う事でしょうか。もしくは、②したくないということでしょうか。または、③出来るがしないという事でしょうか。
などと問われていますが、そもそも石山発行の御書においても真書・真偽未決書・偽書が掲載されていることは石山自体が認めていることです。
先に宗門より発刊された昭和新訂日蓮大聖人御書は、日朗譲状一篇のみを除き、他は古来よりのありとあらゆる初伝御書に一切を網羅されたために、偽書と真書が玉石混淆する菽麦不弁の体裁となり、初学者の信頼性と活用性にやや適切さを欠く感が存した。
また御書全集は、信徒を中心とする研鑽の状況を慮られてか、大聖人の御法門の基礎的な分野をなす初期の御書を排除され、特に戒に関する重要な二書、その中にも本門戒体抄が除かれている…(5頁)
ところが、たとえば寛師の諸説などにおいては、この点が必ずしも徹底されていません。むしろ、御書の真偽については、現段階でも研究途上であるわけでしょう。
菊水護国さんと私の考えの根本的な違いは、御書を信条面から見ようとしているのか、証拠としてみようとしているのか、差にあるのであろうと思います。
私も信条面からすれば、たとえば諸法実相抄、生死一大事血脈抄などを心肝に染めてきたのです。それは「信」の側面からすれば否定されることではないでしょう。ただ、私が真偽を論ずるのは、たとえば日蓮聖人の教えを人に説明しようとするとき、自己の責任において、真筆を存しないもの、すなわち完璧に聖人の遺文であると言い切れないものを使用する蛮勇は起きないからです。ただこのような私の考え方は、個人の特別なものではなく、祖書学をはじめ、いわば常識的判断であると私は思っています。
日蓮本仏論、戒壇の曼荼羅、御肉牙に否定的な立場がある人は、もとより信の面から、これらをとらえようとしません。そこで信仰を強調ことは一つの方法でしょう。しかし、確たる証拠を示せれば万人は納得することになります。しかし、その確たる証拠がなく、偽書・真偽未決と言われるもの真書として扱って説明されても、説得力はないというのが私が言うべきことです。
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