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井戸端すれっど「山門前」

36犀角独歩:2002/06/02(日) 11:23

―35からつづく―

(3)について。精師・寛師説を援用する現石山では、身延七面山に浮かび光を放った楠(板)に直接、聖人が曼荼羅を図し、それを法師が彫ったといい、その曼荼羅が生身の日蓮であり、戒壇の本尊であり、さらに歴代法主と不二の尊体であるというわけです。

ですから、モモさんが言うように有師が彫刻したとすれば、異説となります。さらに重要な点は、石山は図示の表記その他を以て論じているのではなく、聖人が直接記し法師が彫ったその楠板曼荼羅そのものを以て究竟というのであって、だから、元が紙面であったとしたり、また、本物の板曼荼羅は御宝蔵にあって身代わりを内拝させているとすれば、まったく寛師説とも食い違う欺瞞であることになるということです。

モモさんが言うことに類似した見解を最初に述べだしたのは知る限り久保川法章師であったと記憶します。

(4)の日蓮上行論について、私が是認するかの如く記されていますが、しかし私は日誠さんとの議論の中で慎重にこの点を記しました。むしろ、私は日蓮凡夫論者であって、その中から上行菩薩として有り様を聖人は模索されていたと拝しているわけです。

(5)日蓮の真筆の曼荼羅は結要の法体という点について、このように私はまったく考えていません。

曼荼羅は聖人の言を籍りれば「魂を墨に染め流した」ものであるのでしょう。けれど、紙幅である曼荼羅自体が法体ではなく、その法体に至る標として図示された、文字通り曼荼羅でしょう。

この実在化された実体を直ちに法体という石山義は大乗仏教の空論から逸脱した器物崇拝という小乗仏教にもならない外道義であるというのが私の考えです。

そもそも、法が文字に表せたり、形像に表現できようはずはありません。天台大師の「言語道断・心行処滅」の言を思い合わせるべきでしょう。表すことができない故にそれ覚知するために大師は止観を示し、聖人は唱題を教えたのでしょう。

ただし、聖人が遺されたものはいずれも尊いものです。それらを大切に扱い、未来永劫に保存していくことは当然のことでしょう。

あと、聖人は自分が記された曼荼羅が板に刻まれたり、形木とされるなどと考えていらっしゃったとは思えません。さらに曼荼羅が必要であれば、紙筆を以て図示する手だてを弟子に教え、書写の方途を示されたのにとどまっていたはずです。ですから、戒壇の曼荼羅に限らず、寺院その他に安置の板曼荼羅、印刷(形木)曼荼羅、その他も聖人の祖意とは異なるものであると私は考えています。

なお、上述とは別に

> 「日蓮本仏論は『大石寺の相伝』の中でしか論じられない、
相伝がなければ本仏論を示すことはできない」ということを再確認

この意味は私には取りかねますが、日蓮本仏論の原型は先にも記したとおり、天台本仏論なのであって、また、日蓮本仏義の緒はむしろ、眼師、教師に求められるのではないでしょうか。

それにしても「相伝がなければ本仏論を示すことはできない」とは一体いかなる意味でしょうか。


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