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日興上人の身延離山について

1空き缶:2003/11/29(土) 01:14
日興上人身延離山というと、大石寺系は必ず「波木井謗法説」を出してきます。しかし、日興上人の真筆が現存する「本尊分与帳」(北山本門寺蔵)では

「一、甲斐國南部六郎入道者日興第一弟子也。仍所申与如件。」

とあります。
「甲斐國南部六郎入道」とは、波木井実長日円を指すと考えるのが通説です。そして日興上人は、この「甲斐國南部六郎入道」を高弟の日目上人等と同様に「日興第一弟子也」と申されているのです。
この本尊分与帳では、弟子としての道をまっとうできなかった者には、「背きおわんぬ」等と付け加えられています。そして、この本尊分与帳は波木井実長の死後に書かれたものであるため、「甲斐國南部六郎入道」が、通説通り波木井実長日円であるならば、波木井実長は最後まで「日興上人の弟子の道」を全うされたことになります。

ROCKさん、皆さん、ご助言をお願いします。

2ROCK:2003/11/29(土) 02:08
空き缶さん、こんばんは。

日興師と波木井氏の関係について考えてる。まず「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」
(正本:重須本門寺)によれば、

──────────────────────────────────
一、甲斐國南部六郎入道者、日興の第一の弟子也。仍つて申し与うる所件の如し

(「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」『日蓮正宗歴代法主全書』1巻、p91、1972年)
──────────────────────────────────

と記されており、堀日亨師は『日興上人身延離山史』において「白蓮弟子分与申御筆御
本尊目録事」を引用し、

──────────────────────────────────
以上、第一の信者弟子七人は何れも武士である、南部六郎は即波木井日圓で此下
に一族十人を列してあるが、背了の黒印は附していない、御離山後双方に多少の交
渉が隠顕して一縷の望みが残っていたと見ゆる

(堀日亨『日興上人身延離山史』p90、興門資料刊行会、2002年)
──────────────────────────────────

と述べている。これによれば、日興師は身延離山後も日円師と交信をとっていたと推考
できるのである。真実、「多少の交渉が隠顕して一縷の望みが残っていた」のであれば、
『富士一跡門徒存知事』の「よつて義絶し畢んぬ」という文は疑う必要がある。
ところで、十二月二十八日付の「六郎入道殿御返事」(正本:富士妙蓮寺)によれば、

──────────────────────────────────
米の紙袋一・串柿五連しろしめして候にいつれもこれにてはめつらしさ申はかりなきもの
にて候。めいめいに給候事おそれ申はかりなく候。なをなを御世間こそおもひやりまいら
せて候に種種にあつかり候事聖人の御宝前に申上まいらせて候。恐々謹言。

  十二月二十八日
                                            白蓮花押
(「六郎入道殿御返事」『日興上人全集』p211、興風談所、1996年)
──────────────────────────────────

と記されており、興風談所は「本状は身延離山後のもの」(興全p211)としている。
十二月二十八日付の「六郎入道殿御返事」が身延離山後の著述であれば、日円師に
謗法はなかったということであろうか。或いは、この著述が成立した時点においては、日
円師の謗法が改まっていたということであろうか。
何れにせよ、日興師が日円師から御供養を受けている時点で日円師に謗法はなかった
とせねば、大石寺門徒がしばしば用いる「日興遺誡置文」の、

──────────────────────────────────
一、謗法の供養を請く可からざる事。

(「日興遺誡置文」『日蓮宗宗学全書』2巻、p132、1983年)
──────────────────────────────────

との教示に日興師自身が背くことになるである。

3ROCK:2003/11/29(土) 02:09
>>2の続き]

また、正信会は正月十三日付「六郎入道殿御返事」について、

──────────────────────────────────
この書状は日興上人が身延を離山されて五年後くらいのものと考えることができる。つ
まり、離山後も日興上人と波木井実長とのあいだには音信が続いていたことが推測で
きるし、こうした同上人の身延離山後の実長に対するご教導と思われる書状からも、上
人は実長をなんとか正道にもどしたいとのお心を抱かれていたと察することができる。

(『日興上人』p112、継命新聞社、1991年)
──────────────────────────────────

と述べ、「上人は実長をなんとか正道にもどしたいとのお心を抱かれていた」としているが、
十二月二十八日付「六郎入道殿御返事」の存在によって、この正信会の説はそのまま通
用せぬであろう。
これらのことから考えられるケースとしては、①日円師に謗法はなかった②日円師に謗法
はあったが後に改められた―という2つに分類されよう。
日円師に謗法がなかったのであれば日興師が身延山を離山することはなかったと考えが
ちであるが、「與波木井実長書」(正本:富士大石寺、但し堀師は疑義を呈している)には、

──────────────────────────────────
総じて久遠寺の院主学頭は未来までも御計い候べし

(「與波木井実長書」『日蓮宗宗学全書』2巻、p169、1983年)
──────────────────────────────────

とあり、日興師が日円師に対して「身延山の総貫首を明確にせよ」と述べたので、日円師
は日興師よりも日向師を選んだのであって、これによって日向師が身延の総貫首となられ
たので、日興師の身延における使命は一応、果たされたので日興師は元来の教線に戻ら
れただけである。と考えるのが妥当であろう。

4管理者:2003/11/29(土) 09:39
空き缶さん。
新スレッド有り難う御座います。
身延に於いての資料として、

日蓮宗 現代宗教研究所
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho31/s31_182.htm
をご参考下さい。長いですが、大聖人当時の身延の状況が書かれてます。

5管理者:2003/11/29(土) 09:53
追伸、
同じく、
日興上人「本門寺根源」初期道場の位置について
    ――重須地頭・石川氏との関わり――
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_185.htm
>>4共に石川修道
ご参考まで。

6管理者:2003/11/29(土) 09:55
またまた追伸(^.^;
すいません、石川修道=石川修道師で(師)が抜けてました。m(_ _)m

7空き缶:2003/11/29(土) 20:04

ROCKさん、管理者さん、こんばんわ。また、貴重なご意見・ご教授をありがとうございます。

日興上人の身延離山は、日向上人が住職を引き受けてくれた為、祖師様と御自らの願行である「本門寺建立」のためにあったと思っています。

これらを裏付ける正文書として「園城寺申状」「弘安五年の御下文」が、かつては伝わっていたことが日善、日仙、日目といった興尊の高弟三者の連名で書かれた「日興上人御遺蹟事」に出てきます。

日興上人御遺跡事(正本:大石寺、他)

日興上人御遺跡の事
日蓮聖人御影並びに御下文、園城寺申状
上野六人の老僧の方、巡に守護し奉るべし。但し本門寺建立の時は、本堂に納め奉るべし。
この条、日興上人の仰せによって支配し奉る事、此の如し。この旨に背き異議を成し失いたらん輩は、永く大謗法たるべし。
よって誠の状、件の如し。
 
正慶二年癸酉二月十三日
                               日善(花押)
                               日仙(花押)
                               日目(花押)


但し、どちらも(「園城寺申状」「弘安五年の御下文」)真筆も写本も現存しません。
今は、日興門流でもあまり知られることはなくなってしまいました。そして、「日興上人の身延離山」=「波木井謗法説」があたりまえのように定着してしまったのです。
さらには、波木井実長が地頭であった「身延山」そのものを日興門流は遠避けてしまいました。
興尊の御本意を知る由も無く。

8ROCK:2003/11/29(土) 23:48
空き缶さん、こんばんは。

>「弘安五年の御下文」

私はこの文書を偽書と考えています。なぜなら、堀師の指摘によれば「弘安五年の
御下文」には「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」と記され(詳伝126)
ていたからです。弘安五年の時点では富士に日蓮宗寺院は存在していません。な
のに、その時点で「富士山麓に求めん」とするのは甚だ不可解としか云えません。
とすれば、「弘安五年の御下文」は身延離山後に偽作された文書であると考えるべ
きであると考えていますので、「日興上人御遺跡事」も疑っています。
原稿のこともあるのでこれにて失礼。

9空き缶:2003/11/30(日) 00:34

ROCKさん、お忙しい中でのご助言ありがとうございます。

結局は真筆も写本も存在しないものですが、富士山本門寺構想が「園城寺申状」に書かれていたとしたら、その返事としての「御下文」に「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」と書かれていた可能性はあるのではないかと思います。

しかし、現状ではどこまでいっても希望的観測にすぎません。
私は、日興上人の身延離山=本門寺建立構想実現の旅ととらえており、「本門弘通事」「三時弘教次第」に説かれる本門寺構想が興尊に託された本門寺構想ではないかと考えていました。
興尊は波木井実長公を「謗法」等と思っておらず、身延離山と波木井実長公は関係ないのではないか、と考えています。

もし現存していたとしたら、それを最も証明する文献になっていたのではないかと思うのです。
したがって、「波木井謗法説」を主張し続ける為には、都合が悪いところによって処分されたのではないかと考えたこともありました。


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