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井戸端すれっど「山門前」

31犀角独歩:2002/06/01(土) 09:23

モモさん:

堂々巡りにはまっていますね。
ここの掲示板は、大石寺法門に戻るようになる“心理的プログラミング”の術中に陥っている人には意味を持ちようがありません。まず、自分が心理操作をされている、また自ら心理操作をしてしまっている点を見極めることが肝要であろうかと思います。

私はモモさんに偏見を持つわけでも、人間性を否定するわけではありません。むしろ、お会いしたことのある親しみのある知人の一人として、友好的に思っています。それを前提として、しかし、以下に、書き込まれた言葉の中の心理操作面を指摘させていただきます。

> 私は客観的に見て大聖人は限りなく仏に近い方だと思います。

この論の展開は客観視による日蓮本仏論の肯定と言うことなのでしょう。
「客観」という言葉によって日蓮本仏論の正当性が鼓舞される形になっています。
しかし、「客観性」といいながら主観的な石山信仰になっています。
つまり、主観を客観と言い換えること(あるいは思いこむことによって)論が成り立っています。残念ながら、まったく客観性はありません。故に、客観性から日蓮本仏論が正しいとは言えません。

> 日蓮本仏論は大石寺の相伝と一体である、ということも改めて再認識しました。
すると大石寺の相伝とは一体何なのか、と思います。

これもまた、「大石寺の相伝」というものを、勝手に実体化することによって成り立っている論の展開でしょう。もし、大石寺の相伝というものがあれば、それがどのようなものであるのかを確証するべきでしょう。

私は過去1年間、石山の相伝は興師の重須における教学展開を基礎に曼陀羅正意論、仙波口伝・禅宗の影響を受けた有師、各所から資料収集をした精師を基礎に、それまでの各山教学を総括・整理し、石山正当論を構築したのが寛師であったと点を種々検討してきました。しかし、それはモモさんの芽には映じないのでしょう。

「詳細な検証よりも、主観的な実感、インスタントな結論を求めてしまう心理構造」とは何であるのかを冷静に考えてみることをお薦めします。

> 何よりも、本門戒壇の大御本尊様の存在と御内拝の実感です。

過日、私のもとにやってきた現役の法華講員の方が「正本堂から移ったので間近に戒壇の御本尊を拝せるようになったので、じっくりと隅から隅まで観た結果、これが750年の歴史を経たものであるとは、どうしても思えなくなった」と感想を述べていました。
「この方の実感が正しい、いやモモさんが正しい」などと二者択一を論じようとするのではありません。所詮、個人的な実感は尺度にならないということです。必要なのは証拠です。

> 空に輝く太陽があります。太陽がなければ地球上の生命はどうなるでしょうか。
またこの世に太陽がない、なんていう人はいません。
戒壇の大御本尊もそれと同じだと思うのです。

二つの異なった文章を一つにつなぐことによって自分の考えを肯定するモンタージュ技法を使用されています。

空に輝く太陽がなければ、地球の生命が成り立たないことは事実です。太陽がないという人もいません。ここまでは合っています。この合っている既成事実を戒壇之本尊と=で結ぶというのはいかがなものでしょうか。私には牽強付会であると言うしかありません。

> 弘安2年の御本尊のことが示されている真筆に日興跡条々の事があります。私はそれで十分だと思うのです。

この点について、かなり詳細に論じてきたようですが、やはり馬耳東風なのでしょうね。また、30に問答名人さんが記しているので、省略します。

冷静に自己分析をされることをお薦めします。


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