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井戸端すれっど「山門前」

109一字三礼:2002/06/13(木) 19:27
根本仏典などを読んでいると「本尊」と言うものは、はなはだ非仏教的な概念に感じられます。

不敬な言い方になりますが、突き詰めれば「本尊」とはどのような役割をするものなのでしょうか。
それを対象物として題目や経を唱えたりする為に、作られる事を前提とした存在なのでしょうか。
もしくは、聖人お認めの大曼荼羅の様に行者の宗教体験を表現したものを指すのでしょうか。

私は「本尊」、「大曼荼羅」、「仏像(一尊四士)」はそれぞれ違う存在であると考えています。

まず、蓮祖聖人の仰る本門教主釈尊とは、純粋に教義的・観念的・体験的な存在で、どのような形でも表現され得ないもの。これは法華経寿量品のように、不惜身命の行者にのみ自覚される対象でこれを「本尊」と呼ぶ。

次に「大曼荼羅」とは、行者のみに知覚され、厳しい修行、内省の深まりと共に序々に顕現されていく「時我及衆僧。倶出霊鷲山」の浄土観を強信の弟子達にも疑似体験させる目的で認められたもの。しかし、それは紙上に文字で表し、客体化し、崇拝対象となった時点で、行者の体験した世界とは自ずから異なるが、究竟の方便と言う意味で非常に重要な尊崇対象である。

前者の「大曼荼羅」は法華経虚空会と顕わしたとされる。しかし、法華経には登場しない不動・愛染の梵字悉曇、実在した龍樹以下の諸師、また日本古来の神々の表記などがある。これらのことから、その座配はあくまで末法限定・日本限定で個人的の体験や経験、主観を元にした、蓮祖聖人ローカルな浄土観であった。
これが「仏像(一尊四士)」の場合は「大曼荼羅」と同じく尊崇対象ではあっても、かならずしも聖人の教義、化導を必要とはしない。いわば、法華本門の信仰であれば、必然的にたどり着く尊崇形態である。
これを言いかえれば、「大曼荼羅」を尊崇対象とするのは、法華宗日蓮派。
「仏像(一尊四士)」を奉るのは汎法華宗。

以上が私の本尊観です。なんかすんごい事、言い切っちゃってますが。


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